第六十話話:変人の砦、微小なる世界の誘惑
数日後、必要な連絡と警護の手配を終えたレオナールは、ギルバートと数名の護衛を伴い、貴族学院へと向かった。王立学院とは異なる、優美で落ち着いた雰囲気を持つ学び舎。彼は受付で身分を明かし、アシュトン博士の研究室への訪問を告げた。受付の者は、博士の名前を聞くと一瞬複雑な表情を見せたが、ヴァルステリア公子からの訪問と知り、丁重に案内してくれた。護衛は廊下で待機させ、ギルバートと共に、以前訪れたことのある、本館から離れた古びた別棟の奥にある研究室の扉の前に立った。扉に貼り付けられた『至高なる微小世界の探求を妨げる者は…』という、あの独特な警告文は健在だった。
静かにノックすると、中から聞き覚えのある、しかし以前のような怒鳴り声ではない、何やらぶつぶつと呟く声が聞こえてくる。
「…ほう…実に興味深い動きだ…この鞭毛の波打つ様は…む? 誰かね?」
レオナールが名を告げると、扉がゆっくりと開き、セドリック・アシュトン博士が顔を覗かせた。相変わらずの無精髭にぼさぼさの髪、分厚い眼鏡。だが、その手にピンセットではなく、愛用の『深淵を覗く窓』の接眼レンズ部分を覗き込むための補助具のようなものを持っている。彼の視線は、室内に置かれた顕微鏡に向けられており、来訪者であるレオナールを一瞥しただけだった。
(……相変わらずだな)
研究室の中も、以前訪れた時と同じく、あるいはそれ以上に、様々な標本や器具、書物、そして用途不明のガラクタで溢れかえっていた。だが、その中心で、アシュトン博士が自身の研究に没頭している姿を見て、レオナールはまず安堵の息をついた。精神的な衝撃は大きかったと聞いたが、彼の探求心そのものは健在のようだ。
「アシュトン先生、ご無沙汰しております。レオナールです。お加減はいかがかと、お見舞いに伺いました」
レオナールが穏やかに声をかけると、アシュトンはようやく顕微鏡から顔を上げ、レオナールをまじまじと見た。その顔には、驚きと、次いで安堵、そしてすぐに複雑な感情が浮かんだ。
「おお! レオナール君じゃないか! いやはや、君も大変だったそうじゃないか! その…なんだ、勅命だか何だか知らんが、ずいぶんと大事に関わっておったそうだな! そんな大仕事をしているとは、この儂に一言もなかったではないか! まったく、水臭い!」
彼は、少し拗ねたような、それでいてレオナールの無事を喜んでいるような、複雑な口調で言った。そして、すぐに表情を一変させ、大げさな身振り手振りで続けた。
「それどころではないのだよ、レオナール君! 君が知らぬ間に、この儂がどれほど恐ろしい目に遭ったことか! あれは忘れもしない、論文を完成させて祝杯をあげようと、ほんの少し、ほんの少しだけ街の社交場に立ち寄った帰り道のことだ! 何者かに襲われたのだぞ! それも、ターナーと間違われてな! あの石頭のせいで、この儂が命の危険に晒されるとは! なんたる屈辱! なんたる悲劇! まったく、今思い出しても身の毛がよだつわい!」
彼は、まるで舞台俳優のように、襲撃の恐怖(と、ターナーと間違われたことへの憤慨)を、抑揚たっぷりに語り始めた。その口ぶりは、実際に危険な目に遭った者の恐怖というよりは、むしろ武勇伝を語るかのような、彼独特の自己陶酔が混じっているようにも見えた。レオナールは、その「アシュトン節」に苦笑しつつも、彼の無事と、精神的なダメージが深刻ではなさそうなことに、改めて安堵した。
「先生がご無事で、本当に何よりです。私の方こそ、ご心配をおかけしました。例の件は機密事項が多く、事前にお話しできなかったのです。申し訳ありません」
レオナールは、彼の話を遮らずに聞き、頃合いを見て謝罪した。
「ふん、まあよかろう。君も大変だったのだろうからな」アシュトンは、少しだけ大人びた(?)態度を見せた後、すぐにいつもの調子に戻った。「それで? 何か面白い発見でもあったのかね? 君のような若者が関わるくらいだから、さぞかし退屈な仕事だったのだろうが」
「退屈だなんて、とんでもない」レオナールは首を振った。「非常に困難な分析でしたが、多くの発見がありました。…ですが、今日はその話よりも、先生にお伝えしたいことがあるのです」
彼は話題を変え、本題に入った。
「先生と私、そしてターナー先生の連名で提出した『白鳥の首フラスコ実験』の論文ですが、先日、正式に受理されました。そして、学院の掲示板に予稿が張り出され、大きな反響を呼んでいます。錬金術や神学の先生方まで巻き込んで、活発な議論が続いているそうですよ」
その言葉に、アシュトンの目が輝いた。
「なにぃ!? 受理されただと!? しかも、大きな反響!? ほう! やはりな! 儂のこの偉大な発見の価値が、ようやくあの石頭どもにも理解できたというわけか! 当然だ! 実に当然のことだとも!」
彼は、途端に上機嫌になり、胸を反らした。
「それで? 議論とな? どんな議論だね? 儂の観察眼の鋭さか? それとも、実験の完璧さについてかね? もちろん、批判的な意見などあろうはずもないだろうがな!」
興奮冷めやらぬ様子のアシュトンに、レオナールは微笑みながら続けた。
「ええ、先生の独創的な実験デザインと、それを可能にした観察眼を称賛する声が多いようです。自然発生説という長年の定説に一石を投じたことで、生命の起源に関する議論に火が付いたようですね。これを機に、微生物…先生の言う『微小なる存在』への関心も、学院内で高まっているように感じます。ですので、先生、もしよろしければ、今後も私と一緒に、この微小世界の探求を続けてはいきませんか? まだまだ、我々の知らない驚異が、あの小さな世界には隠されているはずです」
レオナールは、自然な流れで共同研究の継続を提案した。顕微鏡技術の協力も、その先に期待してのことだ。
しかし、その提案を聞いた瞬間、アシュトンの表情が曇った。彼は、先ほどの襲撃事件を思い出したのか、急に顔色を悪くし、首を激しく横に振った。
「い、いや、それは…それはならん! 断じてならん!」彼の声には、先ほどまでの自信は消え、明らかに怯えの色が混じっていた。「君との研究は確かに面白い。だがな、あれ以来、どうも落ち着かんのだ。夜道で物音がすると飛び上がってしまうし、研究室にいても誰かに見られているような気がしてな…。もう、あんな怖い思いはこりごりだ! 儂は、ただ静かに、この愛すべき微生物たちと向き合っていたいのだよ。君のように、何やら国家的な大事に関わったり、ましてや命を狙われたりするような研究は、もう真っ平ごめんだ!」
彼の拒絶は、本心からのものに思えた。恐怖は、彼の探求心よりも勝っているように見える。
(まずいな……。ここで諦められたら、顕微鏡の協力も望めなくなる。何か、彼の心に響く言葉は……)
レオナールは、一瞬考えた後、彼の最も弱い部分——承認欲求と自尊心——を刺激する言葉を選んだ。
「先生のお気持ち、お察しいたします。怖い思いをされたのですから、無理もありません。ですが、先生、考えてもみてください。我々の論文は、ただ受理されただけではありません。掲示板では、普段は他人の研究など見向きもしないような、各分野の権威ある教授たちが、こぞって先生の実験について議論を交わしているのです!『セドリック・アシュトンの実験は、我々の常識を覆すかもしれない』と。他の学生たちも、先生の名前を口々に噂しています。『アシュトン博士は、やはりただ者ではなかった』『あの観察眼は本物だ』と。このままでは、先生は自然発生説を覆した、歴史に名を残す偉大な学者として、後世まで語り継がれることになるでしょう」
レオナールは、事実を少しだけ誇張し、相手の自尊心をくすぐる言葉を並べた。
「な、なんだと……各分野の権威が、そこまで……。他の連中も……? わ、儂が……歴史に名を……?」
アシュトンの顔が、みるみるうちに赤らんでいく。恐怖心よりも、称賛されたい、認められたいという欲求が、彼の心を大きく揺さぶり始めているのが見て取れた。彼は、ゴクリと喉を鳴らし、落ち着かない様子で研究室内を歩き始めた。
「む、むぅ……確かに、儂ほどの天才ならば、歴史に名を残すのは当然のことかもしれんが……。だが、やはり怖いものは怖いし……。しかし、せっかくの偉業をこのまま埋もれさせるのも惜しい気がするし……ううむ……」
アシュトンは、明らかに心が揺れ動いていた。レオナールは、畳み掛けることはせず、ただ静かに彼の葛藤を見守った。一度植え付けられた「名誉」への欲求は、そう簡単には消えないはずだ。
(もう少し、か……)
レオナールは、アシュトンの揺れる心を見て、最後にもう一押しだけ試みることにした。
「先生、もちろん危険な目に遭う可能性があるのであれば、私も先生を無理にお誘いすることはできません。ですが、今回の論文が示したように、先生の研究は、この世界の常識を塗り替え、多くの人々の蒙を開く力を持っています。この微小世界の探求は、単なる知的好奇心を満たすだけでなく、いずれ必ず、医学や薬学、ひいては人々の生活そのものに大きな貢献をなすはずです。その歴史的な探求の中心に、先生がいらっしゃるのです。そのことを、どうか忘れないでいただきたい」
彼は、静かに、しかし熱意を込めて語りかけ、研究の意義と、アシュトン自身の功績を改めて強調した。
しかし、アシュトンは数度、首を横に振った。恐怖は、彼の心に深く根差してしまったようだった。
「……いや、やはり駄目だ、レオナール君」彼の声には、先ほどまでの揺らぎはなく、諦めに似た響きがあった。「歴史に名を残す、か…。確かに、それは魅力的かもしれん。だが、それでまた命を狙われるようなことになっては、元も子もないだろう。儂は…もう関わりたくないのだよ。君のような、何やら大きな力に目をつけられるかもしれんような研究とはな」
彼の拒絶は、固かった。共同研究の提案は、完全に断たれたかに見えた。レオナールは、内心でため息をつきつつも、仕方がないと諦めかけた。無理強いはできない。
だが、アシュトンは、それで話を終わらせなかった。彼は、少しばつの悪そうな顔で、もじもじとしながら続けた。
「……だがな、レオナール君。君には、あの面倒な論文の修正で世話になった。それに、君が微小世界に真の興味を持っていることも知っている。このままでは、少しばかり寝覚めが悪いというか、なんというか……まあ、その、だな」
彼は言葉を選びながら、思いがけない提案を口にした。
「儂のこの『深淵を覗く窓』Mk-III…これの使用を、特別に君に許可してやろうではないか!」
「え……?」レオナールは、耳を疑った。あの高性能顕微鏡を?
「ああ、そうだとも!」アシュトンは、少しだけいつもの調子を取り戻し、胸を張った。「共同研究だの、国家的な大事だのには関わりたくないが、君が個人的に、純粋な知的好奇心からこの微小世界を覗きたいというのであれば、協力は惜しまん! この儂の最高傑作の一つを、自由に使わせてやるのだ! これ以上の礼はないだろう?」
彼の目には、レオナールへの借りを返すという思いと、自身の最高傑作を披露したいという自負が入り混じっていた。
「ただし!」彼はすぐに付け加えた。「今、儂はさらに改良を加えた新バージョン、『深淵を覗く窓』Mk-IVの製作に取り掛かっておるのだ! このMk-IIIは、そのMk-IVが完成し、儂の満足のいく性能を発揮するようになった暁には、いつでも自由に使ってくれて構わん。それまでは、まあ、時々なら貸してやらんでもないがな。完成まで、そう長くはかからんだろう。なにせ、この儂が作っているのだからな!」
新バージョンの開発に言及することで、彼は自身の技術力の高さを誇示することも忘れなかった。
「……先生、それは……本当によろしいのですか?」レオナールの声には、抑えきれない喜びと驚きが滲んでいた。共同研究は断られたが、目的達成に不可欠な『観察手段』へのアクセスという、望外の成果が得られたのだ。
「うむ。ただし、言っておくが」アシュトンは、念を押すように人差し指を立てた。「これは、あくまで君個人の研究のためだ。決して、君が関わっているという例の『国家的な大事』とやらに、この顕微鏡を使ったり、ましてや儂の名前を勝手に共同研究者として挙げたりするようなことは、断じて許さんからな! そこだけは、くれぐれも、よぉーく肝に銘じておくのだぞ! 約束だぞ!」
彼の言葉は、あくまで個人的な使用許可であり、公的なプロジェクトへの関与は拒否するという、明確な線引きだった。
「はい、必ず。先生のお名前を出すようなことは決していたしません。個人的な研究の範囲でのみ、大切に使わせていただきます。本当に、ありがとうございます!」
レオナールは、深く頭を下げた。アシュトン博士の恐怖心は根深い。だが、その偏屈さの奥にある、研究者としての純粋さと、わずかな人の良さが、思わぬ形で彼の道を拓いてくれた。彼の心には、安堵と共に、新たな探求への扉が開かれたことへの、強い期待が満ちていた。




