第五十二話:商人の警告
ローネン州から送られてくるサンプルの分析作業が続く中、レオナールは一つの疑問を抱えていた。ファビアンが確保したという鉱滓や廃液のサンプル。あれは一体、どのようにして入手されたのだろうか? 鉱山への立ち入りは厳しく制限されているはずだ。エルミーラに尋ねても「機密事項」の一点張りだった。その答えの断片は、意外な人物からもたらされた。
ある日の午後、レオナールは息抜きも兼ねて、トーマス=ベルクからの呼び出しに応じ、学院近くの、ベルク商会が懇意にしているという静かな茶館の個室を訪れていた。最近急速に普及し始めた「ベルク紙」の生産状況や市場の反応について、トーマスから定期的に報告を受けるためだ。
「ベルク紙の売れ行きは、予想以上だよ、レオナール様」トーマスは、最新の販売データをまとめたベルク紙の帳簿を示しながら、興奮気味に語った。「特に学院や官公庁からの需要が凄まじい。父も、ヴァルステリア領での本格的な生産ラインの増設を、前向きに検討している」
「それは良かった」レオナールは頷いた。紙の問題から解放されたことで、彼自身の研究も格段に進めやすくなっている。
一通りベルク紙に関する報告と意見交換が終わると、トーマスはふと表情を引き締め、レオナールに向き直った。その目には、商売の話をする時とは違う、真剣な、そしてわずかに憂いを帯びた色が浮かんでいた。
「ところで、レオナール様…少し、お耳に入れておきたいことがございます。ローネン州の件なのですが」
トーマスが切り出したのは、レオナールが尋ねようと思っていた矢先のことだった。
「何か、動きがあったのか?」
「はい。私の情報網…主に父の商売上の繋がりや、ベルク紙の流通経路から聞こえてくる話なのですが」トーマスは声を潜めた。「ここ最近、ローネン州の鉱山周辺の村々で、奇妙な『木版刷りのチラシ』が出回っていたようなのです。それも、おそらくはベルク紙を使って」
「チラシ…?」
「ええ。『病の原因は鉱山の水らしい』『王都の学者が調べている』といった内容で、住民の不安を煽るような…それでいて、直接的な告発は避けるような、巧妙な文面だったとか。それが、かなりの広範囲に、組織的に配布されたようなのです」
(木版刷り…ベルク紙で…ファビアン殿か、あるいは彼の指示を受けた誰かが…?)レオナールは即座に察した。ファビアンならばやりかねない。
「その効果は、大きかったようです」トーマスは続けた。「住民の不満と恐怖は一気に高まり、特に鉱山の労働者たちが『毒水を飲んで働けるか』と騒ぎ出し、仕事にならなくなったと。結果、鉱山の生産はほぼ停止。ローネン子爵もゴルディン商会も、表向きは『潔白を証明するため』として、王都からの調査団…ファビアン様たちのチームによる、鉱山敷地内への立ち入り調査を、ついに認めざるを得なくなったそうです」
「…なるほど。それで、あの鉱滓や廃液のサンプルが手に入ったというわけか」レオナールは納得した。同時に、その強引とも言える手法に、一抹の危うさも感じる。
「ええ。ですが、話はこれで終わりではありません」トーマスの表情が、さらに険しくなる。「ゴルディン商会は、当然ながら黙ってはいません。彼らは、なぜ自分たちがこのような状況に追い込まれたのか、その原因を徹底的に調査しています。誰が情報を漏らし、誰が住民を扇動し、誰が調査団を動かしているのか…」
トーマスは、レオナールの目を真っ直ぐに見据え、重々しく告げた。
「そして、レオナール様。ゴルディン商会の調査は、既に核心に辿り着いています。ベルク紙の流通、学院での新しい分析技術の噂、そして、以前ローネン州をご訪問されたヴァルステリア家の公子…。彼らは、今回の件の背後に、ターナー教授と…レオナール様、あなたがいることを、確信しているはずです」
「……!」レオナールの背筋が凍った。敵は、既に自分の存在を特定している。
「レオナール様、どうか、くれぐれもご注意ください」トーマスの声には、友人としての偽らざる心配が籠っていた。「ゴルディン商会は、目的のためなら手段を選びません。王都における彼らの影響力は、我々ベルク商会など比較にならないほど大きく、裏社会にも通じていると言われています。彼らにとって、あなたは今や、最も排除したい障害の一つなのです。いつ、どのような形で彼らが動いてくるか分かりません。身辺の警護を強化するなど、対策を講じるべきです。我が商会でも、何かお力になれることがあれば、いつでもお申し付けください」
トーマスからの警告は、明確かつ深刻だった。これまでは、あくまで研究と、その結果に基づく間接的な働きかけが中心だった。だが、今や、レオナール自身が、巨大な商業組織の明確な敵意の対象となったのだ。それは、これまでのどの局面とも違う、直接的で、生々しい危険の始まりを意味していた。
「……ありがとう、トーマス。その警告、肝に銘じておく」レオナールは、緊張を悟られぬよう努めながら、冷静に礼を述べた。「君の情報は、非常に重要だ。助かるよ」
トーマスは、レオナールの落ち着いた態度に少し安堵しつつも、心配そうな表情は崩さなかった。
茶館を出て、学院へと戻る道すがら、レオナールの頭の中は高速で回転していた。ファビアンの戦略、ゴルディン商会の反撃、そして自身に迫る危険。ローネン州の問題は、もはや実験室の中だけの話ではない。現実世界の権力闘争、そして暴力さえもが絡む、複雑で危険な領域に足を踏み入れてしまったのだ。
(だが、ここで退くわけにはいかない)
彼は空を見上げた。青空の下、ローネン州では今も人々が苦しんでいる。彼らを救うためには、この戦いから目を背けることはできない。ゴルディン商会という明確な敵が現れたことで、むしろ彼の闘志は燃え上がっていた。
(警戒は最大限に。だが、同時に研究も進めなければ。敵の動きを警戒しつつ、こちらも次の一手を打つ…)
彼の胸の内には、新たな決意と、迫りくる危機に対する静かな覚悟が満ちていた。王都の喧騒が、どこか遠くに聞こえるようだった。




