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血液内科医、異世界転生する  作者: あ
Principal Investigator
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第七十六話:外科への遠き道程

王宮での祝宴の喧騒と高揚感も一夜明ければ過去のものとなり、レオナール・ヴァルステリアの日常は、しかし確実に、新たな段階へと移行していた。国王エルネスト三世による「特別研究科」創設の王令は、宴の翌日には驚くほどの速さで王国全土に布告された。その内容は、レオナールが宮内省と練り上げた最終草稿と寸分違わず、王立アステリア学院内に、既存の学問分野の枠を超えた自由な研究を推進し、特異な才能を持つ学生を育成するための新しい教育・研究機関が設立されることを高らかに宣言するものだった。


そして、副学長の言葉通り、学院側の準備も周到に進められており、王令発布と同時に、レオナールは正式に「特別研究科」の第一期生、そして現時点では唯一の学生となったのである。


物質科学研究センター内に用意された広大な研究個室。そこが、彼の新たな「聖域」となった。領地経営科の講義からも解放され、彼は文字通り、研究と思索に没頭できる環境を手に入れた。目の前には、ターナー教授と共に進める元素の地図作り、そして個人的なテーマとして掲げた細胞・微生物染色法の開発という、二つの大きな研究テーマが横たわっている。どちらも、彼の最終目標である「医学と魔法の融合」に不可欠な、重要なステップだ。


(これで、ようやく本格的に腰を据えて研究に取り組める……)


ベルク紙の広大な研究計画シートを前に、レオナールは深い満足感を覚えていた。窓から差し込む初夏の日差しが、真新しい研究室の床に明るい光の帯を落としている。しかし、彼の思考は、それだけに留まらなかった。祝宴の夜、ファビアン・クローウェルがもたらした情報——王国の北東辺境領、アンブロワーズ伯爵領に存在する、戦傷治療に特化した「外科的」技術の存在。そして、商家「グライフ商会」がそれを担い、限定的ながら人体解剖すら行っているという衝撃的な事実。その言葉が、彼の脳裏に鮮明に焼き付いて離れなかった。


(アンブロワーズ伯爵領……グライフ商会……そして、人体解剖)


レオナールは、窓の外に広がる、生命力にあふれた木々の緑を見つめながら、思考を巡らせる。母を救えなかった大きな要因の一つ、外科的アプローチの不在。それは、彼がこの世界で医療を変革する上で、避けては通れない壁だった。薬の開発、診断技術の向上と並び、失われた機能を再建し、病巣を物理的に取り除く「外科」は、彼の理想とする医療体系の三本目の柱なのだ。


(ファビアン殿の情報が真実ならば、そこには俺が求める技術の原型、あるいは少なくとも重要な手がかりがあるはずだ。だが……)


問題は、その情報へのアクセスの仕方だった。ファビアンも「危険な領域だ」と警告していた。いきなりアンブロワーズ伯爵領を訪ね、グライフ商会の門を叩いたところで、門前払いを食らうのが関の山だろう。彼らはその技術を「秘伝」として守り、外部に漏れることを極度に警戒しているはずだ。


(ファビアン殿の話では、一部の知識欲の強い貴族や富裕な学者が、グライフ商会に多額の謝礼を支払うことで、その解剖に『参加』、あるいは見学することも可能らしい、とのことだった。これが、最も現実的なアプローチか……? 誰が、どのようなルートでその『参加権』を得ているのか。トーマスに相談すれば、何か情報を掴めるかもしれない。ベルク商会の情報網は、王都の裏の動きにも通じている可能性がある)


彼は、友人の顔を思い浮かべた。トーマスならば、この困難な依頼にも真摯に応じてくれるだろう。だが、それには相応の「対価」——金銭だけでなく、あるいは何らかの「価値ある情報」や「コネクション」が必要になるかもしれない。


(あるいは……グライフ商会、あるいはアンブロワーズ伯爵と、直接交渉するという手もあるか? それには、彼らが俺を『信用に値する人物』だと認め、協力を惜しまないと思わせるだけの『手土産』が必要になるだろうな)


レオナールの脳裏に、具体的な「手土産」のアイデアがいくつか浮かぶ。


(例えば、抗菌薬。もし、俺が安全で効果的な抗菌薬を開発できれば、戦傷治療において最も恐ろしい合併症である『感染症』を劇的に減らすことができる。それは、彼らにとっても計り知れない価値を持つはずだ。あるいは、全身麻酔。安全な麻酔技術があれば、これまで不可能だった長時間の手術や、より侵襲の大きな処置も可能になる。これもまた、外科技術の進歩に大きく貢献するだろう)


だが、それらの開発には、まだ多くの時間と試行錯誤が必要だ。元素の研究、染色技術の開発、そしてアシュトン博士の顕微鏡……。全てが繋がっている。


(ファビアン殿は、グライフ商会では多くの亜人が外科治療の担い手として雇用されているとも示唆していた。この情報は非常に興味深い。亜人が持つとされるそれぞれの特性が、具体的にどのように外科技術に応用されているのか、あるいは全く別の理由で彼らが重要な役割を担っているのか。これも、アンブロワーズ伯爵領の医療を理解する上で、調査すべき重要な点だろう)


考えるべきことは山積みだった。アンブロワーズへの道は、険しく、そして不確かだ。


(いずれにせよ、すぐに現地へ乗り込むのは無理だ。特別研究科に転科したばかりで、まだ足元も固まっていない。まずは、王都でできる限りの情報収集と、研究基盤の整備を進めるのが先決だろう。元素の地図を完成させ、染色技術を確立し、そしてアシュトン先生の顕微鏡で微小世界への扉を開く。その過程で、抗菌薬や麻酔薬開発の糸口も見つかるかもしれない。それらが、アンブロワーズへの道を開く鍵となるはずだ)


レオナールは、机の上のベルク紙に視線を戻した。夏の強い日差しが、彼の決意を照らし出すかのように、室内を明るく満たしている。外科への道は遠い。だが、彼の目には、その道の先にある、新たな医療の夜明けが確かに見えていた。特別研究科という新たな聖域で、彼の多岐にわたる探求が、今、本格的に始まろうとしていた。

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