第五十七話:白き真実、束の間の祝杯
王宮の奥深く、魔法省管轄下の特別分析施設に籠もりきりだった日々は、ついに一つの大きな節目を迎えようとしていた。レオナール・ヴァルステリアとターナー教授、そしてエルミーラ率いる技術班の努力は、ついにローネン州を蝕む奇病の元凶を特定するという、決定的な成果を生み出したのだ。「白き毒砂(As-003)」――魔法省の毒物ライブラリに眠っていたその物質が、全てのサンプルから検出された毒物の正体であることは、もはや疑いようもなかった。
レオナールは、これまでの分析結果、クロマトグラフィーのデータ、毒物標本との比較検証、そして統計的な考察を全て盛り込んだ、分厚い最終報告書をベルク紙にまとめ上げていた。彼の傍らでは、ファルケンベルク夫人が最終的な誤字脱字や体裁のチェックを入念に行っている。その集中力と正確さは、このプロジェクトにおいて不可欠なものだった。
「……これで、完成です」
最後のページに目を通し終えたレオナールは、静かに息をついた。ローネン州で目にした悲劇、エリアスの告白、そして実験室での試行錯誤。その全てが、この報告書に凝縮されている。彼はファルケンベルク夫人に礼を述べ、完成した報告書の束を受け取ると、近くで分析結果の解釈について思案していたターナー教授に声をかけた。
「先生、ファビアン殿への最終報告書が完成しました。ご確認いただけますでしょうか」
「ふむ、もうできたか。ご苦労だったな」
ターナー教授は、思索から顔を上げ、報告書を受け取るとパラパラとページをめくった。彼の目も、複雑なデータや統計的な考察部分を注意深く追っている。特に、帰無仮説を用いた有意差の証明の部分では、小さく頷きながら「なるほど、この説明ならば、門外漢にも分かりやすいだろう」と呟いた。
「よろしい。この内容ならば、我々の発見の意義と、その科学的根拠を十分に示しているだろう。あとは、これをファビアン殿がどう受け止め、どう動くか、だな」
教授の承認を得たレオナールは、従者のギルバートを通じて、直ちにファビアン・クローウェルへの面会を要請した。連絡はすぐにつき、その日の午後、ファビアンは単身で、この隔離された研究施設へと再び姿を現した。
ファビアンは、レオナールから恭しく差し出された報告書を受け取ると、その場に設けられた簡素な椅子に腰を下ろし、鋭い目で内容を読み始めた。分析室には、彼がページをめくる音と、レオナール、ターナー教授、そして報告のために同席したエルミーラの、緊張した呼吸の音だけが響いている。報告書は多岐にわたるが、ファビアンの読む速度は驚くほど速く、それでいて重要なポイントは決して見逃さないであろう、深い集中力が感じられた。
特に、報告書の中で濃度差の統計的な有意性を示す箇所で、ファビアンは一度ペンを止め、レオナールに鋭い視線を向けた。
「レオナール公子。この『観測された差が、単なる偶然ではない』という結論。その論拠を、改めて簡潔に説明してもらおうか。報告の確度を最終的に判断する上で、重要な点だ」
その問いかけは、結論に至る思考プロセスそのものへの、分析官としての深い関心を示すものだった。
「はい、ファビアン殿」レオナールは、落ち着いて応じた。「簡単に申し上げますと、仮に両地域の水質に本当に差がないと仮定した場合、今回我々が観測したような極端な濃度の偏り——汚染地域ではほぼ全てのサンプルが高濃度側に、対照地域ではほぼ全てが低濃度側に分布するという現象は、統計的に見て偶然ではまず起こり得ない、という結論に至りました。サイコロを何度も振って、特定の目が異常なほど偏って出るようなものです。それ故、観測された濃度差は意味のあるものだと判断いたしました」
レオナールの説明は簡潔だったが、その論理の核心——確率論に基づき偶然性を否定する思考——は明確に伝わってきた。
ファビアンは、数秒間レオナールの顔を見つめた後、深く頷いた。
「……なるほど。観測された事実が『偶然ではあり得ない』ことを論理的に突き詰めたわけか。状況証拠だけでなく、確率論的な裏付けも加えた、と。見事な思考だ、レオナール公子。不確かな情報の中で判断を下す上で、極めて重要な視点だ」
彼は報告書を閉じ、改めて二人に向き直った。
「素晴らしい報告書です、ターナー教授、レオナール公子」ファビアンは続けた。「原因物質の特定、汚染経路の解明、そしてその統計的な裏付け。これだけの証拠があれば、もはや言い逃れのしようがない。期待以上の成果と言えるでしょう」
彼の言葉には、任務の責任者としての安堵と、二人の業績に対する率直な賞賛が込められていた。
「これで、我々分析チームの当初の任務は、ほぼ達成されたと言っていい」ファビアンは、同席していたエルミーラにも視線を向けた。「エルミーラ、君たち技術班の働きも見事だった。短期間で新しい技術を習得し、これだけの精度で分析を遂行した。心から感謝する」
「はっ、光栄でございます!」エルミーラは、緊張した面持ちながらも、誇らしげに答えた。
「つきましては」ファビアンは続けた。「この特別分析施設での集中的な分析作業は、本日をもって一旦終了とする。技術班の諸君には、多大な貢献に感謝するとともに、一時解散を命ずる。それぞれの元の所属に戻り、次の指示を待つように。ただし」
彼の声が、わずかに厳しさを帯びた。
「今回の件は、まだ完全に解決したわけではない。原因物質は特定されたが、汚染源である鉱山の操業停止や浄化、住民への補償といった政治的な決着はこれからだ。ゴルディン商会、そして背後にいるかもしれない勢力が、このまま黙っているとは限らない。先日の襲撃未遂事件の黒幕も、依然として不明なままだ」
彼は、レオナールとターナー教授に視線を戻した。
「よって、ターナー教授、レオナール公子に対する警護は、当面の間、継続する。不自由をかけるが、安全確保のためだ。ご理解いただきたい」
「承知いたしました」レオナールは頷いた。トーマスからの警告もあり、その必要性は痛感している。
「さて……」ファビアンは、少しだけ表情を和らげ、提案を持ちかけた。「これで一つの大きな山は越えた。まだ道半ばとはいえ、諸君の功績は計り知れない。そこで、だ。この施設を出る前に、ささやかながら、宮廷内で打ち上げの席を設けたいと思うのだが、いかがかな? 堅苦しいものではない。宮廷お抱えの料理番に腕を振るわせ、上等な酒も用意させよう。皆さんの労をねぎらい、そして今後の健闘を祈るための、ささやかな宴だ」
予想外の提案に、レオナールとターナー教授は少し驚いた。任務遂行に厳格なファビアンが、このような個人的な気遣いを見せるとは思わなかったからだ。しかし、それは同時に、彼がこのプロジェクトの成功と、チームの貢献を心から評価していることの表れでもあった。
「それは……ありがたいお申し出ですが、よろしいのですか?」ターナー教授が、遠慮がちに尋ねた。
「構いませんとも」ファビアンは、わずかに口の端を上げた。「苦労を共にした仲間たちと、束の間、成果を祝うのも悪くないでしょう。準備は、こちらで全て手配します。今夜、指定の場所に来ていただければ結構です」
こうして、ローネン州の悲劇を科学の力で解き明かしたチームの、束の間の祝宴が決定した。厳しい任務からの解放感、達成感、そしてまだ残る課題への緊張感。様々な感情が入り混じる中、彼らは王宮の一室で開かれるであろう、ささやかな、しかし特別な意味を持つ宴へと向かう準備を始めるのだった。
(宮廷の料理……どんなものが出るのだろうか)
レオナールは、そんな場違いなことを考えながら、ファビアンに改めて礼を述べた。彼の異世界での戦いは、また一つ、新たな局面を迎えようとしていた。宴の席で、どんな言葉が交わされるのか、それはまだ誰も知らない。




