第四十三話:破格の支援
研究室が、いくらか見られる状態になってから二日後のことだった。レオナールとターナー教授が、元素同定に向けた次の実験手順について白熱した議論を交わしていると、研究室の扉が、重々しく、しかし確かなリズムで三度ノックされた。それは、来訪を告げる単なる合図というよりは、何か決定的な事柄の始まりを予感させるような、不思議な力強さを持った音だった。
「……来たか」ターナー教授が、議論を中断し、緊張した面持ちで呟いた。レオナールもゴクリと息をのみ、無意識に背筋を伸ばす。数日前の宮内省の文官の訪問とはまた違う、未知の人物に対する警戒心と、わずかな好奇心が入り混じる。
「どうぞ」レオナールが応じると、扉が静かに開き、一人の男性が姿を現した。
その人物は、大仰な供を引き連れてくるだろうというレオナールたちの予想に反して、たった一人でそこに立っていた。歳は五十頃だろうか。背はレオナールより少し高いくらいだが、鍛え上げられた体躯は隙がなく、着ている濃紺の上質な生地の服――それは軍服を思わせる機能的なデザインでありながら、同時に宮廷に連なる者の品格も備えていた――の上からでも、その精悍さがひしひしと伝わってくる。
短く刈り込まれた灰色の髪には、わずかに白いものが混じり始めている。日に焼け、経験を物語る細かな傷跡が刻まれた厳つい顔立ちは、副学長の言った「いかつい」という表現が決して誇張ではないことを示していた。しかし、その表情は険しいというよりは、むしろ極限まで感情を削ぎ落としたかのような、静かな集中力を湛えている。そして何より印象的なのは、鋭い分析的な光を宿した双眸だった。その目は、まるで高性能な測定器のように、一瞬で研究室全体――かなり片付けられたとはいえ、まだ独特の混沌さを残す空間――と、中にいる二人を冷静に観察し、評価しているように見えた。
「ターナー教授、そしてレオナール・ヴァルステリア公子でいらっしゃいますね。私がファビアン・クローウェルです。勅命については、既にお聞き及びのことと存じます」
彼の声は、低く、落ち着いていた。軍人らしい明瞭さがありながらも、高圧的な響きはない。むしろ、長年指揮官として多くの人間を動かし、複雑な事態に対処してきた者だけが持つ、揺るぎない自信と独特の重みが感じられた。彼は、研究室の様子を一瞥したが、特に眉をひそめるでもなく、レオナールとターナー教授に視線を定めた。
「は、はっ! これはファビアン殿、ようこそお越しくださいました。お待ち申し上げておりました」
ターナー教授が、普段の彼らしからぬ、わずかに上擦った声で応じた。その顔には緊張の色が隠せない。レオナールもまた、貴族としての礼儀作法に則り、深く、そして丁寧にお辞儀をした。目の前の人物が放つ存在感は、学院の教授陣や、これまで出会ったどの貴族とも明らかに異質だった。単なる魔術師や軍人という枠を超えた、何か得体の知れない能力を感じさせる。
ファビアンは、二人の緊張を意に介する様子もなく、しかし穏やかな口調で続けた。
「まずは、先日の論文、拝見いたしました。実に興味深く、素晴らしい内容でした。特にクロマトグラフィーという分析手法、従来の技術では捉えきれなかったであろう『差異』を可視化するという着眼点には、深い感銘を受けました」
彼は、ターナー教授とレオナールを交互に見据え、その目に率直な敬意の色を浮かべた。
「この技術こそが、ローネン州の悲劇の原因を解明する鍵となると、私も確信しております。つきましては勅命の通り、この困難な任務を遂行するため、先生方のお力をお借りしたい」
その言葉遣いは、軍人らしい簡潔さを保ちつつも、相手の業績に対する正当な評価と敬意に基づいていた。副学長の言った通り、理性的で公平な人物であることは間違いなさそうだ。ただ、「お力をお借りしたい」という言葉の裏には、それが選択の余地のない協力要請であるという事実が、暗に、しかし明確に含まれていた。
「はっ、光栄でございます。我々の知識と技術が、王国とローネン州の方々のお役に立てるのであれば、喜んで協力させていただきます」レオナールが代表して答えると、ファビアンは満足げに小さく頷いた。
「心強いお言葉、感謝いたします。頼りにしています。……さて、具体的な協力体制についてですが」
ファビアンは、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。それは、簡易的ながらも精密に描かれた、建物の設計図のようなものだった。
「まず最初に、作業環境についてです。こちらの研究室は、長年の知の蓄積を感じさせる、素晴らしい場所であることは疑いありません。ですが、今回の任務の性質上、複数の調査団メンバーが出入りし、機密性の高いサンプルやデータを扱うことになります。現状の環境では、効率性と安全性の両面で、少々懸念があると言わざるを得ません」
彼の指摘は、婉曲ではあったが的確だった。ターナー教授も、「は、はあ……それは、ごもっともで……」と、ばつの悪そうな顔で同意するしかない。
「そこで、です」ファビアンは設計図を広げた。「学院当局、および宮内省と協議し、国王陛下のご裁可もいただきました。この研究棟に隣接する形で、新たに専用の実験施設を建設いたします。クロマトグラフィー分析に必要な専用区画、採取サンプルの厳重な保管庫、そして派遣される調査団メンバーが集中して技術習得と分析作業を行えるスペースを確保するための、今回の任務専用の施設です」
「……は?」
「……な、なんと……新築、ですと?」
今度こそ、レオナールとターナー教授は、同時に間の抜けた声を出した。耳を疑うような提案だったからだ。予想の斜め上を行く展開に、二人の思考は完全に停止した。
「し、新築……それも、学院内に、でございますか? そのようなことが……?」ターナー教授が、まだ信じられないといった様子で聞き返した。
「ええ」ファビアンはこともなげに頷いた。「幸い、国王陛下自らがこの件の重要性を深く認識され、異例ではありますが、十分な予算が承認されました。これは、ローネン州の民を救うという喫緊の課題であると同時に、将来の王国のために、この新しい分析技術を確立するための投資でもある、と陛下はお考えです。材料と人員の手配は既に宮廷の専門部署が進めております。基礎工事は明日から開始し、王国の魔法建築技術の粋を集め、可能な限り迅速に建設を進めます。おそらく、数週間もあれば、基本的な機能は利用可能になるでしょう」
彼の口調は、まるで隣の研究室の改装計画でも説明するかのように淡々としていたが、その内容は国家規模のプロジェクトそのものだった。国王の勅命、潤沢な予算、魔法建築による迅速な建設……。全てが規格外だ。
「……そ、それは……その、なんというか……壮大すぎて、言葉も……」ターナー教授は、完全に気圧され、言葉を失い、ただ口をパクパクさせている。研究一筋で生きてきた彼にとって、政治や国家予算といった世界のスケールは、想像を絶するものなのだろう。
レオナールもまた、驚きを隠せなかった。自分たちの研究が、これほどまでの国家的なリソースを動かすきっかけになったという事実に、改めて身が引き締まる思いだった。ローネン州の問題解決への道筋が一気に開けたという期待感と同時に、失敗できないというプレッシャーも感じる。
ファビアンは、呆然とする二人を一瞥すると、わずかに表情を和らげたように見えた。もしかしたら、学者たちのこういう反応を見慣れているのかもしれない。
「驚かれるのも無理はないかもしれません。ですが、これも任務を確実に遂行するためです。先生方には、最高の環境で、存分にその能力を発揮していただきたい。……それから、この新しい実験施設ですが」
彼は、重要な点を付け加えるように、落ち着いた声で言った。
「今回のローネン州に関する任務が完了した後――無論、成功裏に、ですが――その施設と最新の設備は、基本的に先生方、ターナー研究室が自由に使用していただいて構わない、ということになっております。国王陛下も、そして王国としても、先生方の研究が将来の王国にとって、計り知れない価値を持つものになると、大いに期待しておられるようです。この度の協力は、そのための先行投資でもある、とお考えください」
「……!」
今度こそ、ターナー教授は完全に言葉を失い、大きく目を見開いてファビアンを見つめた。その顔には、驚愕、困惑、そして信じられないほどの幸運に対する戸惑いが浮かんでいる。レオナールもまた、その破格すぎる申し出に、背筋に電流が走るような衝撃を受けていた。
最新設備を備えた専用実験棟が、自分たちの研究のために、将来にわたって自由に使用できる。それは、研究環境としては望外の、まさに夢のような話だった。羊皮紙の心配どころではない、研究のスケールそのものが変わってしまう。
ファビアン・クローウェル。厳格な風貌の元軍人。勅命という絶対的な権威を背景に持ちながらも、相手への敬意を払い、合理的な判断を下す人物。彼は、予想を遥かに超える規模の国家的な支援と、そして研究者としての未来への大きな可能性を、まるで当然のことのように携えて、この混沌とした研究室に現れたのだった。レオナールとターナー教授は、その事実に圧倒されながらも、これから始まるであろう、かつてない規模のプロジェクトへの決意を、静かに、しかし強く固めるしかなかった。




