第七十一話:染色への道
勅許奏聞権の内定という、王国の歴史においても稀な栄誉の報は、王宮から王立アステリア学院へと驚くべき速さで伝播し、関係各所を文字通り揺るがした。レオナール・ヴァルステリアという、まだ弱冠の学生が成し遂げたローネン州での功績と、それに伴う国家レベルでの異例の処遇。その事実は、保守的な空気が色濃く残る学院内に、ある種の畏敬と、そして無視できない波紋を広げていた。
副学長の迅速かつ断固たる指揮のもと、学院側の対応は驚くほど速やかに進められた。宮内省との最終調整と王令発布を待つ間にも、レオナールが「特別研究科」の最初の学生として、その類稀なる才能を遺憾なく発揮できる環境を整えるべく、具体的な準備が着々と進められていたのだ。
その最も大きな変化の一つが、レオナール専用の「研究個室」の提供であった。これまで彼が研究の思索や資料整理に充てていた寄宿舎の個室は、確かに辺境伯の子息としての待遇は考慮されていたものの、本格的な研究資料の保管や、機密性の高い情報を扱うには適していなかった。何よりも、研究に没頭するための静かで集中できる環境が求められていた。
「レオナール君、こちらが、本日より君の新しい研究個室となる」
ある日の午後、副学長自らがレオナールを伴い、案内したのは、先日までファビアンの指揮のもと、ローネン州のサンプル分析が行われていた、あの真新しい実験棟——正式名称『アステリア学院 物質科学研究センター』の一角だった。センターの中でも特に静かで落ち着いた区画に、その個室は用意されていた。
それは、寄宿舎の自室とは比較にならないほど広く、研究に集中するために最適化された空間だった。窓からはセンターの中庭の緑が見渡せ、穏やかな自然光が差し込む。重厚な木製の大きな執務机、長時間座っても疲れにくい革張りの椅子、そして壁一面には天井まで届く書架が作り付けられており、膨大な資料を整理・保管するのに十分すぎるほどの容量を備えていた。隣接するターナー教授の新しい研究室や、中央分析室へのアクセスも容易で、まさに研究に集中するための「聖域」と呼ぶに相応しい場所だった。将来的には、この個室に隣接する形で、レオナール専用の小規模な実験スペースも設けられる計画があるという。
「これは……!」
レオナールは、言葉を失い、ただただ目の前の光景に圧倒されていた。ここならば、誰に気兼ねすることなく、研究の思索に耽り、膨大な文献を広げ、そして何よりも静かに集中して研究活動に取り組める。
「特別研究科の正式な発足、そして陛下からの王令発布までは、まだしばらく時間を要するだろう」副学長は、レオナールの驚きを満足げに見守りながら言った。「しかし、レオナール君、君の研究は一刻も早く、最高の環境で進められるべきだ。これは、学院としての、そしておそらくは王国としての総意でもある。この物質科学研究センターは、元々ターナー君の長年の功績と、そして君という才能の出現を考慮して計画されたもの。君がその中心で活動するのは、むしろ当然のことなのだよ」
「ですが、これほどの場所を私のために……。予算は……」
「心配には及ばんよ」副学長は、レオナールの懸念を察して微笑んだ。「宮内省から提示された、特別研究科に割り当てられるであろう年間の予算規模は、我々の予想を遥かに超えるものだった。それこそ、君の研究活動に必要な経費など、些細なものに感じられるほどにな。事務局の試算では、今回の勅許奏聞権に基づく王令によって、特別研究科には、数名の有能な実験助手や研究補助員を、学院の正規職員として雇用できるだけの十分な予算が確保される見込みだ。もちろん、その人選については、君とターナー君の意向が最大限尊重されることになるだろう」
「実験助手を……雇える……?」
レオナールの目に、驚きと期待の色が浮かんだ。これまで、研究に関わる細々とした作業は、ギルバートの手を借りるか、あるいは自分自身で行うしかなかった。もし、信頼できる助手が数名でもいれば、実験の準備や後片付け、データの整理といった時間を大幅に短縮でき、彼自身はより創造的な思考や、高度な実験計画に集中できるようになる。それは、研究効率の飛躍的な向上を意味していた。生活そのものは、これまで通り寄宿舎で行い、この研究個室は純粋に研究と思索、そして将来の実験のための拠点として使用することになるだろう。
「学院としても、学院規則に則った形での研究費の配分や、必要に応じた人員の追加雇用については、全面的に支援する用意がある。君は、金の心配などせず、ただひたすらに、その才能を研究に注ぎ込んでくれれば良い。それが、我々全員の願いでもあるのだから」
副学長の言葉は、レオナールの肩の荷を大きく軽くするものだった。彼は、この破格の待遇と、周囲からの期待の大きさに、改めて身が引き締まる思いだった。
数日後、レオナールは新しい研究個室の執務机に向かい、今後の研究計画と、学院での履修科目について、ベルク紙に整理していた。特別研究科への正式な転科が叶えば、これまでの学科のカリキュラムに縛られることはなくなる。しかし、将来ヴァルステリア領を治める者として、最低限必要な知識は身につけておきたいと彼は考えていた。
(特別研究科に転科すれば、講義の履修は基本的に自由になる。だが、父上やヴァルステリア家のことを考えれば、領地経営に関する知識は疎かにできない。法学、経済学、そして統治論。これらは、たとえ研究の合間を縫ってでも、しっかりと学んでおくべきだろう)
彼は、領地経営科で開講されている科目の中から、特に重要と思われるものをいくつかピックアップした。それらに加えて、以前から興味を抱いていた古代魔法文明史、博物学、そして建築史や魔道具意匠論なども、自身の知的好奇心を満たし、将来の何らかのヒントを得るために、可能な範囲で聴講したいと考えていた。
そして、最も重要な研究計画。ターナー教授とは、引き続き、あの異世界版「元素周期表」の完成を目指して、様々な物質の根源粒子の特定と性質の解明を進めていく。これは、全ての物質科学、ひいては生命科学の基礎となる、地道だが極めて重要な作業だ。
(元素の地図が完成すれば、物質に対する理解は飛躍的に深まる。それは薬の開発、毒物の解明、そして生命現象そのものの理解に繋がるはずだ。ローネン州のような悲劇を繰り返さないためにも、そして、いつか母のような病に立ち向かうためにも……この知識は不可欠なのだ)
そして、それに並行して、レオナールはもう一つの、彼自身の個人的なテーマとして、新たな研究に着手することを決意していた。
(細胞や細菌の染色技術の開発……)
彼の脳裏には、ヴァルステリア領の診療所で見た、ゴードンと名乗った男性の姿が焼き付いていた。重度の貧血、巨大な脾腫、そして進行性の全身倦怠感。前世の血液内科医としての知識は、それが慢性骨髄性白血病(CML)の典型像であることを強く示唆していた。だが、それを確定診断するための手段が、この世界にはない。
(もし、血液細胞や骨髄細胞をきちんと染色し、顕微鏡で詳細に観察することができれば……。白血病細胞の形態異常や、幼若細胞の比率、あるいは特殊な顆粒の有無などを確認できれば、診断の精度は格段に上がる。それは、CMLだけでなく、他の多くの血液疾患、さらには感染症の原因となる細菌の同定にも繋がるはずだ)
アシュトン博士の『深淵を覗く窓』MK-IIIは、微生物の存在を「見る」ことはできたが、その内部構造や、種類を見分けるための詳細な情報は得られなかった。細胞や細菌は、基本的に無色透明に近い。それらを明確に識別し、分類するためには、特定の構造や成分を選択的に染め分ける「染色」という技術が不可欠なのだ。
(前世では、ライト染色、ギムザ染色、グラム染色……様々な染色法があった。それらの原理は? たしか、色素が細胞内の特定の化学物質と結合することで発色する、というものだったはずだ。酸性の色素は塩基性の構造に、塩基性の色素は酸性の構造に……。そして、グラム染色は細菌の細胞壁の構造の違いを利用していた)
この世界で、それらの染色液に使われていた色素——エオジン、メチレンブルー、クリスタルバイオレット、サフラニンなど——そのものを手に入れることは不可能だろう。だが、原理は同じはずだ。この世界に存在する植物や鉱物の中から、細胞内の特定の成分と選択的に結合し、かつ鮮やかな色を呈する物質を探し出す。それは、途方もなく地道なスクリーニング作業になるだろう。
(ターナー先生の物質科学の知識、薬師マルクスさんの薬草学の知見、そしてアシュトン先生の顕微鏡技術……。多くの人の協力を得なければ、この研究は進められない。だが、やる価値は間違いなくある)
彼は、ベルク紙に新たな研究テーマを書き加えた。
『研究計画:細胞・微生物染色法の開発
目標:血液細胞、骨髄細胞、および主要な病原微生物の形態学的特徴を明確に識別するための染色法の確立。
アプローチ:
1.天然色素(植物・鉱物由来)のスクリーニングと化学的性質の分析。
2.細胞内構造(核、細胞質、顆粒など)への親和性の評価。
3.染色条件(pH、温度、時間など)の最適化。
4.固定法、脱水法、封入法など、標本作製技術の確立。
5.アシュトン博士の顕微鏡を用いた観察と評価。』
それは、彼が前世の知識とこの世界の魔法を融合させ、新たな医療体系を創り上げるための、具体的で、そして重要な一歩だった。元素の探求と、細胞・微生物の可視化。その両輪を同時に進めることで、彼の医学研究は新たな次元へと進むだろう。
新しい研究個室、潤沢な予算、そして優秀な協力者たち。勅許奏聞権の内定は、レオナールにこれ以上ないほどの研究環境をもたらした。彼は、その全てを最大限に活用し、自らの目標へと邁進する決意を新たにする。




