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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第四十話:白き紙上の波紋

レオナールとターナー教授が共同で開発した「ベルク紙」は、トーマス=ベルクとその父エルンスト会長の商才によって、王都で静かな、しかし確実な変化をもたらし始めていた。特に大きな影響を受けたのは、王立アステリア学院のような知の集積地だった。


かつて、学院紀要といえば、完成した論文が羊皮紙に数部だけ製本され、図書館の奥に厳重に保管される、一部の研究者や熱心な学生だけがアクセスできる代物だった。だが、安価で大量に供給されるようになったベルク紙の登場は、その伝統を根底から覆した。


紀要編集委員会は、正式な羊皮紙製本の前に、受理された論文の予稿を木版印刷でベルク紙に刷り、研究棟の掲示板に張り出すという、新しい試みを導入したのだ。木版ならではの、インクの僅かな滲みや線の揺らぎはあったが、羊皮紙への手書きに比べれば、圧倒的に早く、安価に情報を共有できる。これにより、知識の流通速度は飛躍的に高まった。学生も教員も、最新の研究成果に気軽に触れることができるようになったのである。


さらに、この掲示板システムは、予期せぬ副産物を生んだ。掲示された木版刷りの予稿の余白に、他の研究者や学生が自由にコメントや質問を書き込めるようになったのだ。インクで書かれた丁寧な反論、木炭ペンで走り書きされた素朴な疑問、時には匿名での鋭い指摘。著者はそれに対して返答を書き込み、時には掲示板上で活発な議論が繰り広げられることもあった。羊皮紙しかなかった時代には考えられない、ダイナミックで開かれた学術コミュニケーションの文化が、ベルク紙と木版印刷の組み合わせによって急速に醸成されつつあった。


レオナールとターナー教授が提出したローネン州の奇病に関する論文——『ローネン州における水質汚染と奇病の関連性に関する疫学的・化学的考察』と題されたそれは、その衝撃的な内容から、予稿が掲示されるや否や、多くの注目を集めた。クロマトグラフィーという新技術で未知の毒性物質の存在を示唆し、それが汚染された水と患者の体内に共通して見られることを示したデータは、多くの研究者に衝撃を与えた。


掲示板には、様々なコメントが寄せられた。疫学的な考察の妥当性を問うもの、クロマトグラフィーの原理についてさらに詳細を求めるもの、そしてもちろん、論文が示唆する「水質汚染」と「奇病」の関連性に対する様々な意見。


そんな中、レオナールが特に注目したのは、予稿が掲示されて数日後に書き加えられたコメントだった。それは、確信に満ちた力強い筆跡で書かれ、署名には特徴的なフルネームと所属研究室が記されていた。


『クロマトグラフィー、実に興味深い分離法である。著者らが示したデータ——病に苦しむ地域の水と人々の体液にのみ一貫して現れるという黒き染み——は、我々錬金術の理論と実践を研究する者が長年伝承として、また実体験として知る「鉱毒こうどく」の存在を強く裏付けるものだ。特に、蒼鉛鉱山というその土地の性質、そして報告されている住民の症状(神経系や皮膚への影響)は、金属精錬に伴う大地のけがれが水を通じて拡散した際に起こる典型的な災禍と、驚くほど符合する。著者らは科学的な慎重さから明言を避けておられるようだが、提示された客観的データは、この「鉱毒説」を経験則からも強力に補強するものであり、原因究明に向けた重要な一歩と言えよう。願わくば、この黒き染みを生む物質の同定が急がれんことを。それは、古の錬金術の知恵と、新しい科学の目が融合する好機やもしれぬ。——テオフラストゥス・フォン・ホーエンハイム、王立学院 錬金術理論応用研究室』


「……これは……! 錬金術研究で、あの高名な……!」レオナールはコメントを読み返し、驚きと、わずかな戸惑いを覚えた。錬金術分野の大家として知られるホーエンハイム教授は、彼らの論文を批判するどころか、錬金術の知見や伝承を引き合いに出し、「鉱毒」であることの裏付けだと主張しているのだ。そして、レオナールたちが科学的な慎重さから明言を避けていることまで見抜いた上で、そのデータを「鉱毒説を強力に補強するもの」と評価している。


(協力的な見解……いや、それ以上だ。まるで、我々が言えないでいる結論を、錬金術という別の学術体系の権威から代弁してくれているかのようだ。これは……ありがたい援護射撃になるかもしれない。だが、同時に、意図せずして我々を『鉱毒説』の旗頭に押し上げてしまう危険性もある。それに、このホーエンハイム教授、どこまで我々のデータの本質を理解して書いているのだろうか……?)


外部からの、しかも錬金術という異世界の伝統的知識体系からの「お墨付き」は、論文の説得力を増し、世論を動かす上で有利に働くかもしれない。しかし、それは同時に、レオナールたちが隠している情報(鉱滓・廃液の直接分析データや毒性実験の結果)の存在を勘繰られたり、鉱山側の反発をさらに強めたりするリスクも孕んでいた。


彼は、この予想外の援軍(?)の出現に、すぐさまターナー教授に報告し、意見を求めた。

「先生、ホーエンハイム教授からこのようなコメントが。我々のデータを『鉱毒説を補強するものだ』と、錬金術の観点から肯定的に評価しています」


書き写しを見たターナー教授は、驚き、そして怪訝な表情を浮かべた。

「ほう……ホーエンハイムが、我々の実証研究を肯定的に? 錬金術の伝承を引き合いに出してまで……。これは、どういう風の吹き回しだ? あの男が、素直に新しい科学的アプローチを評価するとは思えんが……」

教授もまた、このコメントの真意を測りかねているようだった。アカデミアの科学者として、経験則や伝承に基づく錬金術とは一線を画してきた自負があるのだろう。


「協力的に見えるだけに、逆に扱いが難しいですね。下手に同調すれば、我々が隠していることがあると認めるようなものですし、かといって、せっかくの異なる視点からの支持を無下にするのも……」

「うむ……。これはやはり、副学長先生にご相談するのが一番だな。このコメントをどう受け止め、どう返答すべきか。学術的な議論を超えた、政治的な判断が必要だろう」


翌日、副学長に経緯を説明し、コメントを見せると、彼は興味深そうに頷いた。

「なるほど。ホーエンハイム教授が、錬金術の立場から君たちのデータに『鉱毒』という解釈を与え、それを肯定的に評価した、と。これは面白い展開だな」

副学長は、レオナールとターナー教授の懸念を理解した上で、自身の見解を述べた。

「彼の真意がどこにあるかはさておき、このコメントは、使い方によっては我々にとって有利に働く可能性がある。君たちが科学的データを示し、錬金術の権威がそれを伝統的な『鉱毒』の知見で裏付ける。異なるアプローチからの主張が一致すれば、世論に対する説得力は格段に増すだろう」


「しかし、副学長先生。我々はまだ『鉱毒』と断定できる科学的根拠を公にはできません」レオナールが懸念を口にする。

「もちろんだ」副学長は頷いた。「だから、返答はこうだ。『ホーエンハイム教授、示唆に富むご見解、誠にありがとうございます。錬金術における鉱毒に関する深い知見と、我々のデータとの間に共通点を見出していただき、大変勇気づけられます。ご指摘の通り、観測された物質の科学的な同定は、目下の最重要課題であり、我々も全力を挙げて取り組んでいるところです。その正体が明らかになった暁には、古来の知恵と新しい知見が、ローネン州の人々を救う道筋を照らすことになるでしょう。今後とも、忌憚なきご意見を賜れれば幸いです』…これならば、相手の協力的な姿勢に感謝を示し、鉱毒説への共感を表明しつつも、最終的な断定は『物質の同定』という科学的プロセスに委ねる、という我々の立場を崩せずに済む。そして、暗に今後の協力を促すこともできる」


「なるほど…!」ターナー教授が膝を打った。「感謝と共感を示し、相手を立てつつ、科学的アプローチの主導権は渡さない、と。見事な返答ですな」

レオナールも、この返答ならば、ホーエンハイム教授のコメントを有効に活用しつつ、自分たちのペースを守れると感じた。


研究室に戻ったレオナールは、副学長の助言を元に、ターナー教授と相談しながら返答文を作成した。感謝と共感を前面に出し、錬金術への敬意も払いながら、科学的探求への真摯な姿勢を強調する。その返答は、翌日、掲示板のホーエンハイム教授のコメントの下に、丁寧に貼り付けられた。


錬金術の大家からの予想外の援護射撃。それが吉と出るか凶と出るか、まだ分からない。だが、レオナールたちの研究は、確実に学院の内外に波紋を広げ、様々な人々を巻き込み始めていた。彼は、白き紙の上で交わされる言葉の裏にある複雑な思惑を感じながらも、自らの研究——物質の同定という、次なる科学的挑戦へと、意識を向けるのだった。


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