第三十四話:深淵を覗く窓
アシュトン博士は、興奮冷めやらぬ様子でレオナールを手招きし、研究室の奥、窓際に設置された一際大きな、そして奇妙な意匠の装置の前へと導いた。真鍮と思われる金属の支柱と、黒檀のような光沢を持つ木製の部品、そして大小様々な大きさのガラスレンズが複雑に組み合わされている。光源らしき部分には、淡く光る魔石がはめ込まれていた。これが博士の言う『深淵を覗く窓』Mk-IIIなのだろう。どこか歪なようでいて、しかし精緻な部品が組み合わされた、独特の存在感を放つ装置だ。
「さあ、まずはこれを覗いてみたまえ! 百の言葉よりも、一瞬の驚愕だ! この装置の素晴らしさが、骨の髄まで染み渡るが良い!」
博士は手際よく、近くにあった緑色に濁った水槽からスポイトで一滴の水を吸い上げ、薄いガラス板の上に垂らすと、それを装置の台座にセットした。そして、いくつかのダイヤルを、まるで秘術の儀式を行うかのように慎重に回して光源とレンズの位置を調整する。その手つきは、普段の彼の様子からは想像もできないほど、正確無比だった。
「よし。ここから覗くんだ。最初はぼやけて見えるだろうから、この横の、実に滑らかに動く微調整ノブをゆっくり回して、焦点を合わせるんだよ。焦りは禁物だぞ? 真の美は、じっくりと味わうものだからな…フフフ…」
博士は、なぜか含み笑いをしながらレオナールに接眼レンズを指さした。
レオナールは、促されるままに、装置の上部にある接眼レンズに目を近づけた。最初は、ただ明るい円が見えるだけだったが、博士に教えられた通りにノブを慎重に回していくと、徐々に視界の中の像が輪郭を結び始めた。そして——
「……これは……!」
思わず、息をのむ。
視野の中に広がっていたのは、緑色の小さな球体が無数に集まってできた、さらに大きな、美しい球状の群体だった。群体は、まるで意思を持っているかのように、ゆっくりと、しかし確実に回転しながら、視野の中を優雅に漂っている。個々の緑色の小さな粒、それらが繋ぎ合わさって形成する精緻な幾何学模様、そして群体全体の完璧な球形。それは、まさに生命が作り出したミクロの芸術品、あるいは神がデザインした精密な魔道具のようだった。
(これは…! なんて精緻で、美しい…! 個々の細胞らしき粒、群体全体の構造まで、ここまで鮮明に見えるとは…! まるで星雲を見ているようだ…!)
その生命の神秘的な美しさに、レオナールはしばし言葉を失い、魅入られていた。
「どうだね? 素晴らしいだろう! この完璧なまでの規則性、個々の連携! まるで、小さな生き物が集まって、より大きな一つの存在、共同体を作ろうとしている…その崇高な意志の表れのようだとは思わんかね!? 生命の成り立ちの秘密、その一端を垣間見ているような、神聖な気持ちにならんかね!? なるだろう!? なれ!」
博士が、興奮した口調で、レオナールの肩をバンバン叩きながら隣から話しかけてくる。彼は観察を通して、生物が単純な個から複雑な組織体へと進化するプロセスに、深い感動と神秘を感じているようだったが、それを論理的に説明する言葉はまだ持ち合わせていないようだった。ただ、その美しさに純粋に心を奪われている、少年のようでもあった。
レオナールは、名残惜しく思いながらも接眼レンズから顔を上げた。そして、ふと近くの作業台に目をやると、そこに数冊のスケッチブックが無造作に積み重ねられているのが見えた。表紙にはインクで「アシュトン博士の極秘☆微小生物図鑑」と、踊るような文字で記されている。
「先生、こちらのスケッチブックを拝見してもよろしいでしょうか?」
「ん? ああ、構わんよ。ただし、あまりの素晴らしさに、失神しても儂は責任をとらんぞ? まあ、私のこの神眼とも言うべき観察力と、芸術的な描写力にひれ伏すがいい」
博士は、ふんぞり返りながら、あっさりと許可した。
レオナールは、一番上のスケッチブックを手に取り、ページをめくった。そこに描かれていたのは、彼の知識の中にある様々な微生物の姿だった。アメーバのように不定形に蠢くもの、ゾウリムシのように体表の繊毛を波打たせて泳ぐもの、ミドリムシのように鞭毛で移動する緑色のもの、イカダモのような規則正しい細胞の集合体…。それらが、まるで生きているかのように、驚くほど精密なタッチで、しかしどこか執着に近い愛情を込めて描かれている。ページの隅には、観察日時や場所、そして「ぬめぬめ君」「草履虫一号」「鞭毛緑虫」「いかだ藻改」といった、博士独自の分類名らしきものが几帳面に書き込まれていた。
(すごい……! この観察眼と描写力は、本物だ。ターナー先生が言っていたことは間違いない。単なる変わり者ではない…! この分野においては、間違いなく第一人者だ…色々と残念な部分を除けば)
レオナールは、そのスケッチのレベルの高さに、改めてアシュトン博士の卓越した能力を認識した。同時に、その独特なネーミングセンスには、やはり困惑を隠せなかった。
「素晴らしいスケッチですね、先生。まるで生きているようです。…ところで、この観察箱…顕微鏡は、どれくらいの倍率で見ることができるのでしょうか?」
スケッチブックを置きながら、レオナールは最も気になっていた点を尋ねた。
その質問に、アシュトン博士は待ってましたとばかりに眼鏡をカチャリと直し、得意満面の笑みを浮かべた。
「フフン。よくぞ聞いてくれた! その質問を待っていたぞ、小僧! この『深淵を覗く窓』Mk-IIIはね、儂が長年、なけなしの研究費と、ある物好きなパトロンからの寄付金(感謝!)をつぎ込み、血と汗と涙の結晶として改良に改良を重ねてきた至高の魔道具なのだよ! 元々は、異国の骨董市で胡散臭い商人から値切って買った観察箱でね、せいぜい100倍が限界の代物だったのだがね。この儂が、自らレンズを磨き上げ、光軸を寸分の狂いなく調整し、さらに光源に秘伝の魔力増幅回路(これの仕組みは墓場まで持っていく!)を組み込むことで、今ではなんと安定して400倍! さらに条件さえ整えば、実に800倍近くまで鮮明に見ることができるのだ! これほどの分解能を持つ顕微鏡は、王国内…いや、世界中を探してもそうはないだろう! まさに歴史的遺物! いや、儂自身が歩く歴史的遺物!」
博士は、自分の作品を語る熟練の職人のように、あるいは吟遊詩人が英雄譚を語るように、早口で得意満面にその性能を語った。ところどころ、自画自賛が過ぎるような気もしたが、その自信と情熱は本物だった。
(800倍…!? それだけの倍率があれば、細菌レベルの観察も十分に可能だ!)
レオナールの期待は確信に変わった。この顕微鏡は、彼の計画にとってまさに救世主となりうる。そして、この残念な天才が、ほぼ独力でここまでの技術レベルに到達したという事実に、彼は驚嘆せざるを得なかった。
興奮を抑えながら、レオナールは改めて研究室を見渡した。様々な標本や器具、ゴミの山、脱ぎ散らかされた衣類に混じって、棚の一角にガラス製の平たい円盤状の容器が多数重ねられているのが目に入った。中には、綿のようなフワフワしたカビや、あるいは白く濁ったゼリー状のものが入っている。明らかに、何かを「培養」している様子だった。
「先生、あちらのガラスの皿では、何かを育てていらっしゃるのですか? まさか、あの変形体の食料とか…?」
「ん? ああ、あれかね?」
アシュトン博士は、棚の方を一瞥すると、ニヤリと、少し悪戯っぽい、そしてどこか下卑た笑みを浮かべた。
「あれはねぇ、儂が最近発見し、同定に成功した、実に興味深く、そして…実によく働く可愛い奴隷…いや、『個』として独立して生きている微小な生命体でね。糖分…例えば、熟れた果物の汁なんかを与えるとだね、もう健気に分裂を繰り返して数を増やしながら、あの芳醇な香り…そう、あの心を惑わす液体…酒を造り出しちゃうのだよ! しかもだ! そいつら、余計な…いや、素晴らしいお世話に、パンを膨らませる気体まで出しおる! なんて健気で多才なのだ!」
博士は一人で感心し、手を叩いている。
「仮に『豊穣の酵母』と名付けたがね。これで自家製の果実酒を造るのが、最近の儂の密かな愉しみでね…ぐへへ…この前も、この酒を手土産に、懇意にしている酒場の女将を訪ねたら、それはもう大変なことになってだな…ぐへへへ…」
(酵母…! しかも、それを純粋に分離して、培養しているだと!? パンまで…!? この人は、いったい何者なんだ…! だが、話が下品すぎる上に、自慢話が長い…!)
レオナールは衝撃を受けた。彼が提唱した「微小なる存在」の「観察」だけでなく、「同定」「分離」「培養」という、彼の計画に不可欠な基礎技術のいくつかを、この博士は(たとえ酒と女のためだとしても)既に行っていたのだ!
(この人は……単なる好色でだらしない博物学者じゃない。この世界における、最先端の微小生物学者と言っても過言ではないのかもしれない…! 素行と性格に目を瞑りさえすれば…!)
目の前の、自分の研究に没頭し、どこか浮世離れし、そして限りなく残念な雰囲気を放つこの「変人」博士が、レオナールの計画にとって、まさに鍵となる人物である可能性が、急速に高まってきた。




