第六話:届かぬ祈り
レオナールが10歳の誕生日を迎えるまでの数年間は、彼にとって比較的穏やかで、知的な探求に満ちた日々だった。魔法の学習は順調に進み、家庭教師エルバンの実践的な指導のもと、彼は初級から中級レベルの魔法を着実に習得していった。ヴァルステリア家の書庫は彼の第二の家となり、魔法理論だけでなく、歴史、地理、数学、天文学に至るまで、貪欲に知識を吸収した。
そんなレオナールを、母エレオノーラは常に温かく、そして少しばかり心配そうに見守っていた。彼女は聡明な女性で、息子の早熟さや、同年代の子供たちとは異なる興味の対象に気づかないはずはなかった。
「レオ、また書庫に籠っていたの?たまには外で、セバスチャン(隣接する男爵家の息子)たちと遊んできたらどうかしら?」
庭園で美しい刺繍をしながら、母は時折そう声をかけた。彼女自身、読書を愛する知的な女性だったが、息子が知識の世界に閉じこもりすぎることを案じていたのかもしれない。
「ありがとうございます、母上。でも、今は読みたい本があるのです。それに、セバスチャンたちは、魔法の話をしてもつまらなそうな顔をしますから」
レオナールは素直に答えた。嘘ではなかった。彼の興味は、すでに同年代の子供たちの理解をはるかに超えていた。
「ふふ、そう。あなたは本当に難しいことが好きなのね」
エレオノーラは困ったように笑いながらも、決して息子の探求心を否定することはなかった。むしろ、彼女自身が魔法や歴史に詳しかったため、レオナールの良き話し相手となり、彼の知的好奇心をさらに刺激することもあった。時には、美しいハープを奏でながら、古い英雄譚や精霊の伝承を語って聞かせてくれた。その穏やかで知的な母の存在は、前世で得られなかった温かな繋がりをレオナールに与え、彼の孤独感を和らげてくれる大きな支えだった。
父アルフォンスもまた、息子の非凡な才能を認め、期待を寄せていた。厳格な領主としての顔の裏で、彼はレオナールが持ち帰る難解な質問に真摯に耳を傾け、時には共に書物を紐解き、議論を交わすこともあった。ヴァルステリア家の次期当主として、レオナールには文武両道の英才教育が施されていたが、父は息子が魔法と知識の探求に没頭することを、むしろ誇らしく思っているようだった。
そんな満たされた日々が、永遠に続くかのように思われた矢先——その予兆は、静かに訪れた。
レオナールが10歳になった年の秋。収穫祭の準備で屋敷全体が活気づく中、母エレオノーラが微熱と倦怠感を訴えた。季節の変わり目の風邪だろうと、誰もが軽く考えていた。薬師が処方した滋養のある薬草茶を飲み、数日休めば良くなるだろう、と。レオナール自身も、その時はまだ、それほど深刻には捉えていなかった。
しかし、数日経っても母の体調は回復せず、むしろ悪化の一途をたどった。微熱は高熱へと変わり、食欲は完全に失せ、顔色も次第に悪くなっていった。そしてある晩、夕食の席で、エレオノーラは突然、強い腹痛と吐き気に襲われ、その場に倒れ込んでしまったのだ。
屋敷中が騒然となった。すぐに寝室へ運ばれた母は、苦痛に顔を歪め、脂汗を流していた。レオナールは、前世の医師としての経験から、ただ事ではないと直感した。父の許可を得て、彼は震える手で母の診察を始めた。
まず視診。皮膚や眼球結膜に明らかな黄疸(黄色み)が出ている。これは肝臓か、胆汁の通り道である胆道系に異常があることを強く示唆する所見だ。次に腹部の触診。腹全体が板のように硬く張っており(筋性防御)、強い腹膜刺激症状を示している。そして、慎重に右の肋骨の下あたり——胆嚢のある位置——を押すと、母は「うっ」と呻き声を上げ、激しい痛みを示した(マーフィー徴候陽性)。
(黄疸、突然の右上腹部の激痛、発熱、腹膜刺激症状……肝胆道系の問題であることはほぼ間違いない。だが、この強い黄疸は何だ?いつからこんなに黄色くなってた? 通常の胆嚢炎や胆石疝痛だけでは時間経過も鑑みて、ここまで強い黄疸は出にくい。ベースに肝臓や胆道の問題があるところに結石の嵌頓のようなイベントをおこしたのか?明らかに全身状態が悪く胆管炎も併発している可能性が高い。だとすると病態はさらに重篤だ)
レオナールの頭に、前世の医学知識が警鐘を鳴らす。これは極めて危険な状態だ。炎症が胆道系全体に広がり、さらには腹腔全体に波及して汎発性腹膜炎に至ってる可能性すらある。
「父上、母上のご容態は、ただの風邪や食あたりではありません。おそらく、胆の袋か、その通り道に、酷い炎症が起きています。総胆管まで塞がっている可能性があり、一刻も早い治療が必要です!」
彼は、父アルフォンスに必死に訴えた。アルフォンスは、息子の異常なまでの真剣さと、的確に見える状況判断に驚きながらも、すぐに領都から最も評判の良い薬師を呼び寄せる手配をした。
だが、馬を飛ばして駆け付けた老薬師の診断と治療は、レオナールの絶望を深めるものだった。薬師は、長年の経験から「胆の熱が暴れておる」「胆の袋が腫れ上がっている」と、レオナールの見立てに近い診断を下した。しかし、彼が処方できたのは、熱を冷まし、痛みを和らげ、炎症をわずかに抑える効果しかないとされる数種類の薬草だけだった。
「この薬は、あくまで時間を稼ぐためのもの。ご婦人の体力と、天の采配に委ねるしか……。わしの知る限り、これ以上手の施しようがない」
薬師は、悔しさを滲ませながらそう告げた。彼の言葉は、この世界の医療の限界を、残酷なまでに示していた。
(時間稼ぎ……? 冗談じゃない!この状態は、一刻を争うんだ!広域抗菌薬の投与と、感染源であり、胆汁うっ滞の原因となっている胆嚢・胆管のドレナージ、あるいは摘出が必要なんだ!それが、前世では“常識”だったのに……!)
レオナールは唇を噛み締めた。前世であれば、強力な抗菌薬(例えば、胆道系感染に有効な広域スペクトラムを持つピペラシリン/タゾバクタムや、カルバペネム系の抗菌薬)を大量に点滴し、場合によっては緊急手術に踏み切る場面だ。だが、ここにはそのどちらも存在しない。
父アルフォンスは、薬師の言葉に打ちひしがれながらも、諦めてはいなかった。領内の他の薬師にも声をかけ、王都の宮廷医師に助言を求める手紙を出し、さらには高名な治癒魔法の使い手がいないか、あらゆる手を尽くして情報を集め始めた。だが、情報は錯綜し、時間は刻一刻と過ぎていく。
その間にも、エレオノーラの容態は着実に悪化していった。高熱は続き、黄疸は濃くなり、腹部の痛みは増していく。そして、ついに意識レベルが低下し始めた。呼びかけへの反応が鈍くなり、うわ言を繰り返すようになった。脈は速く弱々しくなり、手足は冷たく、呼吸も浅く速い。敗血症性ショックの状態に陥りつつあった。
(このままでは、もって数日……いや、今日明日かもしれない……!)
レオナールは決断した。薬師の治療では効果がなく、父が集める情報にも期待できない以上、自分が動くしかない。たとえそれが、不完全で、リスクの高い方法であったとしても。
彼は、夜陰に紛れて再び母の寝室を訪れた。付きっきりの侍女に一時的に席を外してもらい、母と二人きりになる。蝋燭の灯りに照らされた母の顔は、苦悶に歪み、生気が失われつつあった。
(まずは、ショックからの離脱。循環血液量を増やし、血圧を維持するんだ)
彼は、これまでの実験で培ってきた魔法技術を総動員した。
超音波診断(模倣)の試み: 水晶球に魔力を込めるが、安定した振動波を連続して放射すること自体が、彼の未熟な魔法技術と幼い身体には過酷な負担だった。数えきれないほどの試行の末、彼の精神と魔力を激しく消耗させながら、ようやく一瞬だけ、ぼやけた反射波を捉えることに成功した。その不鮮明な、ノイズだらけのイメージはすぐに消えてしまったが、その一瞬、確かに腫れ上がった胆嚢の影らしきものを垣間見たに過ぎなかった。再現性は乏しく、この一度きりの幻のような情報だけでは、確信には至れない。
生理食塩水の生成と静脈内投与(模倣): 彼は、空気中から水分子(H2O)、塩化ナトリウム(NaCl)を構成する元素を魔力で集め、正確に0.9%の濃度になるように混合し、生理食塩水に相当する液体を生成した。そして、それを母の腕の静脈に、皮膚を通して直接、微量ずつ注入するという、極めて高度な魔法を試みた。血管を傷つけず、感染を起こさず、適切な速度で注入する。それは、分子レベルでの精密な魔力操作であり、彼の精神と魔力を激しく消耗させた。数十分後、母の脈拍がわずかに力強さを増し、皮膚の乾燥が少し改善したのを見て、彼はこの応急処置が限定的ながら効果を発揮したことを確信した。
これらの処置は、まさに綱渡りだった。一歩間違えれば、母の状態をさらに悪化させかねない危険な賭け。レオナールは、処置を行う間、生きた心地がしなかった。額からは絶えず冷や汗が流れ、心臓は激しく鼓動し、魔力の消耗によって目の前が白むような感覚に何度も襲われた。
(これで……これで、少しでも時間が稼げるなら……母自身の治癒力が、あるいは父が見つけてくるかもしれない“奇跡”が、間に合うかもしれない……)
彼は、疲れ果てて床に座り込みながら、荒い息をついた。母の手を握ると、先ほどよりは少し温かみが戻っているように感じられた。だが、根本的な問題——胆嚢の炎症と感染——が解決したわけではない。これは、嵐の中の小舟を必死で支えているに過ぎないのだ。
そして、彼は再び、外科的処置の必要性という現実に直面する。
(やはり、感染源を取り除かない限り、根本的な解決にはならない。胆嚢ドレナージ……。針を刺して、溜まった膿を外に出すだけでも、劇的に状態が改善する可能性がある……)
前世で、何度も見た光景だった。重症の胆嚢炎患者が、緊急ドレナージによって一命を取り留める場面を。その手技自体は、超音波ガイド下で行えば、それほど複雑なものではない。
(俺なら……できるかもしれない。水晶を使った簡易エコーで位置を確認し、魔力で生成した細い金属針を使えば……。消毒は……アルコールに近いものを魔法で生成し、最大限の清潔操作を心がければ……)
一瞬、彼の心に、実行への強い衝動が湧き上がった。母を救いたい一心で、リスクを冒してでも、やるべきではないか、と。
だが、次の瞬間、前世の記憶がブレーキをかけた。手術室での光景。予期せぬ出血、隣接臓器の損傷、術後感染…… 。どんなに熟練した外科医でも、合併症のリスクはゼロではない。ましてや、自分は内科医であり、外科手技の経験は皆無に等しい 。器具も、麻酔も、清潔な環境もない。
(もし、失敗したら?血管を傷つけて大出血させたら?腸を傷つけて腹膜炎を悪化させたら?俺が、俺の手で、母を殺すことになるかもしれない……)
その恐怖が、彼を縛り付けた。医師としての第一原則、「Primum non nocere (まず、害を為すなかれ)」
不確実な手技で患者を危険に晒すことは、許されない。たとえ、その患者が自分の母親であっても。いや、母親だからこそ、失敗は絶対に許されないのだ。
(俺には……できない……。その資格も、技術も、覚悟も……まだ、ない……)
レオナールは、自らの無力さに打ちのめされた。
前世の知識も、この世界で磨いた魔法も、今、この最も重要な局面で、母を救うための決定的な一手を打つことを許してはくれなかった。
彼にできることは、対症療法を続けながら、奇跡を祈ることだけだった。
しかし、祈りは届かなかった。
レオナールの懸命な魔法によるサポートもむなしく、エレオノーラの全身状態は徐々に、しかし確実に悪化の一途をたどった。腎機能は回復せず、乏尿が続き、全身の浮腫が顕著になった。呼吸状態も悪化し、浅く速い呼吸(努力呼吸)が見られるようになった。血液中の酸素飽和度を維持できなくなり、唇や指先が紫色を帯び始める。意識は完全に失われ、呼びかけにも全く反応しなくなった。
発症から、七日目の朝。
屋敷に朝の光が差し込み始めた頃。いつもより早く目覚めたレオナールが母の寝室に駆けつけると、付き添っていた侍女が蒼白な顔で立ち尽くしていた。ベッドのそばに駆け寄り、母の手を取る。氷のように冷たくなっていた。脈がない 。胸に耳を当てても、心音は聞こえない。呼吸も、完全に停止していた。
「……あ……ああ……」
声にならない声が漏れた。信じられない、信じたくないという思いが頭を支配する。
「母上……?母上っ!!」
彼は母の肩を揺さぶり、必死に呼びかけた。だが、その翠色の瞳が開かれることは、二度となかった。
「うそだ……こんな……。あれだけ、やったのに……。間に合わなかった……のか……?」
涙が、堰を切ったように溢れ出した。なぜ、救えなかったのか。何が足りなかったのか。あの時、ドレナージを強行していれば? いや、それは結果論だ。自分にできることは、全てやったはずだ。それでも、届かなかった。
父アルフォンスが駆けつけ、静かに息子の肩を抱いた。彼の目も赤く腫れていた。
「レオ……もう、いいんだ。エレオノーラは……よく、頑張った……」
父の腕の中で、レオナールは子供のように声を上げて泣き続けた。医師としての矜持も、転生者としての達観も、今は何の役にも立たなかった。ただ、愛する母を失った悲しみと、自分自身への激しい怒り、そしてどうしようもない無力感が、彼の心を蹂躙していた。
エレオノーラの葬儀は、ヴァルステリア家の格式に則り、厳かに執り行われた。領内の教会での追悼ミサ、そしてヴァルステリア家代々の墓地への埋葬。多くの貴族や領民が参列し、美しく聡明だった辺境伯夫人の早すぎる死を悼んだ。レオナールは、喪主である父の隣で、虚ろな表情のまま、その全てを見届けた。
母の死。それは、レオナール・ヴァルステリアの人生における、最初の、そして最も大きな喪失体験となった。前世で経験した多くの死とは、全く違う重みを持っていた。それは、彼の心に、決して消えることのない深い傷跡を残し、そして彼の未来を決定づける、大きな転換点となったのである。