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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第四十一話:動き出す調査

ローネン州の奇病に関する論文が紀要編集委員会に受理され、掲示板での議論がひと段落した後、レオナールとターナー教授の研究室は、次なる、そしてより根源的な課題へと静かに移行していた。彼らの目の前には、ペーパークロマトグラフィーによってその存在が白日の下に晒された、「黒褐色のスポット」——ローネン州の悲劇の元凶と強く疑われる未知の毒性粒子がある。次なる目標は、その正体を、彼らが「根源粒子」と呼ぶ、物質の最小構成単位レベルで突き止めること。それは、この世界の物質観の根幹に触れる、困難だが魅力的な挑戦だった。 二人の間で交わされる言葉も、四大元素論から離れ、独自の「粒子モデル」に基づいた新しい用語(それはまだ流動的で、発見と共に変化していくものだったが)が使われるようになっていた。


「先生、この黒褐色の粒子が、硫黄と強く結合してあの色を呈したということは、やはり何らかの金属、あるいはそれに近い性質を持つ『根源粒子』である可能性が高いですね。反応性から見て、特定のグループに属することも推測できるかもしれません」

レオナールは、これまでの実験データを整理した分厚いベルク紙の束をめくりながら、自身の考察を述べた。研究室の空気は、薬品の匂いと、知的な興奮が混じり合った独特の濃密さを帯びていた。


「うむ。そして、我々が構築しつつある粒子モデルに基づけば、その粒子の固有の『重さ』——あるいは『相対質量』とでも言うべきか——を特定できれば、正体に大きく近づけるはずだ」

ターナー教授は、慎重に改良された天秤の皿に、抽出・精製した黒褐色の粉末(まだ純度は完全ではないが)をごく微量載せながら応じた。彼の目は、研究者としての鋭い光を放っている。


彼らは、その未知の物質を、既知の物質(精製した『燃焼を助ける気体』の粒子や、硫黄の粒子、あるいは特定の酸など)と定量的に反応させ、その際の精密な質量変化を測定する実験を繰り返した。反応前後の物質の質量比から、未知の粒子の相対的な重さを推定しようという試みだ。それは、物質が単純な整数比で結合するという法則性を、この異世界で一つ一つ手探りで検証していく作業だった。


実験は困難を極めた。必要な試薬の純度を高めること自体が一苦労であり、反応条件(温度、圧力、触媒の有無)を厳密に制御するのも容易ではない。魔法による補助は有効だが、それでも精密な測定には限界があった。ベルク紙の上には、微量な質量の測定値と、それに基づく複雑な計算式、そして失敗した実験の記録が、インクと木炭ペンでびっしりと書き込まれていった。


「この粒子1に対して、『燃焼を助ける気体』の粒子が1.5の比率で結合する場合と、2.5の比率で結合する場合があるように見えるな……。整数比にならないのは、まだ不純物が混じっているせいか、それとも……結合の仕方が複数あるタイプと考えるべきか……?」

ターナー教授は唸りながら計算結果を睨んだ。

「質量から逆算すると、この粒子の相対質量は、水素と思われる最も軽い粒子を1とした場合、およそ75あたり……か。(75……。この毒性、硫黄との強い反応性、酸にも塩基にも反応しうる両性的な挙動、複数の結合様式……状況証拠は、どう考えてもヒ素(元素番号33)を指している。だが、相対質量75というのは……周期表の原子量までは流石に記憶にない。原子番号の2倍プラスアルファくらいで矛盾はないが、本当にヒ素でいいのか? この世界の根源粒子は俺の知るものと微妙に異なるのか? いや、他の軽い粒子ではほぼ一致しているんだ。この値で当たり、と考えるべきか……? いずれにせよ、更なる検証は必須だな) 」レオナールは、内心で確信に近い疑いを抱きつつも、なお残るわずかな疑問と向き合いながら、あくまで実験データに基づき慎重に言葉を選んだ。

一進一退の研究が続く、そんな集中と試行錯誤の日々が数週間過ぎたある日の午後。研究室の扉が、いつもより少し強くノックされた。返事をする間もなく、扉が開き、入ってきたのは副学長だった。彼の足取りは速く、その表情には普段の穏やかさに加えて、何やら重要な進展があったことをうかがわせる緊張感と、わずかな興奮が漂っていた。研究室の混沌とした様子にも構わず、彼はまっすぐ二人の元へ歩み寄った。


「ターナー君、レオナール君。少し、良いかね。急ぎの報せだ」

副学長は、二人に椅子を勧める間も惜しいといった様子で、単刀直入に切り出した。

「例の件だが、動いたぞ。君たちの論文、そして掲示板でのホーエンハイム教授とのやり取りも含めて、私が例の人物——以前ローネン州の調査団に参加していた宮廷魔術師殿に、内密に情報を伝えたのだ」


実験の手を止め、レオナールとターナー教授は息をのんで副学長の言葉に耳を傾けた。ついに、水面下での動きが具体的な結果を生んだのだ。


「彼は、最初こそ半信半疑だったようだがね」副学長は、少し声を潜めながら続けた。

「君たちが提示したクロマトグラフィーという新しい分析法のデータ、特に汚染水と患者の尿から共通の物質が検出されたという事実は、彼にとって決定的だったようだ。以前の調査団では全く捉えられなかった『何か』が、確かに存在することを示す、動かぬ証拠だと感じたらしい。調査が手詰まりに終わったことへの忸怩たる思いもあったのだろう。ホーエンハイム教授の、錬金術の知見からのコメントも、彼の決断を後押ししたようだ。『古の知恵も、新しい科学も、同じ鉱毒を示している』とな」


「それで……彼はどう動かれたのですか?」レオナールが、期待と不安の入り混じった声で尋ねた。


「うむ」副学長は力強く頷いた。

「彼は、すぐさま自身の権限と宮廷内での人脈を使い、上層部に強く働きかけた。ローネン州の惨状、調査の不備、そして君たちの発見の重大性を訴え、再調査の必要性を説いたのだ。その結果、国王陛下の裁可を得て、ローネン州の奇病について、正式な再調査を行うことが決定されたそうだ! 今度は、以前のような手探りの調査ではなく、君たちの論文が示す『水質汚染』と『未知の毒性物質』という観点を主軸に、科学的なアプローチで行われるとのことだ」


「おお……! ついに……!」ターナー教授が思わず声を上げた。目には感動の色が浮かんでいる。彼らの研究が、ついに王国の中枢を動かしたのだ。


「ただし」副学長は言葉を切った。

「問題が一つある。再調査チームのメンバーは、薬師や騎士団、そして例の宮廷魔術師殿を含む精鋭が選ばれたそうだが、肝心の『クロマトグラフィー』について、誰も知識も技術も持ち合わせておらんのだ。報告書は読んでも、実際にどう操作するのか、結果をどう解釈するのか、全く分からん、と」


「……なるほど。それは、そうでしょうね」レオナールは状況を察した。新しい技術とはそういうものだ。


「そこで、だ」副学長は二人に向き直った。

「調査チームを代表して、その宮廷魔術師殿から、君たちに協力の要請があった。この新しい分析技術について、調査チームに指導・協力してはもらえんだろうか、と。王国としても、この技術は今後のためにぜひとも習得したいと考えておる。具体的には、分析の手順を教えたり、あるいは調査チームのメンバー数名がここへ来て、君たちの下で一定期間、技術を習得したり、といった形になるかもしれん。もちろん、相応の謝礼や、研究への便宜も考慮されるだろう」


それは、レオナールたちにとっても予想外の展開だった。自分たちの研究成果が認められ、国家レベルの調査に直接協力する機会が訪れたのだ。それは、ローネン州の人々を救うための、大きな前進に繋がる可能性を秘めている。しかし同時に、自分たちの研究時間を割き、外部の人間を受け入れることにもなる。


「……先生、どうなさいますか」レオナールは、ターナー教授の顔を見た。彼の判断を尊重するつもりだった。

教授は、少しの間黙って考え込んでいた。根源粒子の特定という純粋な科学的探求の途中で、外部からの協力要請。彼の研究者としての矜持と、事態の緊急性が天秤にかけられているようだった。やがて、彼はふっと息をつくと、レオナールに向かって、そして副学長に向かって、決然と頷いた。


「……よかろう。我々の開発した技術が、かの地の民を救う一助となるのであれば、協力は惜しまん。それに、彼らが本格的な調査を行えば、我々だけでは得られなかったであろう、より広範なデータやサンプルも手に入るかもしれん。 公的な権限で、鉱滓や廃液のサンプルも堂々と入手できるだろう。そうなれば、我々があのエリアスとかいう男から危険を冒して手に入れた、由来の怪しいサンプルを使わずに済む。それは、好都合だ。 根源粒子の特定研究にも繋がるだろう。むしろ、歓迎すべきことかもしれんな」


彼の返答には、科学者としての探求心と、人道的な思い、そして 厄介事を避けたいという 現実的な判断が込められていた。

「ありがとうございます、先生! そのお言葉、心強いです」レオナールも、決意を新たにした。


(これで、エリアスさんを危険に晒す必要もなくなるかもしれない……)


「それはありがたい! 君たちならば、そう言ってくれると信じていたよ」副学長も安堵の表情を浮かべた。「では、その旨、宮廷魔術師殿に伝えよう。具体的な協力の形については、追って正式な連絡があるはずだ。これで、事態は大きく動き出すだろう。……ああ、それからレオナール君、君の学業についても、今回の協力は公的な任務として扱われるよう、私から働きかけておこう。心配はいらん」


副学長が、満足げな表情で研究室を後にすると、部屋には静かな、しかし確かな興奮が残った。根源粒子の特定という地道な基礎研究を進めながら、同時に、彼らの科学的知見が現実世界の問題解決へと応用されようとしている。レオナールとターナー教授の探求は、学術の領域を超え、社会を動かす力を持つ、新たな局面を迎えようとしていた。

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