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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第五十三話:招かれざる客

セドリック・アシュトン博士は、ここ最近の自身の研究における最大の懸案——レオナール・ヴァルステリアという若き才人が持ち込んだ「白鳥の首フラスコ実験」とその証明——がついに形になり、見事な学術論文として完成、紀要編集委員会へ再提出されたことに、この上ない満足感を覚えていた。元ターナー研究室という名の、今や彼の「城」と化した混沌の空間で、彼は愛しの変形体が優雅に(彼にとっては)移動する様を顕微鏡で観察しながら、鼻歌交じりに上機嫌だった。


「ふふん、これで儂の観察眼と、あの小僧の妙な着想が組み合わさった偉業が、ついに世に認められる日が来たというわけだ。あの石頭の査読者どもも、今度こそぐうの音も出まい。いやはや、実にめでたい! 実に気分が良い!」


論文という面倒な作業から解放され、気分が良いとなれば、彼が次に向かう場所は決まっている。大きな仕事(と彼は思っている)をやり遂げた達成感を祝い、日頃の鬱憤を晴らし、そして何より、その有り余る(と本人は思っている)精力を発散させるために。


「よし、今宵は繰り出すとしよう! 王都の夜に咲く、美しき花々のもとへ! 待っておれよ、我が愛しの小鳩ちゃんたちよ!」


アシュトンは、顕微鏡から目を離すと、どこからか引っ張り出してきた、しわくちゃだが比較的高価そうな上着を羽織った。白衣の下は、いつものように染みのついたシャツとズボンだったが、本人は全く気にしていない。財布の中身を確認し、彼は意気揚々と、現在借り受けている研究室の扉を開けた。


時刻は既に夕暮れを過ぎ、王都の街には魔法の灯りがちらほらと灯り始めていた。アシュトンは、足取りも軽く、人通りの多い大通りを避け、裏路地を縫うようにして、彼の行きつけの場所——貴族も利用するという、やや高級だが、それ故に秘密も守られるという評判の娼館——へと向かった。道すがら、彼は自分の研究とサポート役としてのレオナールの有用性について、ぶつぶつと独り言を呟き続けていた。


「それにしても、あのレオナール君とかいう小僧、なかなかに使えるではないか。小難しい書類仕事は任せられるし、儂の研究の価値も理解しておる。ターナーの奴め、どこであんな掘り出し物を見つけてきたのやら。まあ、儂ほどではないが、将来有望かもしれんな。ぐへへ」


娼館に到着すると、彼は勝手知ったる様子で中へと入っていった。受付の男ににやにやと笑いかけられながら、彼は馴染みの女性を指名し、個室へと案内された。そこからの数時間は、彼にとってまさに至福の時だった。上等な酒を飲み、美しい女性と戯れ、日頃の研究のストレスや、査読者への不満など、全てを忘れて快楽に溺れた。彼の耳には、女性の甘い声と、自身の高笑いだけが響いていた。


「はっはっは! どうだね、儂のこの逞しさ! これも日々の研究で培われた精神力の賜物なのだよ!」


などと、訳の分からない自慢話をしながら、彼は夜が更けるのも忘れて、その時間を満喫していた。


すっかり満足し、酔いも心地よく回った頃、アシュトンはようやく重い腰を上げた。名残惜しげに女性に別れを告げ、彼はふらふらとした足取りで部屋を出た。千鳥足で廊下を歩き、受付で支払いを済ませる。


「いやあ、今宵も実に楽しかったわい。また近いうちに来るとしよう」


彼は受付の男に、にやけた顔でそう言い残し、店の重い扉を押して外に出た。ひんやりとした夜風が、火照った彼の顔に心地よかった。さて、研究室に戻って、我が愛しの変形体の様子でも見るか、と考えながら、人気のない裏路地へと足を踏み入れた、その瞬間だった。


「——先生、少しお忘れ物ですよ」


背後から、静かな、しかし有無を言わせぬような声がかかった。振り返ると、そこに立っていたのは、先ほどまで娼館の薄暗い廊下で客の案内をしていた、若い男の店員だったはずだ。だが、その目に宿る光は、先ほどまでの愛想の良いものとは全く違う、冷たく鋭い光を放っていた。そして、その手には、いつの間にか、鈍く光る短い棍棒のようなものが握られている。彼の背後、路地の暗がりからは、同じように目つきの鋭い男たちが、音もなく二人、姿を現した。


「な、なんだね、君たちは? 忘れ物だと? 儂は何も……」


アシュトンが怪訝な顔で言いかけた途端、男たちは素早く彼を取り囲んだ。状況が飲み込めず、酔いも手伝って反応が遅れたアシュトンは、あっという間に退路を塞がれてしまう。


「大人しくしていただこうか、ターナー教授」


最初に声をかけた男が、低い声で言った。その言葉に、アシュトンは完全に思考が停止した。


(ターナー……だと!? なぜ、儂がターナーなのだ!? この間まで奴が使っていた研究室から出てきたところを見られたからか? こいつら、人違いをしておる! それも、あの石頭の変人と!)


混乱している間にも、男たちの一人がアシュトンの腕を掴み、強引に路地の奥へと引きずり込もうとする。もう一人は、彼の口を塞ごうと手を伸ばしてきた。アシュトンは、非力ながらも必死に抵抗しようとしたが、屈強な男たちの力には到底敵わない。


「ま、待て! 儂はターナーではない! セドリック・アシュトンだ! 人違いだと言っておろうが! あの偏屈な老いぼれとは違うわい!」


必死に叫ぶが、声はくぐもり、男たちは全く意に介する様子がない。「早くしろ」「手間をかけさせるな」といった声が聞こえる。恐怖と混乱、そしてアルコールが混ざり合い、彼の頭の中はパニック状態に陥った。万事休すかと思われた、その時。


突如、夜の静寂を切り裂くように、鋭い金属音が響き渡った!


アシュトンの腕を掴んでいた男が、苦悶の声を上げてよろめき、その場に崩れ落ちる。腕からは、深々と突き刺がった細い短剣が覗いていた。口を塞ごうとした男も、背後から現れた影のような人影によって、一瞬で首筋に手刀を叩き込まれ、意識を失って倒れ込んだ。最初に声をかけたリーダー格の男は、驚愕に目を見開き、すぐさま腰の短剣に手をかけたが、それよりも早く、別の方向から飛んできた何かが彼の利き腕を強かに打ち、武器を取り落とさせた。


「ぐっ……! な、何者だ!?」


リーダー格の男が呻くと、暗がりから数人の人影が音もなく現れ、あっという間に彼を取り囲んだ。彼らは皆、黒ずくめの軽装鎧に身を包み、その動きには一切の無駄がない。プロフェッショナルの動きだ。


「——任務完了。対象確保」


黒装束の一人が、短く、感情のこもらない声で告げた。リーダー格の男は、抵抗を諦めたのか、苦々しい表情でその場に膝をついた。アシュトンは、突然の出来事に呆然としながら、その場にへたり込んでいた。酔いは一気に醒め、ただ心臓だけが激しく鼓動していた。


「あ、あの……あなた方は……?」


震える声で尋ねると、黒装束の一人がアシュトンに向き直った。その顔は頭巾で隠れていて見えない。


「アシュトン博士、ご無事ですか。我々は、あなたをお守りするよう命じられた者です。もうご心配には及びません」


その声もまた、抑揚がなく、感情が読み取れない。アシュトンは、混乱しながらも、自分が何者かによって助けられたこと、そして、知らぬ間に護衛がつけられていたことを理解した。


(護衛……? なぜ、この儂に? まさか、あの石頭のターナーか? いや、奴が、儂のためにこんな手配をするはずが……。となると、あの小僧か? いや、彼とて……。それにしても、ターナーと間違われるとは、心外千万だわい!)


思考がまとまらないうちに、黒装束たちは手際よく、捕らえた男たちを拘束し、アシュトンに研究室まで送り届けることを告げた。


その頃、王宮の一室で、ファビアン・クローウェルは、部下からの緊急報告を受けていた。彼の表情は、いつものように冷静沈着だったが、その目の奥には、氷のように冷たい怒りの光が宿っていた。


「……アシュトン博士が、旧ターナー研究室を出た後、娼館の帰り際に拉致されかけた、と。襲撃者は三名、うち二名は制圧、一名は捕縛。実行犯の供述によると、雇い主は不明だが、報酬はゴルディン商会と繋がりのある闇ギルドから支払われた、と」


報告を聞き終えたファビアンは、静かに目を閉じた。数秒間の沈黙の後、彼は再び目を開け、部下に指示を出した。


「捕縛した男の尋問を続けろ。雇い主と、その背後関係を徹底的に吐かせるのだ。手段は問わん。それから、襲撃現場に残された痕跡、娼館の従業員への聞き込みも再度徹底しろ。ゴルディン商会が関与した物的証拠を掴む」


「はっ!」


部下が退出すると、ファビアンは一人、窓の外の夜景を見つめた。トーマス=ベルクからもたらされた警告は、現実のものとなった。ゴルディン商会は、ついに直接的な行動に出てきたのだ。


(アシュトン博士を狙った、か。だが、目的は彼の口封じというよりは、むしろ研究プロジェクトそのものへの妨害、あるいは研究者の拉致による情報奪取だろう。そして、標的はおそらく……)


ファビアンの脳裏には、アシュトン博士よりも、研究の中心人物であるターナー教授の姿が浮かんでいた。襲撃犯は「ターナー教授」と呼びかけていたという報告もある。アシュトンは現在、元ターナー研究室を使用しており、そこから出てきた彼をターナー本人と誤認した可能性が極めて高い。夜の闇の中、背格好や服装だけで正確に人物を特定するのは難しい。


(どちらにせよ、看過できん事態だ。ゴルディン商会は、我々の動きを正確に把握し、実力行使も辞さないと判断した。これは、我々への明確な挑戦であり、宣戦布告だ)


幸い、彼はこの事態を予測していた。彼は既にレオナール、ターナー教授、そして分析チームの主要メンバー全員に、王国のシークレットサービスの中でも精鋭中の精鋭からなる護衛チームを、秘密裏に配置していたのだ。アシュトン博士に対しても、彼の素行の悪さ(娼館通い)と、現在ターナー教授の研究室を間借りしているという状況を考慮し、「念のため」として護衛をつけていた。その「念のため」が、最悪の事態を防いだ形となった。


だが、これで安心はできない。一度失敗した以上、ゴルディン商会はさらに巧妙な、あるいはもっと大規模な手段で妨害、あるいは襲撃を仕掛けてくる可能性が高い。学院内の新しい実験棟も、完成したとはいえ、外部からの侵入や破壊工作のリスクが全くないとは言い切れない。


(……もはや、躊躇している時間はない。バックアッププランを実行に移す時だ)


ファビアンは、すぐさま連絡用の魔道具を取り出し、副学長、そして宮廷の上層部へと連絡を入れた。彼の声は、冷静ながらも、有無を言わせぬ決意に満ちていた。


翌朝、まだ昨夜の恐怖と人違いされたことへの憤慨が入り混じった複雑な心境のアシュトン博士の元へではなく、新しい実験棟にいるレオナールとターナー教授、そしてエルミーラたち技術班リーダーのもとへ、ファビアンは自ら足を運んだ。彼は、昨夜の事件について、詳細は伏せながらも「プロジェクト関係者を狙ったと思われる襲撃未遂事件が発生した」という事実だけを簡潔に告げた。


「幸い、事前に配置していた警備により未然に防ぐことができた。だが、敵対勢力(彼はゴルディン商会の名は出さなかった)が、我々の活動を快く思わず、実力行使に出てくる可能性が極めて高いことが明らかになった」


彼の言葉に、ターナー教授は顔を青ざめさせ、エルミーラたちは息をのんだ。レオナールだけが、トーマスからの警告を思い出していたため、驚きはしたものの、比較的冷静に受け止めていた。


「この事態を受け、国王陛下、および関係各所と協議した結果、プロジェクトの安全確保を最優先とし、分析拠点をより安全な場所へ移すことを決定した」


ファビアンは、きっぱりと告げた。


「移動先は、王宮敷地内にある魔法省管轄下の高度機密研究施設だ。そこは、王国内でも最高レベルの物理的・魔法的防御が施されており、許可なく立ち入ることは不可能に近い。設備も、この新しい実験棟と同等、あるいはそれ以上のものが用意されている。ローネン州からのサンプル、分析データ、そして何より、君たち自身の安全を確保するためには、これが最善の策だと判断した」


「ま、魔法省の……王宮敷地内の施設、ですと!?」


ターナー教授が、再び信じられないといった声を上げた。新しい実験棟ができたばかりだというのに、今度は国家最高機密レベルの施設へ移動するという。事態の展開の速さとスケールの大きさに、彼の常識は完全に追いついていなかった。


エルミーラたち技術班も、驚きと緊張の色を隠せないでいた。魔法省の施設で働くことは、彼らにとっても特別な意味を持つだろう。


「移動は、本日より順次開始する。必要な機材、サンプル、データは全て、厳重な管理下で移送される。君たちには、新たな環境で、引き続き分析任務に集中してもらいたい。安全は、私が保証する」


ファビアンの言葉には、絶対的な自信がみなぎっていた。彼の指揮の下、ローネン州分析プロジェクトは、外部の脅威から隔離された、王国の奥深くにある「聖域」へと、その活動の場を移すことになった。ゴルディン商会の妨害は、皮肉にも、プロジェクトをさらに強固なものへと押し上げる結果となったのだ。レオナールは、この大きな変化の中で、自らが巨大な国家の歯車の一部となり、後戻りできない流れの中にいることを、改めて強く実感するのだった。


アシュトン博士は、自分が護衛されていたことへの驚きと、ターナー教授と間違われたことへの憤慨、そして何より昨夜の恐怖体験ですっかり意気消沈し、しばらくは大人しく貴族学院の研究室(という名の城)に引きこもることになりそうだ。


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