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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第三十七話:微小への誘い

ターナー教授の研究室を後にしたレオナールは、足早に寄宿舎の自室へと戻った。頭の中では、ローネン州論文のリバイス、副学長への接触戦略、そしてアシュトン博士への手紙の内容などが渦巻いていたが、今、彼の心を最も捉えていたのは、部屋の机の上に鎮座する、あの古びた木箱だった。


セドリック・アシュトン博士から譲り受けた、「最初の拡大観察箱」。これから始まる「微小なる存在」の探求における、最初の武器となるかもしれない道具だ。やるべきことは山積みだが、まずはこの道具の性能と限界を知らなければ、計画の立てようもない。


レオナールは深呼吸を一つすると、木箱の留め具を慎重に外し、蓋を開けた。中には、緩衝材代わりの乾いた苔に包まれて、一台の顕微鏡が収められていた。予想通り、それはアシュトン博士の「アビス・ウィンドウ」のような複雑なものではなく、よりシンプルで古風なデザインだった。


真鍮製の鏡筒は、経年変化で鈍い光を放ち、それを支える支柱と土台は黒く塗装された(あるいは元々黒い材質の)木製。接眼レンズは一つだけの単眼式で、対物レンズも一つだけが鏡筒の下端に取り付けられている。プレパラートを載せるステージの下には、光を集めるための反射鏡が付いているだけだ。光源は内蔵されておらず、窓からの自然光やランプの光を反射鏡で取り込む仕組みらしい。ステージを上下させてピントを合わせるための粗動・微動のノブが、支柱の側面についている。全体的に、前世で博物館で見たような、初期の顕微鏡を彷彿とさせる佇まいだ。


(これが、アシュトン先生を微小世界の探求へと誘った最初の道具か……。倍率は100倍程度、と言っていたな。細菌を見るには到底足りないが、まずはここからだ)


レオナールは、顕微鏡を箱から丁寧に取り出し、机の上に置いた。そして、まずはその構造を詳細に知るため、分解してみることにした。幸い、構造は比較的単純に見える。彼はギルバートに頼んで手に入れていた精密作業用の小さなドライバーセット(これもこの世界では珍しいものだろう)を取り出すと、細心の注意を払いながら分解に取り掛かった。


まずは接眼レンズ。鏡筒の上部からねじ込み式の部品を外し、中から小さなレンズを取り出す。予想通り、単一の凸レンズだ。ガラス製だろうか、表面には微かな傷が見られるが、透明度は悪くない。次に鏡筒下部の対物レンズ。こちらも同様に単一の凸レンズだが、接眼レンズより小さく、より強い曲率を持っている。


(なるほど、対物レンズで拡大した像を、接眼レンズでさらに拡大する…基本的な仕組みは同じだ。だが、レンズがそれぞれ一つずつというのは、収差(像の歪みや色ずれ)が大きいはずだ。倍率を上げる上でも、レンズの組み合わせは重要になるだろう)


彼は、取り外したレンズを清潔な布の上に置き、光にかざしてその形状や研磨精度を観察した。次に、焦点調節機構を分解する。支柱に刻まれたギア(歯車)と、ノブに連動したラック(歯付きの棒)がかみ合い、鏡筒全体を上下させる、典型的なラック・アンド・ピニオン式だ。動きは少し渋いが、注油すれば改善しそうだ。微動ノブは、テコの原理を利用してさらに細かな動きを実現している。


(基本的な機構は、前世のものと大きくは違わない。問題は、各部品の精度と、特にレンズの性能だろうな)


一通り分解し、各部品の構造と仕組みを把握したレオナールは、再び慎重に顕微鏡を組み立て直した。そして、窓からの光を反射鏡で取り込み、接眼レンズを覗きながら、手元にあったベルク紙の切れ端をステージに置いてみた。


粗動ノブを回して大まかにピントを合わせ、微動ノブで微調整する。視界がクリアになり、ベルク紙の表面が拡大されて見えた。絡み合った植物繊維の凹凸が、まるで荒れた大地のように見える。100倍というのは、思ったよりもずっと微細な世界を映し出す。


(面白い……! これでも、十分に多くの発見がありそうだ。水中の微生物なら、アシュトン先生のスケッチにあったようなゾウリムシやアメーバの類なら、観察できるかもしれない)


彼はしばし、身の回りの様々なもの——自分の髪の毛、インクの染み、小さな虫の死骸——をステージに載せては、その拡大された姿に見入った。知的好奇心が満たされる喜びと同時に、この道具が持つ可能性に胸が高鳴る。


しかし、満足感と共に、より大きな目標への渇望も湧き上がってきた。

(だが、これではまだ足りない。俺が見たいのは、この繊維の隙間に潜むかもしれない、もっと小さな存在だ。病の原因となる細菌や、あるいは細胞そのものの内部構造。そのためには、最低でも400倍、できれば1000倍以上の倍率と、それに見合う解像度が必要だ)


アシュトン博士の「アビス・ウィンドウ」は800倍を実現していた。彼はどうやってそれを可能にしたのだろうか?


(考えられるのは、まずレンズそのものの性能向上だ。より屈折率の高い素材を使う、あるいはレンズの形状を球面ではなく、収差を減らすための非球面にする。研磨技術も極めて重要になるだろう。あるいは、複数のレンズを精密に組み合わせることで、倍率と解像度を同時に向上させる、複合顕微鏡の設計か)


レオナールは、前世の光学知識を総動員して思考を巡らせる。


(さらに、魔法の応用だ。アシュトン先生の顕微鏡には、光源に魔石を使い、何らかの『魔力増幅回路』を組み込んでいると言っていた。あれは、単に光量を増すだけでなく、光の波長や位相を制御して、解像度を高めるような仕組みなのかもしれない。あるいは、レンズそのものに魔法的な効果を付与している可能性も? 例えば、通過する光の屈折を、魔力でさらに精密に制御するとか…)


(もっと飛躍するなら、物質ではなく、空間そのものに作用する魔法で、対象を『拡大』して見せるようなことはできないだろうか? 空間魔法の応用…いや、それはあまりにも高度すぎるか。現実的な線で言えば、やはり光学系の改良と、魔法による補助技術の組み合わせだろう)


彼は、ベルク紙を取り出し、様々なアイデアを書き留め始めた。新しいレンズ設計のスケッチ、複合レンズの組み合わせパターン、魔法回路の仮説図……。それは、前世の科学知識と、この世界の魔法という未知の要素を融合させようとする、彼ならではの試みだった。


(まずは、この譲り受けた顕微鏡を使いこなし、観察技術を磨くこと。そして、並行して、より高性能な顕微鏡を開発するための基礎研究を進める。レンズ素材の研究、研磨技術の習得、そして魔法応用の可能性の探求……。道は遠いが、不可能ではないはずだ)


机の上に置かれた古風な顕微鏡。それは、レオナールにとって、単なる観察道具ではなかった。それは、見えざる世界への扉を開き、彼の壮大な目標へと繋がる、重要な道標となる可能性を秘めていた。彼は、その小さなレンズの向こうに広がる無限の可能性を見据え、静かに、しかし力強く、次なる一歩を踏み出す決意を固めるのだった。

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