第三十六話:多忙なる探求
貴族学院から王立学院の寄宿舎へ戻り、アシュトン博士から譲り受けた古びた木箱——百倍程度の倍率を持つという旧式の顕微鏡——を自室の机に慎重に置いたレオナールは、一息つく間もなくターナー教授の研究室へと向かった。予期せぬ大きな収穫と、あの強烈な個性を持つ研究者との出会いを、早く師に報告したかった。
「失礼します、先生」
扉をノックし、返事を待って中へ入ると、ターナー教授は実験台の上で何やら複雑なガラス管の組み合わせとにらめっこをしていた。床には昨日より明らかにベルク紙の束が増えている。どうやらローネン州の論文提出後も、休むことなく次の研究テーマに取り組んでいるらしい。
「おお、レオナール君か。どうだったね? 貴族学院の変人は、まともに相手をしてくれたかね?」
教授はガラス管から目を離さずに尋ねた。その声には、からかいと、少しばかりの心配が混じっているように聞こえた。
「はい、先生。アシュトン先生にお会いしてきました。そして……成果について報告します」
レオナールは、先ほど持ち帰った顕微鏡の木箱を示すわけにはいかないので、言葉で説明を始めた。
「先生のおっしゃる通り、大変……個性的でいらっしゃいましたが、微小な世界を探求する情熱と、観察眼、そして道具を作る技術は、間違いなく本物でした」
彼は、アシュトン博士の研究室の様子(混沌としていたこと)、博士が「アビス・ウィンドウ」と呼ぶ自作の高性能顕微鏡(最大800倍という驚異的な性能)、そして博士が粘菌や酵母(!)を熱心に観察・培養していたことなどを、客観的に、しかし興奮を隠しきれない口調で報告した。
「ほう……800倍だと? 自作でそこまで…やはり、あの男の腕は確かだったか。そして、酵母を培養? 酒造りのためとは、実に奴らしいが……」
ターナー教授は、意外そうな、しかしどこか納得したような顔で頷いた。アシュトン博士の変人ぶりには呆れつつも、その技術レベルの高さは認めている様子だ。
レオナールは続けて、自然発生説に関するアシュトン博士の鋭い観察と仮説、そして自分が提案した「白鳥の首フラスコ実験」について説明した。博士がそのアイデアに飛びつき、実験への協力を熱烈に求めてきたこと、そしてその見返り(?)として、旧式の顕微鏡を譲り受けた経緯も付け加えた。
「ふん、白鳥の首、か。なるほど、巧妙な実験だ。君も、なかなか面白いことを考える。だが、あいつに目をつけられると、少々面倒なことになるぞ? 研究への没頭ぶりは尋常ではないからな」
教授は、アシュトン博士の性格をよく知る者として、苦笑いを浮かべた。
「ええ、それはもう痛感いたしました……」レオナールも苦笑しつつ、報告を終えた。ちょうどその時、ターナー教授が思い出したように言った。
「そうそう、レオナール君。君が貴族学院へ行っている間に、例のローネン州の論文について、紀要編集委員会から返事が来たぞ」
教授は机の上に置かれたベルク紙の束を示した。表紙には「査読結果報告および修正依頼」と記されている。
「リバイス、ですか?」
「うむ。概ね好意的な評価で、掲載はほぼ間違いないだろうとのことだ。だが、やはりと言うべきか、査読者からいくつか質問と、データの提示方法について修正要求がきている。特に、汚染源の特定に繋がる部分については、表現をより慎重にするよう、かなり念を押されたな。まあ、想定内の範囲だ。だが、これに対応するには、それなりに時間と労力がかかるだろう」
「承知いたしました。すぐに修正作業に取り掛かります」
レオナールは気を引き締めた。ローネン州の問題を世に問うための重要な一歩だ。
「さて、そうなるとだ」教授は言葉を続け、以前実験中に話した内容に触れる。「論文のリバイスとは別に、例の件も進めねばならんな。論文には載せられん、あの毒性データや鉱滓・廃液のデータだ。以前話した通り、水面下で情報を流す準備は儂の方で進めてはいるが、問題は誰に、どう働きかけるかだ」
レオナールは、教授の言葉に頷いた。「はい。論文だけでは、すぐに行動を促すには弱いかもしれません。より直接的な証拠を示す必要がありますね」
「うむ。それで、接触する相手だが……」ターナー教授は腕を組み、慎重に言葉を選んだ。「まずは学院内で動くのが筋だろう。そうなると、やはり候補は限られてくる。下手に動けば我々も危うい。いろいろ考えたのだが……」
教授は少し間を置いて、結論を告げた。
「ここは、儂から副学長先生に、それとなく話をしてみようと思う」
「副学長先生に……先生が直接、ですか?」レオナールは少し驚いた。
「ああ。あの方は、この学院の重鎮であり、公平さには定評がある。それに、君のことも評価しておられた。儂が直接、まずは論文の内容を報告するという形で接触し、感触を探ってみるのが最も穏便だろう。いきなり君のような若輩者が非公式なデータを持っていくより、儂が間に入った方が話は通りやすいはずだ。もちろん、君には状況を逐一報告し、意見を聞く。最終的な判断は、我々二人で行う」
教授の提案は、レオナールが考えていた以上に踏み込んだものだったが、同時に最も現実的で安全な方法に思えた。教授自身が矢面に立つ覚悟を示してくれたことに、レオナールは内心で感謝した。
「先生……ありがとうございます。それが最善かもしれません。よろしくお願いいたします」レオナールは頭を下げた。
「うむ。ただし、これは論文が正式に受理された後の話だ。まずはリバイスを完璧に仕上げることが最優先だぞ」教授は釘を刺した。「そして、そうなると、君はこれからますます忙しくなる。論文のリバイス、例の『微小なる存在』とやらを探るための準備(まずはその顕微鏡に慣れることからだろう)、そして儂とのこの件に関する打ち合わせ……」
「はい。ですので、やはりアシュトン先生には、しばらく実験協力は難しい旨、お伝えする必要がありそうです」レオナールは、山積する課題を改めて認識し、言った。
「うむ。探求とは、常に多忙なものだ」教授はこともなげに言った。「アシュトンには、悪いがしばらく待ってもらうしかないだろうな。『重要な研究で手が離せない。目途が立ち次第連絡する』とでも、丁寧な手紙を書いておけ。あの男のことだ、どうせ自分の興味が満たされれば、他のことはすぐに忘れるだろう」
「はい、そうさせていただきます」
レオナールは、アシュトン博士へ送る手紙の内容を考えながら、研究室の片隅に置かれたベルク紙の束に目をやった。リバイス作業、微生物のスケッチ、培養実験の記録、刻印回路のアイデアメモ……。これから、この白い紙が、彼の多忙な探求の記録で急速に埋め尽くされていくのだろう。
彼の心は、やるべきことの多さに圧倒されそうになりながらも、それ以上に、未知への挑戦と、目標へ一歩ずつ近づいているという確かな手応えによって、静かに満たされていた。彼は教授から論文の査読結果報告書を受け取り、リバイス作業に取り掛かるべく、思考を集中させ始めた。




