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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第四十二話:王命と研究室の変革

副学長がローネン州再調査と協力要請の報せをもたらしてから数日、レオナールとターナー教授の研究室は、元素同定という新たな目標に向けた地道な実験を再開していた。抽出した黒褐色の粉末を様々な試薬と反応させ、その質量変化を精密に測定する。ベルク紙の上には、成功と失敗の記録が複雑な計算式と共に積み重なっていく。空気中には、薬品の匂いと、真理に近づこうとする二人の静かな熱気が満ちていた。


そんなある日の午後、研究室の扉が、以前にも増して厳かに、しかし力強くノックされた。レオナールが手を止め、ターナー教授と顔を見合わせる。扉の向こうには、明らかにただならぬ気配があった。


「失礼いたします」


レオナールが応じると、扉がゆっくりと開き、立っていたのは見慣れぬ人物だった。上質な生地で作られた、しかし華美ではない制服に身を包み、胸には王家の紋章が刺繍されている。その佇まいからは、宮廷に仕える高位の文官であることが窺えた。彼の背後には、同じく王家の紋章をつけた護衛らしき騎士が二人、控えている。研究室の混沌とした様子に一瞬眉をひそめたものの、文官はすぐに表情を取り繕い、レオナールとターナー教授に向かって深く一礼した。


「ターナー教授、並びにレオナール・ヴァルステリア公子とお見受けいたします。私は宮内省の者です。本日は、国王陛下よりの勅命をお伝えに参りました」


「……ちょ、勅命、だと?」


ターナー教授が、思わず素っ頓狂な声を上げた。普段、王宮とは縁遠い研究室に、国王陛下の直接の命令が下されるなど、前代未聞のことだった。レオナールもまた、事の重大さに息をのんだ。副学長からの協力要請の話は聞いていたが、それが勅命という最高位の命令にまで格上げされるとは、想像もしていなかった。


文官は、厳粛な面持ちで、巻物状になった公式文書を取り出し、恭しく読み上げ始めた。


「国王陛下におかせられましては、ローネン州にて発生せる奇病による民の苦しみを深く憂慮され、その原因究明と対策を喫緊の課題と定められた。王立アステリア学院、ターナー教授およびレオナール・ヴァルステリア公子が開発せし新分析技術『クロマトグラフィー』は、原因究明の鍵となるものと認められる。よって、勅命により、以下を申し渡す。両名に対し、ローネン州再調査団への当該技術の指導・協力を惜しみなく行うこと。また、再調査団より選抜されし者に、研究室での技術習得の機会を与えること。これは、王国と民の安寧に資する、最重要の任務と心得るべし——」


よどみなく読み上げられた勅命の内容は、副学長から事前に聞いていた協力要請と基本的には同じだったが、「勅命」という言葉の重みが、全てを異質なものに変えていた。これは単なる協力依頼ではない。国家の意思であり、拒否することは許されない、絶対的な命令なのだ。


読み終えた文官は、巻物を丁寧に丸め、ターナー教授に差し出した。


「ターナー教授、レオナール公子。謹んで、勅命をお受けいただけますかな?」


「……は、ははっ……」ターナー教授は、やや引きつった笑みを浮かべながら、差し出された巻物を震える手で受け取った。「勅命、とあらば……。この老骨、粉骨砕身、お役に立てるよう努める所存にございます」


彼の声には、驚きと困惑、そして事の重大さに対する緊張感が滲んでいた。レオナールもまた、貴族の子息としての作法に則り、深く頭を下げた。


「ヴァルステリアの名において、謹んで勅命を拝戴はいたいいたします。王国と民のため、全力を尽くす所存です」


内心では、その責任の重さに身が引き締まる思いだった。自分たちの研究が、ついに王国の最高権力者を動かし、国家的なプロジェクトの一部となったのだ。それは名誉なことであると同時に、失敗は許されないというプレッシャーも意味していた。


「うむ。お二人の快諾、陛下もさぞお喜びになられましょう」文官は安堵したように頷いた。「つきましては、具体的な協力の段取りについてですが、再調査団を率いる宮廷魔術師殿——ファビアン殿とご協議いただきたく存じます。近日中に、ファビアン殿より連絡があるはずです。なお、今回の協力に際しては、必要な予算が別途計上されます。その執行に関する決裁権は、ファビアン殿に一任されるとのことですので、ご承知おきください」


「承知いたしました」


「それから、技術習得のための人員派遣についてですが」文官は続けた。「ファビアン殿より、『分析技術の性質上、精密な手作業や観察眼に長け、かつ薬草学や錬金術の素養がある者が望ましい』との意向が示されております。調査団の中から、適任と思われる者を3、4名選抜し、近日中にこちらの研究室へ派遣する手筈となっておりますので、受け入れのご準備をお願いいたします」


(精密作業、観察眼、薬学・錬金術の素養……。なるほど、宮廷魔術師殿も、どういう人材が必要か、的確に理解しているな)


レオナールは感心した。それならば、技術指導も比較的スムーズに進むかもしれない。


「受け入れの準備は、万事整えておきます。どうぞ、ご懸念なく」ターナー教授が、やや硬いながらも請け負った。研究室の片付けが大変だ、と内心でぼやいているのがレオナールには聞こえるようだった。


文官は、再度丁重に礼を述べると、護衛と共に研究室を後にした。


後に残されたのは、国王の印が押された勅命の巻物と、呆然とした表情のターナー教授、そして静かに事態の大きさを噛み締めるレオナールだった。


「……やれやれ。とんでもないことになったわい」


ターナー教授は、大きなため息をつくと、椅子にどっかりと腰を下ろした。


「勅命、か……。ただの協力要請だと思っていたが、まさか国王陛下直々の命令とはな。失敗すれば、我々の首が飛ぶどころの話では済まんかもしれんぞ。……まあ、予算が付くというのは、ありがたいがな」


「ですが先生」レオナールは、落ち着きを取り戻しつつあった。「これは、我々の研究が認められた証でもあります。そして、ローネン州の人々を救うための、大きなチャンスです。それに、調査団から優秀な人材が来れば、我々の研究——特に元素同定——も加速するかもしれません」


「ふん、物は言いようだな」教授は鼻を鳴らしたが、その表情には、新たな挑戦への意欲も僅かに覗いていた。「まあ、やるしかないのだろう。まずは、あの宮廷魔術師とやらが、どんな人間かだな。それと、派遣されてくる連中か……。この研究室のどこに、彼らの作業スペースを作るか……」


研究室に届けられた勅命の重々しさは、歴戦の宮廷文官が退室した後も、濃密な空気としてその場に残っていた。国王陛下直々の命令。ローネン州再調査団への技術協力。失敗は許されないという無言の圧力が、レオナールとターナー教授の肩にずしりとのしかかる。


「……さて」教授は、テーブルに置かれた勅命の巻物を忌々しげに一瞥すると、研究室全体をゆっくりと見回した。実験器具が散乱し、鉱石のサンプルが無造作に積み重ねられ、床には正体不明の染みがこびりついている。いつもの混沌とした光景が、今日ばかりは致命的な問題に見えた。

「……まずは、この『魔窟』をどうにかせねばなるまい。こんな状態では、宮廷の方々をお通しすることすらできんわ!」

教授は椅子から跳ねるように立ち上がり、腕まくりをした。その顔には、焦りと共に、長年放置してきた研究室の惨状に対する、半ば諦めのようなものが浮かんでいた。

「レオナール君、それからギルバート君! 急ぐぞ! まずは、床に転がっている得体の知れないガラクタを片付ける! それから、あの棚の、いつのものかも分からん薬品の整理だ! 埃も酷いぞ、窓も開けて換気だ、換気!」

普段は研究以外のことには無頓着な教授が、珍しく声を張り上げて指示を飛ばす。それは、研究室始まって以来の大掃除の始まりだった。


レオナールとギルバートも、すぐさま動き出した。ギルバートはテキパキと床を掃き、窓を拭き、散乱した書物を整理する。レオナールは、専門知識が必要な薬品棚の整理や、実験器具の洗浄・分類を担当した。ターナー教授も、口では「儂の研究資料を勝手に動かすな!」「そのガラス管は繊細なのだぞ!」などと文句を言いながらも、自ら古い実験ノートの山を整理したり、危険な廃棄物(?)を安全な場所に移動させたりと、懸命に動いている。


しかし、長年の「混沌」は、そう簡単には解消されなかった。どこから手をつけていいのか分からないほどの物量と汚れ。三人が汗だくになって奮闘していると、研究室の扉が再びノックされた。


「ターナー君、少しは落ち着いたかね?」

入ってきたのは、副学長だった。彼の後ろには、見慣れない若い研究員風の男女が数名控えている。

「おお、副学長先生! これは、どうも……」ターナー教授が、埃まみれの顔で応じた。

「いやなに、勅命が下ったと聞いてな。ファビアン殿をお迎えするのに、このままではいかんだろうと思って、私の研究室の若い衆を連れてきたのだよ。少しでも手伝わせようと思ってな」

副学長は、穏やかな笑みを浮かべながら、研究室の惨状を見て、やはり少し呆れたような顔をした。

「おお、それはありがたい! まさに猫の手も借りたいところでしたわ!」

教授は、渡りに船とばかりに喜んだ。副学長の研究室のメンバーも加わり、大掃除のペースは一気に加速した。彼らは、副学長の的確な指示のもと、効率よく作業を進めていく。さすがに、普段から整理整頓された環境で研究しているのだろう。


作業の合間、レオナールは古いガラス器具を磨いていた副学長の隣に行き、それとなく尋ねてみた。

「副学長先生、その……ファビアン殿というのは、どのようなお方なのでしょうか? 宮廷魔術師で、調査団を率いるほどの人物となると、やはり相当な……」

副学長は、手を止めずに、少し声を潜めて答えた。

「ふむ、ファビアン・クローウェル殿か。彼はな、もともとは軍の出身だよ。魔法兵として情報部や特殊作戦支援で活躍し、数々の難事件を解決に導いた、切れ者中の切れ者だ。軍での経歴も目覚ましいものだったと聞く。その分析力と情報処理能力は、宮廷魔術師の中でも随一と評価されておる。退役後にその功績で宮廷魔術師の称号を与えられたが、今も軍務省に籍を置く、いわば現役に近いお方だ」

「軍……ですか」レオナールの脳裏に、規律に厳しく、実直で、やや威圧的な軍人のイメージが浮かんだ。

「うむ。性格は……実直、冷静沈着、そして任務遂行のためなら一切の妥協を許さない、といったところかな。人当たりは決して悪くないが、その眼光は鋭く、見ていると背筋が伸びるような、独特の威圧感がある。戦場を経験し、多くの修羅場を潜り抜けてきた、まさに『歴戦の猛者』という風格だな。軍人上がりらしい、少しばかり『いかつい』雰囲気も、まあ、否定はできんな」

副学長は、言葉を選びながらも、ファビアンの人となりを的確に描写した。

「いかつい……」レオナールの隣で会話を聞いていたターナー教授が、思わず呟いた。

(軍人上がりで、冷静沈着、妥協を許さない……そして、いかつい、か……)

レオナールも、少しばかり気が重くなるのを感じた。科学的な議論を冷静に行える相手だとは思うが、ターナー教授のような自由奔放な研究者とは、かなりタイプが違いそうだ。下手なことをすれば、それこそ軍隊式に叱責されるかもしれない。

「……これは、なかなか手強そうな相手ですな」ターナー教授が、額の汗を拭いながら、不安げに漏らした。

「まあ、心配することはない」副学長は、二人を励ますように言った。「彼は理性的で公平な人物でもある。君たちの技術と知識を正当に評価し、敬意を持って接してくれるはずだ。ただ、甘えや言い訳は通用しないと思った方が良いだろうな」


副学長とその助っ人たちの協力もあり、数時間後、ターナー教授の研究室は、見違えるほど……とは言わないまでも、少なくとも人を招き入れることができる程度には、整理整頓された。床にはもうガラクタは転がっておらず、実験台の上も必要最低限の器具だけが並び、薬品棚もラベルが見えるように整理されている。それでも、長年染み付いた薬品の匂いや、壁のすすけた跡までは消しようがなく、この研究室独特の雰囲気は残っていたが。


「ふぅ……まあ、こんなものだろう」ターナー教授は、息をつきながら、少しだけ片付いた研究室を見回した。「あとは、ファビアン殿とやらが、いつ来られるか、だな」

レオナールも、額の汗を拭いながら、綺麗になった(?)研究室を見渡した。これで、ひとまず客人を迎える準備はできた。



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