第五十四話:王宮の檻
ファビアンがもたらした王宮敷地内への研究拠点移転という決定は、レオナールたちにとって青天の霹靂であった。ゴルディン商会の脅威が現実のものとなりつつある中、プロジェクトの重要性と、それに伴う危険性を考慮した国家レベルでの安全確保措置であることは理解できたが、そのスケールの大きさと展開の速さには、ただただ圧倒されるばかりだった。
移転作業は、ファビアンの言葉通り、迅速かつ厳格に進められた。新しい実験棟が完成してから、僅か数日後のことである。王宮から派遣された魔法省所属の専門部隊が到着し、レオナールたちの手から機材管理の主導権を引き継いだ。彼らは、ファビアンの指揮下で、ローネン州から届いたサンプル、開発されたクロマトグラフィー装置、そしてターナー教授が持ち込んだいくつかの特殊な測定器具などを、極めて慎重に、しかし手際よく梱包していく。一般的な実験器具——ガラス製品、薬品棚、基本的な測定器など——は、移動先の施設に既に同等以上のものが用意されているとのことで、運び出されるのは研究の中核をなす、まさにコアとなる部分のみであった。
「さて、と」全ての機材が運び出され、がらんとした真新しい実験棟の一室で、レオナールは一息ついた。隣には、やや複雑な表情でその様子を見守っていたターナー教授と、指示を待つエルミーラたち技術班、そして従者のギルバートがいた。「これで、こちらの作業は一段落ですね。次は、我々自身の移動となりますか」
「うむ。ファビアン殿からの指示では、本日中に全員、王宮内の指定された宿舎へ移動するように、とのことだ」エルミーラが、手にした指示書を確認しながら答えた。「移動手段は既に手配されております」
(アシュトン先生には、一言伝えておくべきだろうな……)
レオナールは、隣の古い実験棟に居座っているであろう、あの変わり者の顔を思い浮かべた。彼が論文の助言を求めて新しい実験棟に来て、もぬけの殻だった、などということになれば、後々さらに面倒なことになるかもしれない。直接説明できないまでも、何らかの連絡はしておくべきだ。
「先生、エルミーラさん。申し訳ありませんが、移動の前に少しだけ時間をいただけますか? 隣の棟のアシュトン先生に、当面こちらを留守にする旨だけでも、伝えておきたいのです。論文の件で約束もありますし」
「アシュトンに?」ターナー教授は、あからさまに嫌そうな顔をした。「ふん、あの男のことなど放っておけばよかろう。どうせ、自分の研究に夢中で、我々がいなくなったことにも気づかんかもしれんぞ」
「いえ、そういうわけにも……」レオナールが言いかけ、席を立とうとした、その時。
「レオナール様」
静かに声をかけてきたのは、いつの間にか彼の背後に立っていた、ファビアンが手配した護衛チームの一員——シークレットサービスに属する、影のように気配を消すことに長けた男だった。彼は、周囲に他の者がいることを意に介さず、レオナールの耳元で低い声で囁いた。
「失礼ながら申し上げます。ファビアン様より厳命されております。レオナール様におかれましては、今後、王立アステリア学院周辺、特に旧実験棟付近には、決して近づかれませぬよう。敵対勢力による監視、あるいは直接的な危害の可能性が極めて高いと判断されております。アシュトン博士へのご連絡が必要であれば、我々が代行いたします」
その言葉には、有無を言わせぬ響きがあった。トーマスからの警告、そしてファビアンが語った襲撃未遂事件(詳細は伏せられていたが)。それらがレオナールの脳裏をよぎる。敵は本気であり、自分はもはや、自由に行動することすら許されない立場にある。
(仕方ないか……。これも、このプロジェクトを進めるための対価、ということか)
彼は、護衛の男に小さく頷いた。
「……分かりました。では、アシュトン先生には、私から置き手紙を。それを、あなた方に託してもよろしいでしょうか? 内容は当たり障りのないものにします」
「承知いたしました。確実にお届けし、必要であれば博士の安全も確保いたします」
護衛の男は、再び気配を消して下がった。
レオナールは、近くの机でベルク紙を取り出し、木炭ペンでアシュトン博士への短い手紙を書き始めた。移転先や理由は一切伏せ、「急な、そして長期にわたる王家からの依頼により、当面の間、学院を離れることになりました。論文の件でご迷惑をおかけしますが、目途が立ち次第、必ずこちらからご連絡いたします。旧研究室の使用については、諸々ご事情をご存知の副学長先生にご確認ください」といった内容に留めた。これを護衛の者に託し、彼はアシュトン博士への最低限の連絡を果たしたことにした。
やがて、移動の準備が整い、レオナールたちは王家の紋章が入った、窓のない(おそらくは防御魔法が施された)特殊な大型馬車に乗り込んだ。ターナー教授、エルミーラたち技術班五名、そしてギルバート。これから、プロジェクトが完了するまで、彼らは運命共同体となる。馬車がゆっくりと動き出し、慣れ親しんだ(そして危険にも晒されていた)王立アステリア学院の景色が遠ざかっていく。
馬車は、王都の喧騒を抜け、やがて荘厳な王宮の城門へと滑り込んだ。城門を通過する際の検問は、これまでレオナールが経験したどの関所よりも厳重で、魔法的な走査を含む多重のチェックが行われた。城壁の内側は、貴族街とも官庁街とも違う、独特の静謐さと威厳に満ちている。広大な庭園、歴史を感じさせる壮麗な宮殿、そしてそれらに隣接して、明らかに重要な機能を担うであろう、堅牢な石造りの建物群が並んでいた。
(ここが……王宮……)レオナールは、馬車の小さな覗き窓から見える光景に、改めてそのスケールの大きさと、自分が足を踏み入れた場所の重要性を実感していた。
歴史を紐解けば、かつてはこの王宮内で全ての政が行われていた時代もあったという。現在は行政機能の多くが宮廷外の官庁街に移されたものの、国家の根幹に関わる省庁——魔法省、財務省、法務省、そして外務省の一部機能は、今もこの王宮敷地内に、歴史の名残として、また機密保持の観点から残されているのだ。彼らがこれから向かうのは、その中でも特に機密性の高い、魔法省が管轄する研究区域なのである。
馬車は、宮殿エリアを抜け、警備兵が厳重に警護するゲートをいくつか通過し、やがて一つの堅牢な建物の前で停止した。外観は飾り気がなく、窓も少ない。一見すると倉庫のようにも見えるが、その壁や扉に刻まれた複雑な防御魔法陣は、ここがただの建物ではないことを示している。
「到着いたしました。ここが、皆様の新しい研究拠点であり、そして当面の住まいとなります」
エルミーラが、緊張した面持ちで告げた。建物の扉が開かれ、中からファビアン本人と、数名の魔法省の役人らしき人物が出迎えた。
内部は、外観からは想像もできないほど広く、そして機能的に設計されていた。中央には、既に運び込まれたクロマトグラフィー装置や測定器具が設置された、最新の分析室。隣接して、大規模な低温サンプル保管庫。そして、研究者たちが寝泊まりするための、質素だが清潔な個室が並ぶ居住区画。全てが、このローネン州分析プロジェクトのためだけに用意された、「聖域」とでも呼ぶべき空間だった。
「ようこそ、魔法省管轄・特別分析施設へ」ファビアンは、一同を前に、静かに、しかし力強く言った。「ここでの生活は、少々不自由を強いることになる。プロジェクトが完了し、安全が確認されるまでの間、許可なくこの施設から出ることは原則として認められない。外部との連絡も制限される。まさに『王宮の檻』と感じるかもしれん」
彼の言葉に、技術者たちの間に緊張が走る。レオナールも、その言葉の重みを受け止めていた。
「だが、これは君たちを守り、そして任務を確実に遂行するためだ。ここならば、いかなる外部からの妨害も届かない。最高の環境と安全を約束しよう。諸君には、この隔離された環境で、ただひたすらに、真実の探求に集中してもらいたい。ローネン州の民が、君たちの成果を待っている」
ファビアンの言葉は、厳しい現実と、しかしそれを乗り越えた先にある希望を示していた。レオナールは、窓のない分析室の壁を見つめた。ここが、彼の新たな戦場となる。前世の知識と異世界の魔法、そして集められた最高の頭脳と技術。全てを賭けて、隠された毒の正体を暴き、苦しむ人々を救う。その決意を胸に、彼は王宮という名の「檻」の中で、次なる分析の日々へと足を踏み入れるのだった。




