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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第五十六話:毒物標本との対話

王宮内の特別分析施設に、新たな緊張と期待が満ちていた。カラムクロマトグラフィーによる定量分析でローネン州の水質汚染の実態が数値として示され、その統計的な有意性も確認された今、レオナールたちの目標は、あの「黒褐色のスポット」を生み出す未知の毒性物質そのものの特定へと絞られていた。直接的な元素分析にはまだ時間を要する中、レオナールは次なる一手として、魔法省が保有する「毒物ライブラリ」との照合を提案した。


その提案を受けてから数日後、エルミーラがファビアンの許可を取り付け、厳重に封印された木箱を分析室へと運び込んできた。彼女の表情は、いつもの冷静さに加え、機密性の高い物質を扱うことへの緊張感が滲んでいる。


「レオナール様、ターナー先生。魔法省の記録保管庫より、ご依頼のあった比較対照用の毒物標本をお持ちしました」

エルミーラは、木箱の封印を解きながら説明を始めた。

「先生方のご要望——鉱物由来、過去に中毒事例がある、あるいは錬金術的性質(硫化物との反応性などの化学的性質)が類似している可能性のある物質——に基づき、記録庫の専門官と共に数十種類の標本を選定してまいりました。中には、過去に使用が禁止された物質や、特定の錬金術実験でのみ生成が確認されている物質なども含まれております。取り扱いには最大限の注意をお願いいたします」


木箱の中には、それぞれラベルが貼られ、厳重にガラスや石英の小瓶に封入された様々な物質のサンプルが、緩衝材と共に整然と並べられていた。白い粉末、色のついた結晶、油状の液体…。それぞれの小瓶には、物質名(しばしば古風な名称やコードネームだったが)と、簡単な由来、そして「劇毒」「要厳重管理」といった警告が付記されている。


「ありがとう、エルミーラさん。素晴らしい仕事ぶりです。これで大きく前進できます」

レオナールは感謝を述べ、ターナー教授と共に、運び込まれた毒物標本の検証に取り掛かった。


まずは、これらの候補物質の基本的な化学的性質を調べ、ローネン州のサンプルから得られた知見(水への溶解性、酸や塩基に対する挙動、硫化物との反応性など)と照らし合わせ、さらに候補を絞り込む必要があった。これは、魔法に頼るのではなく、地道な古典的化学実験の領域だった。


ターナー教授は、まるで古い友人に出会ったかのように、目を輝かせながら様々な標本を手に取り、その性質に関する自身の知識や経験を語り始めた。

「ほう、これは『賢者の石』合成の副産物として記録にある、あの奇妙な金属塩か!」

「む、これは……確か、特定の鉱石を強酸で処理した際に発生する、腐食性の高い液体だな」


レオナールとターナー教授は、エルミーラから提供された記録情報を参考にしながら、安全に最大限配慮しつつ、候補物質を一つ一つ、試験管レベルで検証していく。少量を慎重に取り出し、水や各種溶媒への溶解度を調べる。pH指示薬(これも彼らが開発したものだ)を使って、水溶液の酸性・塩基性度合いを確認する。少量の酸や塩基を加えて、沈殿が生じるか、あるいは色が変わるかを見る。加熱した際の安定性や、特定の試薬との反応性を観察する。


それは、膨大な数の組み合わせを試す、根気のいる作業だった。失敗すれば有毒ガスが発生したり、予期せぬ反応が起きたりする危険性もある。しかし、二人の知識と経験、そして慎重さが、着実に候補を絞り込んでいった。


「このグループは水に溶けにくいな。ローネン州の物質は水系で広がっていることを考えると、除外してよさそうだ」

「こちらは、硫化物との反応性が低い。あの黒褐色のスポットとは考えにくい」

「この物質は、熱に対して不安定すぎる。精錬過程で生成・残留するとは考えにくいな」


数日間にわたる地道なスクリーニングの結果、数十種類あった候補は、最終的に五種類にまで絞り込まれた。その中には、過去に殺鼠剤として問題を起こしたとされる、あの白い粉末のサンプルも残っていた。


「よし、いよいよ最終確認だ」

レオナールは、絞り込まれた五種類の候補物質と、比較対照としてローネン州の汚染水サンプル(濃縮したもの)を用意した。そして、それらをベルク紙の原線上に、マイクロピペットで正確にスポットしていく。


「先生、展開をお願いします」

ターナー教授は、頷き、準備の整った展開槽に、サンプルがスポットされたベルク紙を静かに吊るした。前回と同様の展開溶媒、同様の時間。全ての条件を厳密に揃え、クロマトグラフィーが開始された。


分析室には、再び静寂が訪れた。溶媒がベルク紙をゆっくりと上っていく。レオナールも、ターナー教授も、そして作業を見守るエルミーラたち技術班も、固唾を飲んでその様子を見つめている。誰もが、この実験が決定的な結果をもたらすことを予感していた。


数時間後、展開が終了した。濡れたクロマトグラムが取り出され、慎重に乾燥される。そして、いよいよ運命の瞬間——硫化試薬(硫化水素水)による呈色反応だ。


レオナールは、再びドラフトチャンバー内で、ガラス製噴霧器を手に取った。乾燥したクロマトグラムに向けて、飽和硫化水素水を均一にスプレーする。シュッ、シュッ……。


全員の視線が、白いベルク紙に注がれる。


変化は、劇的だった。


五つの候補物質のうち、四つは、全く呈色しないか、あるいは薄い黄色や茶色のシミが現れただけで、ローネン州のサンプルとは明らかに異なる挙動を示した。


しかし、一つだけ。


ただ一つだけ、ローネン州の汚染水サンプルと全く同じ高さ(Rf値)に、そして寸分違わぬ、あの深く、禍々しいまでの黒褐色のスポットを現した物質があった。


それは、魔法省の毒物ライブラリから貸し出されたサンプルであり、そのラベルにはこう記されていた。


『物質コード:As-003(通称:白き毒砂)。特記事項:過去、殺鼠剤として広く使用されるも、事故多発により現在は厳重管理指定。毒殺等に用いられた歴史多数あり』


「……これだ」

レオナールが、静かに、しかし確信を込めて呟いた。ラベルに記された情報と、目の前のクロマトグラムが示す結果。ローネン州の悲劇の元凶が、ついにその正体を現したのだ。


「間違いない……Rf値も、色調も、完全に一致している……」

ターナー教授も、ゴクリと喉を鳴らした。彼の長年の研究と、レオナールの新しい視点、そして地道な実験が、ついに具体的な物質へと結実した瞬間だった。


それは、単純な喜びというよりも、むしろ重い真実を目の当たりにしたことによる、厳粛な感覚だった。かつてその毒性故に規制され、忘れ去られようとしていた毒物が、無知と利益追求によって再び解き放たれ、多くの命を蝕んでいた。その事実が、今、化学的な証拠によって、動かしがたく証明されたのだ。毒殺にまで使われたという暗い歴史を持つ物質が、形を変えて現代の悲劇を引き起こしている。


分析室に、しばしの沈黙が流れた。誰もが、この発見の持つ意味の大きさを噛み締めていた。原因物質は特定された。次はこの揺るぎない科学的証拠を、プロジェクトを指揮するファビアンへと報告し、王国の判断を待つことになる。分析室には、一つの大きな発見を成し遂げた安堵と、事態が大きく動き出すであろう予感が漂っていた。

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