第五十五話:帰無仮説
王宮の奥深く、魔法省管轄下の特別分析施設での日々は、静かな、しかし息詰まるような緊張感の中で過ぎていった。外部から完全に隔離され、ローネン州の悲劇を解き明かすという唯一の目的のために集められたレオナールたちは、黙々と目の前の作業に没頭していた。真新しい実験棟には、ガラス器具の触れ合う微かな音、溶媒の揮発する匂い、そしてベルク紙にペンが走る音だけが響いている。
分析の中心は、カラムクロマトグラフィーによる定量分析へと移行していた。ペーパークロマトグラフィーでその存在が示唆され、硫化物との反応で黒褐色を呈した未知の毒性物質。その濃度を正確に測定し、汚染の実態を数値として捉えることが、次のステップだった。
エルミーラの指揮のもと、技術班はローテーションを組み、昼夜を問わず分析を続けた。マルクスが水サンプルや動物組織からの抽出液を調製し、セリアがカラムの準備と溶媒送液を精密に管理する。カラムを通過し、分離された成分は、クラウスが用意した目盛りの細かいフラクションコレクターに、一定量ずつ正確に分取されていく。ここまでは、確立された手順に則った、地道だが着実な作業だった。
問題は、その先だった。分取された無色透明の液体の中から、目的の毒性物質だけを取り出し、その量をどうやって測るか。最新の魔道具でも、溶液中の特定物質の濃度を直接測定するような便利なものは、この世界には存在しない。
そこでレオナールが提案し、ターナー教授と共に試行錯誤の末に確立したのが、魔法と精密測定を組み合わせた、この世界ならではの定量法だった。
まず、分取された各フラクションの液体を、クラウスが予め正確に重量を測定しておいた小さな石英製の皿に移す。そして、レオナールがその皿に集中し、特殊な魔法を発動させる。それは、彼が独自に編み出した、《精密乾燥》と名付けた魔法だった。対象範囲を極限まで絞り込み、物質を変質させない程度の微弱な熱エネルギーと、制御された微細な空気の流れ(風魔法の応用)を組み合わせることで、溶媒である水やアルコールだけを急速かつ穏やかに蒸発させるのだ。高度な魔力制御と集中力を要するこの魔法は、レオナールにしか扱えなかった。
「よし、次のフラクションだ、レオナール君」
クラウスが慎重に次のサンプル皿を差し出す。レオナールは頷き、再び魔法を発動させる。皿の中の液体がみるみるうちに蒸発していく。そして、溶媒が完全に除去された後には、皿の底に、ごく微量の白い粉末状の物質が析出した。
(やはり、この形態で析出するか。相対質量約75の根源粒子を持つ、この白い酸化物こそが元凶…)
レオナールは冷静に結果を受け止めた。硫化水素と反応させた際の黒褐色とは異なるが、それは反応条件や形態の違いによるものだろうと、彼は既に推測していた。この白い粉末こそが、純粋に近い形で単離された毒物本体である可能性が高い。
最後に、乾燥後のサンプル皿を、クラウスが再び超精密天秤(これもターナー教授とクラウスが協力して改良を重ねた、魔法的な振動吸収機構を備えた特注品だ)に乗せ、その重量を測定する。元の皿の重量を差し引けば、残った物質の質量が算出できる。
「フラクション番号12、残渣重量、確認……天秤の針の振れ、極めて微小。先の対照サンプルと比較して明らかに大きい。記録します」
クラウスが読み上げる結果を、記録係のファルケンベルク夫人がベルク紙の表に正確に書き込んでいく。測定される重量はあまりにも微量なため、既存の単位では表現が難しい。彼らは、天秤の針の振れ幅や、比較に用いる極小の基準錘との対比で、その相対的な重さを記録していくしかなかった。それでも、この方法によって、彼らは初めて未知の毒性物質の濃度を、具体的な比較可能な数値として捉えることができるようになったのだ。
数週間にわたる地道な作業の結果、膨大なデータが集積され始めた。ローネン州の汚染地域から採取された河川水や井戸水、そして奇病を発症した動物の組織からは、クロマトグラフィーの特定の画分(ペーパークロマトでのスポット位置に対応する)に、明らかに他の画分や対照サンプル(清浄な水や健常動物の組織)よりも有意に大きな重量を示す白い残渣が検出された。
「やはり、明確な差が出ていますね」
レオナールは、ファルケンベルク夫人が整理したデータ表を眺めながら、ターナー教授とエルミーラに語りかけた。表には、サンプルごとに測定された毒性物質(と推定される)の相対的な濃度(重量)がリストアップされている。汚染地域の水は、対照地域の水の数十倍から、場所によっては数百倍以上の濃度を示していた。
「見た目だけでも差は明らかですが…」レオナールは続けた。「この差が、単なる偶然や測定のばらつきによるものではない、『意味のある差』だと客観的に示す必要があります。複雑な計算はできませんが、別の考え方で検証してみましょう」
彼は、前世の記憶——医学研究で必須とされた生物統計学の基礎——を思い起こし、それをこの世界の状況に合わせて説明し始めた。
「まず、こう仮定してみます。『汚染地域の水と、対照地域の水の毒物濃度には、実際には差がない』と。これが我々の出発点となる仮説、『帰無仮説』です。もしこの仮説が正しいなら、我々が集めたデータには、本来大きな偏りは見られないはずです」
彼はベルク紙を取り出し、全ての水サンプルから得られた濃度データ(相対的な重量)を小さい順に並べるようギルバートに指示した。そして、その中央の値、すなわち中央値を特定する。
「さて、この中央値を基準にして、各グループを見てみましょう。汚染地域の水サンプルの中で、この中央値より濃度が高かったものはいくつありますか? そして、対照地域の水サンプルではどうでしょう?」
ファルケンベルク夫人が集計結果を報告する。
「汚染地域サンプル群では、30検体中28検体が中央値を超えています。対照地域サンプル群では、20検体中、中央値を超えたのはわずか2検体です」
「ありがとうございます」レオナールは頷いた。「ご覧の通り、結果は非常に偏っています。もし本当に地域間で差がない(帰無仮説が正しい)ならば、どちらのグループも大体半分くらいが中央値を超えるはずです。コインを投げて表が出る確率が半々であるように。ですが、現実はどうでしょう? 汚染地域ではほとんどが中央値を超え、対照地域ではほとんどが超えていない。これは、コインを50回投げて、片方では28回も表が出たのに、もう片方では2回しか表が出なかった、と言っているようなものです。そんなことが偶然起こる確率は、極めて低いと考えられます」
彼は言葉に力を込めた。
「したがって、我々の最初の仮定——『差がない』という帰無仮説は、どうやら成り立ちそうにありません。我々が集めたデータは、その仮説とはあまりにも矛盾しています。よって、帰無仮説は棄却され、観測された濃度差は偶然やまぐれとは考え難い、意味のある差である可能性が極めて高い、と結論付けることができます」
レオナールの説明は、複雑な数式や分布表を用いずとも、論理的に「差がある」ことを示すものだった。ターナー教授は「ふむ、帰無仮説を立て、データでそれを否定する、か。面白い考え方だ」と唸り、エルミーラや他の技術者たちも、そのシンプルかつ強力な論証方法に感銘を受けたようだった。特にクラウスは、測定値の「ばらつき」をどう評価するかに頭を悩ませていたため、この考え方に深く頷いていた。
「同様の考え方で、患者動物の組織と健常動物の組織のデータも比較しましたが、こちらも同様に、差がないとは考えにくい結果となりました」レオナールは付け加えた。
数値データと、それを裏付ける論理的な(たとえ簡略化されていても)統計的思考。汚染の事実は、もはや疑いようのないものとして、彼らの前に示された。
「さて、次の段階ですが」レオナールは続けた。「この毒性物質が、具体的に何なのかを特定する必要があります。元素レベルでの同定はまだ時間がかかりそうですが、別の角度からのアプローチを試みたいと思います」
彼はエルミーラに向き直った。
「エルミーラさん、魔法省には、既知の毒物や危険物質のサンプルが保管されている、と聞いたことがあります。いわば『毒物ライブラリ』のようなものが存在するのでしょうか?」
「……ええ、存在します」エルミーラは少し驚いた顔をしたが、肯定した。「機密扱いのものも多いですが、研究目的であれば、ファビアン様の許可を得て閲覧・借用することは可能です。それが何か?」
「そのライブラリの中から、特に鉱物由来の毒物、あるいは過去に中毒事例が報告されているような物質のサンプルをいくつかお借りし、我々が検出した毒性物質と同じ挙動を示すかどうか、ペーパークロマトグラフィーで比較してみたいのです。Rf値(移動率)が完全に一致するものが見つかれば、原因物質の特定に大きく近づけるはずです」
それは、地道な元素分析とは別に、既知の物質との照合によって正体に迫ろうという、効率的なアプローチだった。
「なるほど…! それは有効な方法かもしれません。すぐにファビアン様に具申し、必要なサンプルのリストアップと借用手続きを進めましょう」
エルミーラは、レオナールの提案の意図を即座に理解し、行動に移すことを約束した。
カラムクロマトグラフィーと精密重量測定による定量分析。帰無仮説の棄却という考え方に基づく統計的な有意差の証明。そして、魔法省の毒物ライブラリとの比較による原因物質の推定。ローネン州の悲劇の真相解明は、様々なアプローチを組み合わせることで、着実に核心へと近づきつつあった。レオナールは、手計算による疲労を感じながらも(データの整理だけでも大変だ)、次なるステップへの確かな道筋が見えたことに、静かな闘志を燃やすのだった。




