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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第三十五話:白鳥の首

レオナールは、内心の衝撃と若干の不快感を押し殺しながら尋ねた。


「先生は、その『豊穣の酵母』を『同定』された、と。それはつまり、他のカビや、あるいは…その、ぬめぬめした変形体のようなものとは違う、特定の種類の存在だと見分け、それを純粋に取り出して培養されている、ということでしょうか?」


「その通り!」博士は、汚れた白衣の胸を誇らしげに叩いた。「最初はね、腐りかけの果物の皮か、あるいは空気中の埃にでも混じっていたのか、偶然この愛すべき酵母が儂の培養皿で増え始めたのだよ。それを丹念に観察し、そこらの汚いカビ共とは違う、特有の分裂様式(これがまた…実に生命の神秘を感じさせるのだ…)を持つ『個』として独立した存在であることを突き止め、純粋に分離することに成功したのだ! まあ、それはもう、気の遠くなるような地道な作業だったがね。だが、その苦労のお陰で、今では安定して極上の酒と、ふかふかのパンが楽しめるというわけだ! 研究者冥利に尽きるわい!」

彼は、棚の培養皿を、まるで秘蔵のコレクションを眺めるかのように、満足げに、そして少し気味の悪い笑顔で見やった。


(やはり、この人はすごい…!観察眼だけでなく、微生物の分離・培養という、私がこれからやろうとしていたことを既にある程度実践しているとは…! 動機はさておき、技術は間違いなく本物だ…!)

レオナールは感嘆しつつ、さらに核心に迫る質問を投げかけた。


「先生が同定されたこの『豊穣の酵母』…先生は、これが一体どこから現れたとお考えですか? 例えば、煮沸して完全に浄化したはずの果汁の中に、それでも何もないところから自然にポッと湧いてくる、ということはあるのでしょうか?」


その問いに、アシュトン博士は少し考え込むように、眼鏡の位置を直し、無精髭をしごいた。


「ふむ…自然発生、かねぇ? 世間の学者気取りの連中は、腐敗や発酵は、あたかも無から有が生じるかのように信じているようだし、実際、そう見えることも多いわな。だがねぇ…どうも儂の観察結果とは、辻褄が合わんのだよ」

彼は、研究室の隅に散らばるスケッチブックの一つを拾い上げ、パラパラとめくった。


「例えば、この酵母も、あるいは水中にうごめく無数の微生物どもも、儂がこの『アビス・ウィンドウ』で覗いている限りでは、必ず『親』となる存在から『子』が生まれるようにして数を増やしていく。分裂したり、芽を出したり、やり方は様々だがな。何もない空間から、ポンと新しい命が誕生するような、そんな奇跡の瞬間は、儂は一度たりとも見たことがないのだよ」

彼は、あるページのスケッチを指差した。そこには、まさに分裂しようとしている酵母らしきものが、精密に描かれていた。


「だから、儂はこう考えているのだ。我々の周りの空気中や、あるいは物体の表面に、目には見えないこれらの生物の『種子』のようなものが無数に漂っていて、それが適切な環境…例えば栄養豊富な果汁などに入り込むことで、増殖を開始するのではないか、とね。まあ、あくまで儂の推測で、これを証明するのは骨が折れそうだがな」

アシュトン博士は、自身の観察に基づいた、この世界としてはかなり先進的な仮説を、こともなげに口にした。


レオナールは、内心で(やはり!この人は本質を見抜いている!動機はともあれ!)と興奮を抑えきれなかった。そして、畳みかけるように言った。


「先生!もし、先生のおっしゃるように、空気中に『種子』が存在し、それが腐敗や発酵、あるいは病気の原因だとしたら…それを証明する、非常に巧妙な実験方法が考えられるかもしれません!」

彼は、近くにあった羊皮紙の切れ端に、素早くスケッチを描き始めた。それは、首が長く白鳥のようにS字に曲がった、奇妙な形のフラスコだった。


「ん? なんだこれは? 白鳥の首飾りか? 新しい芸術様式かね?」アシュトン博士が訝しげに覗き込む。


「例えば、このように首を長く、そして複雑に曲げたフラスコを用意します。この中で、肉汁や果汁などを煮沸し、内部を完全に浄化します。このフラスコの口は開いていますから、外の空気は自由に出入りできます。しかし、空気中に漂っている埃や、先生がおっしゃる『種子』のような重さを持つ粒子は、重力や壁への付着によって、この長く曲がりくねった首の部分で捕らえられ、中の液体まで到達することはできないはずです」

レオナールは、ペンで空気と粒子の流れを示しながら、熱心に説明した。


「もし、自然発生説が誤りで、空気中の『種子』が腐敗などの原因であるならば、このフラスコの中の液体は、空気には触れているにも関わらず、いつまでも腐らないはずです。一方で、もしこのフラスコの首を途中で折って、『種子』が直接液体に降りかかるようにすれば、途端に腐敗が始まるでしょう。これならば、自然発生説が正しいかどうかを、明確に、そして見事に証明できるのではないでしょうか?」


アシュトン博士は、レオナールのスケッチと説明に、最初は目を丸くし、やがてその口元がわなわなと震え始めた。分厚い眼鏡が、興奮でカタカタと音を立てている。そして、次の瞬間、彼は椅子から転げ落ちんばかりの勢いで、大きな声で叫んだ。


「……な、なんと! なんという巧妙な仕掛けだ! 白鳥の首だとぉ!? 空気は通すが『種子』は通さぬ…! なんと単純にして、なんと深遠な! これぞまさに、完璧なる対照実験ではないか! き、君は…! 君は一体何者なのだね!? ただの早熟な小僧ではなかったのか!天啓か!? 君は天啓を受けたのか!」

博士は興奮のあまり、レオナールの両肩を掴み、分厚い眼鏡の奥の瞳を少年のようにキラキラと輝かせた。


「気に入った! 実に気に入ったぞ、レオナール君! 君のような若者が、この深遠なる微小世界に真の興味を持ち、しかも、こんなにも独創的で巧妙な実験を思いつくとは! ああ、我が孤独な探求にも、ついに真の理解者、いや、好敵手ライバルが現れたか! 血が騒ぐ! 研究者の血が騒ぐぞぉ!」

興奮冷めやらぬ様子で、博士は研究室の隅に駆け寄り、そこにあった少し古びた木製の箱を、まるで恋人のように優しく、しかし素早く抱えて戻ってきた。


「これはね、儂が若かりし頃、異国の地で見つけ出し、苦労して持ち帰った記念すべき最初の『拡大観察箱』だ。こいつが、儂をこの深淵なる世界へと導いてくれたのだ! 倍率はまあ100倍程度だが、基本的な観察には十分使えるだろう。手入れもしてある。これを、君に進呈しよう! 我が好敵手への餞別だ!」

博士は、有無を言わさぬ勢いで、その木箱をレオナールに押し付けた。


「これで君も、我々『深淵を覗く者(アビス・ウォッチャー)』の仲間入りだ! さあ、この道具を使って、何か面白いもの、奇妙なもの、未知なるものを見つけたまえ! 君が見つけたいという『病の原因となる微小なる存在』とやらも、ぜひこの儂の目で見たいものだ! そして、あの白鳥の首フラスコ実験! あれは、ぜひとも、この儂自身の手でやってみなければ気が済まない! 必ず成功させてみせる! 君、手伝ってくれるだろうね!? な!? 約束だぞ!?」

子供のように目を輝かせ、捲し立てるアシュトン博士から、やや古びた木製の箱——彼が「最初に使っていた拡大観察箱」だという顕微鏡が収められているのだろう——を、レオナールはありがたく両手で受け取った。予想外の大きな収穫に、彼の胸は高鳴っていた。(同時に、この人の異常なテンションに付き合うことへの若干の疲労も感じ始めていた)


「先生、このような貴重なものを…本当にありがとうございます! 大切に使わせていただきます!」

レオナールは深々と頭を下げた。これで、微生物観察という、彼の計画における最初の、そして最大のハードルの一つを越えるための強力な武器を手に入れることができたのだ。


そして、博士からの熱烈すぎる実験協力の申し出に対して、レオナールは少し考えた後、丁寧に、しかし慎重に言葉を選んで答えた。このままでは、自分の研究時間が全て奪われかねない。


「先生からのお誘い、大変光栄に思います。ぜひ、その歴史を変えるかもしれない実験の経過と結果を拝見したいですし、可能であれば協力させていただきたいという気持ちは山々なのですが…」

彼は、興奮で鼻息を荒くしている博士をなだめるように、穏やかな口調で続けた。

「あいにく、私はまだ王立学院の学生の身でして、日中は講義もございます。その上、今回の訪問のきっかけとなりましたターナー先生の研究室でも、現在重要な研究のお手伝いをさせていただいておりまして…正直なところ、すぐに多くの時間をこちらの貴族学院での実験に割くというのは、少々難しい状況でございます」

博士の表情が一瞬、おもちゃを取り上げられた子供のように曇るのを見て、レオナールは慌てて付け加えた。


「もちろん、先生のこの画期的な実験には、個人的に強い関心を持っております! ですので、まずはターナー先生にもご相談し、学院の予定なども確認・調整した上で、どの程度お力になれるか、改めてお返事させていただいてもよろしいでしょうか? 先生のその素晴らしい実験が成功するのを、私もぜひ見届けたいと心から願っておりますので!」

協力の意思はあること、しかし即答はできず調整が必要であることを、相手への敬意を払いながら伝える。それが、この偏屈で扱いにくいが、純粋な探求心を持つ研究者に対して、最も穏便な方法だろうと判断したのだ。ターナー教授の名前を出したことで、博士も無碍にはできないだろうという計算もあった。


案の定、アシュトン博士は、レオナールの理路整然とした(そして、彼にとっては面白みのない)返答に、少し不満そうな顔をしつつも、大きくため息をついて矛を収めた。


「…ふん。まあ、仕方あるまい。学生というのは、つまらん用事で忙しいものだからな。それに、ターナーの石頭の許可も必要だろうしな…あの男が、素直に許可を出すとも思えんが。つまらんな」

彼はぶつぶつと独り言のように呟いた後、レオナールに向き直った。


「よろしい。返事を待とう。だが、忘れるなよ! あの実験は、きっと世界の常識を根底から覆すことになるのだからな! 後世の吟遊詩人が歌にするような偉業になるぞ! そして、何か面白い『微小なる存在』…できれば、見たこともないような奇妙なやつを発見したら、真っ先に儂に報告に来るのだぞ! いいな! 約束だぞ!」

博士は、念を押すように人差し指を突きつけた。その目は、まだ興奮の余韻で異様に輝いている。


「はい、必ず。本日は、本当にありがとうございました」

レオナールは再び深く頭を下げると、譲り受けた顕微鏡の箱を大事に抱え、アシュトン博士の混沌とした研究室を後にした。


扉が閉まる寸前、「あ、おい待て! この儂が丹精込めて育てた酵母で作ったパンも試してみるかね!? 絶品だぞ! これを食えば君も虜になること間違いなしだ! ほら、一切れ!」という博士の声が追いかけてきたが、レオナールは聞こえないふりをして、足早に廊下を進んだ。


研究室棟を出て、待たせていたギルバートと合流する。従者は、主人が古い木製の箱を大事そうに抱えているのを見て、少し驚いた顔をしたが、何も尋ねずに黙って付き従った。彼は、主人が時折、王都の奇人変人と関わりを持つことに、慣れつつあったのかもしれない。


貴族学院からの帰り道、馬車に揺られながら、レオナールは今日の大きな収穫を反芻していた。アシュトン博士という、予想以上に有能で(そして予想以上に面倒くさそうで残念な)協力者候補との出会い。そして、何よりも、この手の中にある顕微鏡。

(これで、『見る』ことができる…!)

抗菌薬開発への道は、まだ遠く険しい。だが、確実に、その第一歩を踏み出すための準備は整った。彼は、持ち帰った木箱をそっと撫でながら、思考を巡らせ始めた。アシュトン博士の強烈な個性とエネルギーに若干の疲労を感じつつも、彼の心は次なるステップへの期待で満たされていた。

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