第三十八話:分かれ道の予感
ローネン州から王都に戻って数週間。レオナールの生活は、以前にも増して多忙を極めていた。遠征による長期欠席の遅れを取り戻す必要もあり、ターナー教授との研究や論文作業、そして譲り受けた顕微鏡での観察準備と並行して、学院の講義にも真面目に出席する日々が続いていた。
その日も、彼は多くの学生と共に、大講義室で開講されている「王国法概論」の授業を受けていた。担当教授は、厳格なことで知られる法学の権威で、この日は貴族の権利と義務、特に領地所有権とそれに伴う領民保護の責任について、複雑な判例を交えながら解説していた。
(領主の責任……か。ローネン州の件を考えれば、これは単なる法理論ではない、現実の問題だ。父上は常に領民のことを考えておられたが、法的にどこまでが領主の義務で、どこからが個人の裁量なのか……)
以前この講義を受けた時よりも、内容がずっと切実に感じられた。ローネン州での経験は、彼に貴族としての立場と責任を、改めて強く意識させていた。机上の空論ではない、現実の問題として、法律や統治のあり方を考えさせられる。
ふと周囲を見渡すと、他の学生たちの雰囲気も、1年生の頃とは少し変わっていることに気づく。2年生も中盤に差し掛かり、3年次からの専門課程選択——進路振り分け——の時期が近づいているのだ。以前のような、どこか浮ついた空気は薄れ、皆、真剣な表情で講義に耳を傾け、熱心にメモを取っている者が多い。特に、レオナールの近くの席に座るトーマスは、商家の出身でありながら、貴族社会の法体系を深く理解しようと、必死に教授の言葉を追っていた。
(そうか……もう、そういう時期なのだな)
レオナールは、内心で呟いた。
講義が終わり、学生たちがそれぞれの話題でざわめきながら教室を出ていく。レオナールもノートを閉じていると、トーマスが隣から話しかけてきた。
「レオナール様、今日の講義、特に領主の裁量権と中央政府の干渉に関する部分は、なかなか複雑でしたね。ヴァルステリア領のような辺境伯領では、中央の法律との兼ね合いも難しいのではないですか?」
トーマスは、将来の取引などを見据えてか、領地経営に関する法的な側面にも強い関心を持っているようだった。
「ああ、そうだね。父も常に頭を悩ませている点だ。法律は基本だが、現実には慣習や力関係も大きく影響するからな……。トーマス、君はやはり政務科か領地経営科を考えているのか?」
レオナールは、友人との何気ない会話の中で、自然と進路の話題に触れた。
「ええ、父の商会を継ぐにしても、王国の法律や経済、貴族社会との関わりを深く理解しておく必要があると考えています。おそらく政務科に進んで、まずは中央の仕組みを学ぶつもりです。レオナール様は、やはり領地経営科へ?」
トーマスの問いに、レオナールは明確には答えず、少し考え込むような表情を見せた。
「……まだ、決めかねているんだ」
トーマスは意外そうな顔をしたが、それ以上は詮索せず、「そうですか。まあ、じっくり考える時間はまだありますからね」とだけ言って、他の友人たちの輪に加わっていった。
一人になったレオナールは、窓の外に広がる学院の景色を見ながら、改めて自身の進路について思考を巡らせ始めた。
(進路選択……。父上の期待、ヴァルステリア家の跡継ぎとしての立場を考えれば、領地経営科に進むのが最も順当な道だろう。領地経営の知識は、将来必ず役に立つはずだ)
しかし、彼の心の中には、それとは全く別の、より強い衝動があった。
(だが、俺の本当の目標は……医師として、研究者として、この世界の医療を変えることだ。そのためには、化学、物理学、生物学、医学……そして魔法。学ぶべきことは多岐にわたり、研究に費やす時間はいくらあっても足りない)
彼は、各専門課程のカリキュラムを思い浮かべた。騎士科は論外。政務科も、法律や政治理論が中心で、彼の目標とは直接結びつかない。領地経営科は、農業、経済、法律、そして多少の土木や建築など、幅広い知識を学ぶことになるだろうが、それは彼の求める専門性とは異なる。
(学院の規則によれば、政務科や領地経営科は、魔法科や騎士科ほどは授業や訓練に縛られず、比較的自由な時間が多いと聞く。ターナー先生の研究室に通い続けることは可能かもしれない。だが、それで十分なのか? 本来なら、もっと医学や、あるいは生物学、物質科学といった分野を専門的に学べる環境があれば……)
彼は学院の卒業システムについても考える。
(卒業試験は必須だが……そういえば、ターナー先生は確か、その並外れた才能故に、本来6年かかる課程を大幅に短縮し、異例の若さで卒業試験をパスして、そのまま学院の研究者になったと聞いたことがある。飛び級、というやつか。もし、俺にもそれが可能なら、早く研究に専念できるのだが……。それには各教科の教授全員からの承認という、極めて高いハードルがあるはずだ。今の俺に、それが可能なのか? 遠征で長期欠席したばかりで、各教授への覚えも良くはないかもしれない……)
(あるいは、卒業試験に合格できなくても、修士課程に進めば学位を得られるという話もあったな。だが、それは卒業試験に落ちた場合の救済措置のようなもの。俺がそれを前提に行動するのは違うだろうし、ターナー先生がそれを許すとも思えない)
貴族としての責務。研究者・医師としての夢。
(両立させる道を探るのか、それとも、どちらかを選ぶ覚悟を決めるのか……)
答えは、まだ見えない。だが、選択の時は刻一刻と近づいている。彼は、重い溜息を一つ吐くと、思考を振り払うように立ち上がった。今は、目の前の講義と研究に集中するしかない。足は、無意識のうちに、ターナー教授の待つ研究室へと向かっていた。




