第三十九話:動き出す水面下
ローネン州に関する論文のリバイス作業を終え、修正稿を紀要編集委員会に再提出してから、数日が経ったある日の午後。レオナールが一般教養の講義に出席している間、ターナー教授は一人、研究室で次なる実験——例の黒褐色のスポットの原因物質の根源粒子の種類の特定——に向けた準備を進めていた。ベルク紙の安定供給と、レオナールという有能な協力者のおかげで、彼の研究はかつてないほど捗っていた。
古い蒸留装置のガラス管を磨きながら、教授は先日再提出した論文のことを考えていた。
(査読者からの指摘も的確に対応したつもりだ。あの内容ならば、今度こそすんなり受理されるはずだ。そうなれば、いよいよ……あの時のレオナール君との話を実行に移す時かもしれんな……)
彼の思考は、コンコン、という丁寧なノックの音によって遮られた。
「ターナー教授、おられますかな?」
聞こえてきたのは、聞き覚えのある、落ち着いた声だった。教授は少し驚きながら、手を止めて扉の方へ向き直った。
「おお、これは副学長先生。珍しいですな、このような埃っぽい場所にわざわざお越しになるとは」
扉を開けて入ってきたのは、白く長い髭を蓄え、学院の式典などで見かける上等なローブを身にまとった、魔術理論の老教授——学院の副学長を務める人物だった。彼は、普段は研究棟の奥にある自身の執務室にいることが多く、ターナー教授の研究室に直接足を運ぶのは、以前のクロマトグラフィー論文の受理を知らせに来てくれた時以来のことだった。
「いやなに、またしても耳寄りな報せがあってな。直接、君に伝えようと思って来たのだよ」
副学長は、穏やかな笑みを浮かべながら、手にしていた一枚のベルク紙をターナー教授に差し出した。それは、紀要編集委員会からの正式な通知書だった。
「君と、ヴァルステリアの若者が再提出したローネン州に関する論文、正式に受理されたぞ。おめでとう、ターナー君」
「ほう……! それは、ようございました」
ターナー教授は、通知書を受け取り、安堵と共に素直に喜びを表した。
「受理されたどころではない」副学長は続けた。「修正箇所も的確で、査読者たちも最終的に高く評価しておった。学院としても誇らしい成果だ。それにしても、前回も感心したが、今回もまた、実に重要な研究だな」
「はっは、それは光栄ですな。まあ、ほとんどヴァルステリアの若者の発案のようなものですが」
教授は、謙遜しながらも、満更でもない様子だった。
副学長は、研究室の中を興味深そうに見回しながら言った。
「それにしても、あのヴァルステリアの若者は、実に面白い才能を持っておるな。入学時の検査では、魔力量こそ平凡だったが、その理解力と発想力は群を抜いていた。まさか、君の研究室で、これほどの成果を立て続けに上げるとはな。君が彼の才能を見抜き、指導したということだろう。さすがはターナー君だ」
「いえいえ、指導などとんでもない。彼は勝手に学んで、勝手に新しいことを思いつくだけですよ。儂はただ、少しばかり実験の手伝いをしているに過ぎません」
ターナー教授はぶっきらぼうに答えたが、その言葉にはレオナールへの信頼が滲んでいた。
副学長は、教授の言葉に微笑み、そして少し真剣な表情になって、本題に入ったようだった。
「実はな、ターナー君。その論文の内容について、前回ここに来た時も少し感じたのだが……論文では、汚染の原因物質の特定までは至らず、『可能性が強く示唆される』という結論に留めておるが……。君たちの手元には、もう少し踏み込んだデータ、あるいは確信に近い何かがあるのではないかね?」
彼の鋭い目が、ターナー教授を見据えた。副学長は、論文の受理という公式な成果を踏まえ、その裏にあるであろう、より深刻な事実について、改めて確認しに来たようだった。
ターナー教授は、一瞬、副学長の真意を探るように黙った。だが、相手が学院のナンバー2であり、公平さには定評のある人物であること、そして何より、以前レオナールと「水面下で情報を流す準備」について話し合い、その相手として副学長の名を挙げていたことを思い出し、意を決した。論文も正式に受理された今こそ、相談する絶好の機会だろう。
「……副学長先生。実は、その通りなのです。以前、レオナール君とも相談していたのですが、この件について、いずれ先生にご相談に上がるべきかと考えておりました」
教授は声を潜め、実験台の上のベルク紙の束を示した。そこには、論文には掲載しなかったデータ——動物実験の結果や、エリアスから提供された鉱滓・廃液の分析結果の概要などが、彼の走り書きで記されていた。
「論文に書けたのは、我々が得た証拠のほんの一部です。倫理的な配慮や、情報提供者を守るために、伏せざるを得なかったデータが、実は存在するのです」
ターナー教授は、副学長を近くの椅子に座るよう促し、慎重に言葉を選びながら、論文の裏にある「真実」を語り始めた。エリアスの証言の概要、汚染源である鉱滓・廃液から検出された圧倒的な濃度の毒性物質、そして、その物質を投与された実験動物が見せた、ローネン州の患者と酷似した症状……。
「……つまり、あの『黒褐色のスポット』は、間違いなく強い毒性を持ち、ローネン州の悲劇を引き起こしている元凶なのです。そして、その発生源は、蒼鉛鉱山であることも、ほぼ疑いありません」
教授の説明を聞き終えた副学長は、言葉を失い、その顔から穏やかな笑みは消えていた。代わりに浮かんでいたのは、驚愕と、そして事態の深刻さに対する深い憂慮だった。
「なんと……! そこまでとは……! ただの水質汚染というレベルではない、これは……大規模な人災ではないか!」
「左様です。そして、鉱山の運営側は、おそらくこの事実を知りながら、あるいは薄々気づきながら、利益のために隠蔽し、対策を怠ってきた可能性が高い」
「許しがたいことだ……。しかし、このデータは、公にすることは難しいのだろう?」
「はい。情報提供者の安全を考えれば、現時点では……。ですが、このまま放置すれば、犠牲者は増え続けるでしょう。何らかの形で、この情報を有効に活用し、対策を促す必要があると考えております」
ターナー教授は、副学長の反応を見ながら、慎重に情報提供の必要性を訴えた。
副学長は、深く腕を組んで考え込んだ。彼の専門は魔術理論であり、化学や毒性学、ましてや政治や経済の専門家ではない。だが、目の前の情報が持つ重大さは、十分に理解できた。
「ふむ……。君たちの持つデータが真実だとすれば、これは極めて深刻な事態だ。学院の研究成果としてだけでなく、王国全体の問題として対処する必要があるかもしれん。だが、儂の専門外でもあるし、軽々には判断できんな。特に、その毒性物質の具体的な性質や、人体への影響の度合いについては、もっと詳しく知りたいところだが……」
ちょうどその時、研究室の扉が静かに開き、レオナールが顔を覗かせた。
「失礼します、先生。講義が終わりましたので……あ、副学長先生。こんにちは」
レオナールは、予期せぬ訪問者に少し驚きながらも、丁寧に挨拶した。
「おお、ヴァルステリア君か。ちょうど良いところに来た」副学長は、レオナールに優しく声をかけた。「君たちの論文、見事に受理されたぞ。素晴らしい成果だ」
「本当ですか! ありがとうございます!」レオナールも顔を輝かせた。
「それでな」副学長は続けた。「今、ターナー君から、論文には書けなかった、さらに重要なデータについて話を聞いていたところなのだ。特に、君が特定したという、あの『黒褐色の毒性粒子』について、もう少し詳しく教えてもらえんかね? 例えば、それは具体的にどのような毒性を示すのか? 体内に蓄積するのか? 解毒する方法はあるのか?」
副学長の質問は、核心を突いていた。レオナールは、ターナー教授と視線を交わし、教授が頷くのを確認すると、落ち着いて説明を始めた。
「はい、副学長先生。あの物質は、ペーパークロマトグラフィーの結果と、動物実験で見られた症状から判断するに、私の……学んだ知識の中にある、ある種の重い粒子、特定の鉱物由来の毒と非常に近い性質を持っていると考えられます」
彼は、具体的な元素名を避けつつ、その毒物の特徴について説明した。
「その種の粒子は、少量でも体内に蓄積しやすく、神経系や皮膚、消化器系など、全身の様々な臓器に毒性を示すことが知られています。特に慢性的に曝露されると、ローネン州で見られたような末梢神経障害や、特徴的な色素沈着、そして最終的には悪性の変化を引き起こす可能性も考えられます。特効薬と呼べる解毒剤は確立されていませんが、早期に曝露を断ち切り、体外への排泄を促す対症療法を行うことで、症状の進行を抑えたり、ある程度の回復を期待することは可能です」
レオナールの説明は、具体的で、医学的な知見に基づいていた。副学長は、その淀みない説明に感心しながらも、事態の深刻さを改めて認識し、顔を曇らせた。
「……なるほど。やはり、極めて危険な代物なのだな。そして、特効薬もない、と……。そうなると、やはり一刻も早く汚染源を断つことが最優先か」
副学長は、しばらく黙考した後、二人に向き直って言った。
「分かった。君たちの話を聞き、この問題の重大さは十分に理解したつもりだ。これは、我々学院だけで抱えておける問題ではない。王国の行政、あるいは司法に働きかける必要があるだろう。だが、儂も政治には疎いし、どの部署の誰に話を通せば最も効果的なのか、すぐには判断がつかん」
彼は立ち上がり、決意を込めて言った。
「まずは、儂の方で、政府内でこの種の話を理解でき、かつ信頼のおける人物に心当たりがないか、探ってみよう。宮廷での繋がりも利用してな。あるいは、魔術師団の同僚にも、意見を聞いてみる価値があるかもしれん 。適切な人物を見繕ってみる。少し時間はかかるかもしれんが、必ず道筋をつける。その上で、改めて君たちに相談に来ることにしよう。それまで、この件は他言無用で頼む」
「……ありがとうございます、副学長先生!」
レオナールとターナー教授は、安堵と期待を込めて、深く頭を下げた。
副学長は、二人に頷き返すと、重い足取りで研究室を後にした。
残された研究室には、静かな、しかし確かな変化の予感が満ちていた。科学的な真実の発見が、ついに現実世界を動かすための、次なる段階へと進み始めたのだ。
「……さて、どうなることやら」ターナー教授は、ため息混じりに呟いたが、その目には新たな展開への期待も浮かんでいた。




