第七十話:勅許奏聞への道程、内定と新たなるステップ
翌日、レオナールは事務局長と共に、王立アステリア学院の総意として練り上げられた特別研究科創設に関する草案を携え、再び宮内省の壮麗な庁舎へと向かった。これが、勅許奏聞権という破格の栄誉に対する、学院側からの正式な初提出となる。馬車に揺られながら、レオナールは手にしたベルク紙の束の重みを改めて感じていた。それは単なる紙の重さではなく、彼の、そして学院全体の未来への期待と責任が凝縮された重みであった。隣に座る事務局長の表情にも、この重要な一歩に対する緊張と、成功への強い願いが滲み出ているのが見て取れた。
宮内省の奥深く、前回と同じく、しかしどこか空気が引き締まったように感じられる格式高い応接室に通されたレオナールと事務局長は、しばしの静寂の後、先日と変わらぬ穏やかな物腰の宮内省高官と、数名の専門知識を持つであろう役人たちに丁重に迎えられた。部屋の空気は、初回の打診の時とは明らかに異なり、これから始まるであろう具体的な審議の重さを物語っていた。
「レオナール・ヴァルステリア公子、並びに王立アステリア学院事務局長殿、本日はお約束通り、正式な草案をご持参いただき、誠にありがとうございます。学院長閣下をはじめ、副学長殿、ターナー教授からも、この草案に対する強い支持と期待のお言葉を、事前に賜っております」
高官は、レオナールから恭しく差し出された分厚いベルク紙の束を受け取ると、その場で厳粛に封を解き、鋭い、しかし公平であろうとする眼差しで、一字一句を吟味するようにゆっくりとページをめくり始めた。その視線は、草案の細部にまで及び、行間にあるであろう理念や構想の実現可能性を探っているかのようだ。事務局長が固唾を飲んでその様子を見守る中、レオナールは平静を装いながらも、内心ではこの草案に込めた、既存の学問の枠を超えた探求の自由と、それを支える具体的な制度設計が、果たして国家の中枢にどう受け止められるのか、強い緊張と、しかし確かな自信とが入り混じった複雑な心境でその瞬間を待った。
高官が読み進める間、同席する役人たちも、手元の写しに目を通し、時折ペンを走らせたり、小声で何かを確認し合ったりしている。それは、単なる儀礼的な確認ではなく、国家の将来に関わる重要な提案に対する、真摯な検討の過程そのものであった。レオナールの額には、いつの間にかじわりと汗が滲んでいた。
一時間以上に及んだであろう沈黙の時間が過ぎ、全てのページに目を通し終えた高官は、ふぅ、と一つ息をつくと、顔を上げた。その表情からは、まだ最終的な判断は読み取れない。
「ヴァルステリア公子、そして事務局長殿。詳細な草案、確かに拝見いたしました。公子の熱意、そしてそれを支える学院の皆様の深い洞察力と、王国への貢献の意志、強く感じ入りました」
高官は、まずそう切り出し、レオナールと事務局長に安堵の表情が広がるのを見届けると、言葉を続けた。
「この草案は、宮内省として正式にお預かりし、今後、関係各省庁との調整、法制局による法的な確認、そして何よりも陛下へのご説明とご裁可を仰ぐための手続きに入らせていただきます。非常に重要な案件ゆえ、慎重かつ迅速に進める所存です」
その言葉は、草案が次の段階へと進むことを示唆していた。
「つきましては、内容の最終的な精査と、陛下への奏聞に向けた具体的なヒアリング、そして場合によっては、実現可能性を高めるための若干の修正案のご相談などをさせていただきたく、近いうちに再度、公子、そしてターナー教授にも、こちらへお越しいただくことになるかと存じます。特に、予算規模や運営組織の細部については、より詳細な詰めが必要となるでしょう。その日程については、改めて正式にご連絡差し上げますので、よろしくお願いいたします」
「承知いたしました。いつでもお呼び出しに応じさせていただきます。本日は、我々の提案に真摯にご対応いただき、誠にありがとうございました」
レオナールは、心からの感謝を込めて深く頭を下げた。事務局長もまた、安堵と期待の入り混じった表情で、丁寧に礼を述べた。まだ道半ばではあるが、大きな一歩を踏み出せたという確かな手応えが、二人にはあった。
その言葉通り、宮内省からの次の呼び出しがあったのは、それから約一週間後のことだった。今回は、レオナールだけでなく、彼の研究の師であり、新たな研究科の構想においても中心的な役割を担うであろうターナー教授も、正式に同席を求められた。
再び通された宮内省の応接室は、前回よりもさらに多くの役人たちが顔を揃え、部屋全体が国家的な決定が下される直前のような、厳粛かつ濃密な空気に包まれていた。テーブルの上には、レオナールたちが提出した草案に、宮内省の専門家たちによるびっしりとした赤字での修正意見や追記案が加えられた、さらに分厚くなった最終草稿の束が用意されていた。それは、国家の叡智が結集され、磨き上げられた証とも言えた。
「レオナール公子、ターナー教授、本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます。長らくお待たせいたしましたが、先日お預かりした草案について、宮内省としての最終的な精査と、関係各所との調整が完了いたしました」
高官は、以前にも増して厳粛な面持ちで切り出した。その言葉の一つ一つに、国家的な決定の重みが感じられる。
「こちらが、公子の草案と学院の皆様のご意見を最大限尊重しつつ、王国の法体系、財政状況、そして長期的な国家戦略との整合性を図るため、宮内省側でいくつかの言い回しの調整、運営細則の明確化、関連省庁との連携条項、そして万が一の事態への対応策などを加えさせていただいた、最終草稿となります。国王陛下への奏聞に際しましては、この最終草稿を元に進めさせていただきたく存じます。まずは、お二方で内容を十分にご確認いただき、ご承認を賜りたく存じます」
促されるままに、レオナールとターナー教授は、その重みのある最終草稿の束を手に取り、緊張した面持ちで一ページずつ丁寧に目を通し始めた。基本的な理念である「既存の学問分野の枠を超えた自由な探求の場の創設」、特別研究科の目的、そして学生への手厚い待遇(授業料免除、研究費支給、専用個室の提供など)といった、レオナールが最も重要視していた骨子は、彼の意図を汲む形で、ほぼ完全に維持されていた。
修正が加えられていたのは、主に、新設される研究科の王立学院内での法的な位置づけの明確化、予算執行の透明性と監査体制、教員の人事選考プロセス、そして研究成果が国家の安全保障や公益に著しく関わる場合の、国への報告義務や権利関係といった、より実務的かつ国家運営の観点から不可欠な細目が中心だった。それらは、レオナールの理想を損なうことなく、むしろその実現をより確実なものとするための、現実的かつ思慮深い調整と言えた。
(……私たちの構想が、これほどまでに……。単なる承認ではなく、より強固で、持続可能で、そして国家にとっても有益な形へと、ここまで高められているとは……)
レオナールは、宮内省の専門家たちの仕事の緻密さと、その背後にあるであろう王国全体の未来を見据えた深い洞察力に、改めて感嘆の念を禁じ得なかった。ターナー教授も、時折唸り声を上げながら、あるいは眼鏡の奥の目を細めながら草稿を読み進めていたが、その表情からは、内容の妥当性に対する納得の色が窺えた。特に、研究費の使途に関する厳格な規定や、研究不正防止のための項目などは、彼自身の研究者としての倫理観とも合致するものであったのだろう。
長い時間をかけた、入念な確認作業の後、レオナールは静かに顔を上げた。その表情には、深い満足感と、この重い決定に対する揺るぎない覚悟が浮かんでいた。
「宮内省の皆様の深いご理解と、多大なるご尽力に、心から感謝申し上げます。この最終草稿の内容、細部に至るまで私たちの意図を正確に、そしてより高い次元で実現しようとするお考えが反映されており、感銘を受けました。この内容で、私は完全に同意いたします」
「うむ。些か堅苦しい言い回しや、細かすぎる規定もあるように感じる部分もなくはないが、国家の制度として考えれば、これくらい厳格で明確であるべきだろう。儂も、この内容に異論はない。よくぞここまで練り上げてくれたものだ。敬服する」ターナー教授もまた、力強く同意の言葉を述べ、その声には珍しく率直な称賛の響きが込められていた。
その言葉を聞き、高官をはじめとする宮内省の役人たちの表情が、一様に安堵の色に変わった。そして、高官は、厳粛な、しかしどこか温かみのある声で告げた。
「お二方のご承認、確かに賜りました。では、この最終草稿をもちまして、国王陛下への奏聞の準備を、最終段階へと進めさせていただきます。これにて、ヴァルステリア公子ご提案の『特別研究科』創設は、本日をもちまして、正式に『内定』ということで、ご認識いただいて結構にございます」
「内定……」
レオナールは、その言葉の響きを、胸の奥で静かに反芻した。それは、彼の人生における、そしてあるいはこの異世界の学術史における、新たな時代の幕開けを告げる、重く、そして輝かしい言葉だった。長年、胸の奥深くで漠然と抱き続けてきた、既存の学問の枠組みや制約にとらわれることなく、真理を探求し、人々の苦しみを軽減するための自由な研究環境。それが、今、国家の最高レベルでの承認を得て、現実のものとなろうとしている。言葉にできないほどの喜びと共に、その計り知れない重責を改めて感じ、彼の身は引き締まる思いだった。
「今後の具体的なスケジュール、陛下への奏聞の儀式の日程、そして王令発布後の詳細な段取りなどにつきましては、改めて王立アステリア学院の副学長殿を通じて、正式にご連絡させていただきます。本日は、誠にありがとうございました。そして、レオナール公子、ターナー教授、この度の多大なるご貢献に、宮内省を代表し、重ねて心より御礼申し上げます」
高官と役人たちに見送られ、レオナールとターナー教授は、晴れやかな、しかしどこか厳粛な面持ちで宮内省を後にした。王宮の壮麗な回廊を歩きながら、二人の間には、先ほどまでの緊張感とは異なる、確かな達成感と、これから始まるであろう未知の未来への静かな期待が共有されていた。
その日の夕刻、王立アステリア学院に戻ったレオナールは、副学長の執務室の扉を叩いた。宮内省での一部始終と、特別研究科創設が正式に内定した旨を、一刻も早く報告するためだった。
副学長は、レオナールからの報告を、満面の笑みで、そして我がことのように喜んで迎えた。
「そうか、ついに内定か! やったな、レオナール君! 君の揺るぎない熱意と、卓越した構想力、そしてそれを支えたターナー君の深い学識、さらには宮内省の専門家たちの尽力、それらが全て結実した、素晴らしい結果だ。王立アステリア学院としても、これ以上の喜びはない。歴史的な一歩と言えよう」
副学長は、興奮冷めやらぬ様子でレオナールの労をねぎらった後、今後の大まかな流れについて、彼自身の見通しと、学院としての準備状況を交えながら、説明を始めた。
「宮内省からの正式な連絡を待つことになるが、おそらく、まずは国王陛下への勅許奏聞の儀式が、比較的速やかに、そして盛大に執り行われるだろう。これは、王国の内外に対し、この新しい教育・研究機関の重要性、そしてヴァルステリア公子、君の功績を公式に称えるための、極めて重要なセレモニーとなるはずだ」
彼は、そこで一度言葉を切り、レオナールの目を真っ直ぐに見据えながら、言葉に力を込めた。
「そして、そのセレモニーの直後、あるいは同日中にでも、特別研究科の創設と、その理念、組織、運営に関する基本的な枠組みを定めた『王令』が、国王陛下の名において正式に施行される手筈となるだろう。これは、国家の最高法規の一つであり、一度発布されれば、その内容は絶対的な効力を持ち、何人たりともこれを覆すことはできない。まさに、国家事業としての正式なスタートだ」
「王令が施行されれば、直ちに、草稿に記された通りの予算が、王国から学院へと配分される。そうなれば、学院側としては、特別研究科に所属する学生の具体的な選考基準の策定、教員の配置、そして何よりも重要な、最初の学生となるであろう、君、レオナール・ヴァルステリア君の受け入れ準備を、本格的に開始することができる」
副学長は、そこでわずかに声を潜め、しかし確信に満ちた口調で続けた。
「これもまだ非公式な、内々の調整段階の話ではあるが」と、彼は念を押すように言った。「王令が施行され次第、君が現在の領地経営科から、この新しい特別研究科へと、可能な限り速やかに、そしてあらゆる学事手続きにおいて円滑に移行できるよう、学院側では既に水面下で具体的な準備を進めている。必要な単位の読み替え、履修登録の特例措置、そして何よりも、君が一日も早く、その類稀なる才能を、新しい研究科という最高の環境下で存分に発揮できるよう、あらゆる事務的・制度的な障害を取り除くつもりだ。具体的な時期は、王令の発布を待つことになるが、全ての移行手続きが滞りなく完了するよう、学院としても全力を尽くすことを約束しよう」
その言葉は、レオナールにとって何よりも心強く、そしてありがたいものだった。三年次から始まった領地経営科の専門科目の重圧と、それに伴う研究時間の激減を懸念していた彼にとって、この上ない配慮であった。副学長の落ち着いた口調の裏には、レオナールの類稀な才能を最大限に引き出し、それを王国の未来へと繋げようとする、教育者としての、そして学院の指導者としての一途な思いと、強い意志が明確に感じられた。
「副学長先生……。何から何まで、お心遣い、誠に痛み入ります。本当に、ありがとうございます」
レオナールは、込み上げてくる熱い思いを抑えながら、心からの感謝を込めて、深く、深く頭を下げた。彼の異世界での探求は、多くの理解者と、強力な支援者に支えられ、今、まさに新たな、そしてより大きな飛躍を遂げるための、輝かしいステージへと、確かな一歩を踏み出そうとしていた。




