第三十一話:新たなる標的
安息日の穏やかな時間はあっという間に過ぎ去り、夕暮れと共にレオナールはギルバートと共に寄宿舎へと戻った。部屋に戻り、一人になって窓の外に沈みゆく太陽を眺めていると、昼間に薬師通りで見た光景が鮮明に蘇ってきた。風邪に苦しむ子供、怪我の痛みを訴える若者、慢性の腰痛に悩む老婆……そして、あの奇妙な赤い発疹を浮かべた中年の男性。
(梅毒……もし、あの男性が本当にそうなら、今のこの世界の医療では、彼を救う術はない。やがては神経や心臓を蝕まれ、為す術なく死に至るか、あるいは重い後遺症に苦しむことになるだろう)
前世の医師としての知識が、その残酷な未来を容赦なく描き出す。ローネン州の奇病も深刻だったが、あれは原因(環境汚染)を取り除けば、新たな被害は防げる可能性があった。しかし、梅毒のような感染症は、人から人へと静かに、しかし確実に広がっていく。そして、適切な治療法がなければ、多くの人々を蝕み続けるのだ。
(感染症……。人類の歴史は、常に感染症との戦いと共にあった。ペスト、天然痘、結核、そしてスペイン風邪……。それらに対して、人類はワクチンや、そして何より『抗菌薬』という強力な武器を手に入れることで打ち勝ってきたんだ)
抗菌薬。細菌などの微生物を殺すか、その増殖を抑える薬。前世では、それこそ数えきれないほどの種類が存在し、当たり前のように処方されていた。
(そういえば…)ふと、レオナールの脳裏に、前世で見た創作物の記憶がよぎった。(たしか、過去の時代に飛ばされた医者が、現代では当たり前の薬や器具がない状況で奮闘する物語だった。確か、必死でカビから薬を作ろうとしていたはずだ…。あの物語の主人公も、きっと今、俺が感じているような無力感と焦りを抱えていたのだろう。もっとも、創作ならば都合よく薬の材料が見つかったり、画期的な発見があったりするのだろうが、この現実はそう甘くないはずだ。 それでも…医療の限界に直面する苦悩は同じはず。あの物語の主人公が諦めなかったように、自分も、ここで立ち止まるわけにはいかない)
彼の胸に、新たな目標への強い衝動が湧き上がってきた。ローネン州の問題提起と並行して、抗菌薬の開発に着手すべきではないか?
(どうすればいい? 前世の知識をどう活かす?)
彼は思考を巡らせ始めた。
(やはり、最初に思い浮かぶのはペニシリン…あるいはそれに類する、カビ由来のβ-ラクタム系抗菌薬か。アオカビから偶然発見されたという劇的なエピソード。毒性が低いのは大きな魅力だ。この世界のアオカビのようなものを片っ端から集め、スクリーニングするという方向性…)
頭の中で、研究のプロセスをシミュレートしてみる。
(そのためには、まず『細菌培養』の技術が必要だ。どんな培地で、どうやって無菌的に培養するか…。これは基本的な微生物学の範疇だから、前世の記憶を頼りにすれば、それほど難しくはないかもしれない。だが、その前に、そもそも病気の原因となる『微生物』そのものを、きちんと観察し、同定する必要がある)
彼は以前、採血針を自作した際に、その針先を磨くために魔法でごく簡易的な拡大観察具を作ったことを思い出した。
(あれでは、せいぜい細かい傷や凹凸が見える程度だった。微生物のような、目に見えないはずのものを捉えるには、全く倍率も解像度も足りない。本格的な『顕微鏡』と呼べるレベルの観察装置が必要だ。魔法で…例えば、光の屈折率を精密に制御するレンズのようなものを複数組み合わせれば、可能だろうか?)
ゼロからの開発は骨が折れそうだ、と考えた時、別の可能性が浮かんだ。
(いや、待てよ。もしかしたら、この世界にも、既にレンズを使った高度な拡大鏡のようなものが存在するのではないか? 例えば、宝石細工師や、精密な魔道具を作る職人、あるいは裕福な学術愛好家などが、研究や趣味のために所有しているかもしれない。あるいは、王立学院のどこかの研究室の片隅に、忘れられた古い観察器具が眠っている可能性だってある。いきなり自作する前に、まずは既存の『観察道具』について、図書館の文献やギルバートの情報網を通じて、徹底的に調べてみる価値はあるな)
既存の技術があれば、それを改良する方が早いかもしれない。
一方で、もう一つのアプローチについても考えを巡らせる。
(あるいは……ヒ素か。ローネン州で見つかった、あの黒褐色のスポットを示す物質。あれが梅毒の原因であろうスピロヘータに選択的に効く薬、サルバルサンの原料になりうる可能性。材料は、ある意味、豊富にあるし、ターナー先生と協力して純度を高めた標品もある…)
しかし、すぐに難点が浮かぶ。
(だが、サルバルサンの正確な化学構造など、俺は知らない。有機合成の経験も知識も乏しい。これもやはり、手当たり次第に様々なヒ素化合物を合成し、効果と毒性を比較検討していくしかないのか? それこそ、現実の『606号』のように、膨大な数の試行錯誤が必要になるだろう。1000種類…いや、それ以上か? しかも、たとえ運良く有効な化合物が見つかったとしても、その毒性はペニシリンとは比較にならないはずだ…)
レオナールは深く息をついた。ペニシリンルートは安全性が高いが、発見は偶然頼みで、微生物学の基盤確立が必須。サルバルサンルートは材料はあるが、合成が困難で毒性が高い。どちらの道も、険しく、長い道のりであることは間違いない。
(だが、どちらを選ぶにしても、あるいは両方を試すにしても、まずやるべきことは同じだ)
それは、薬の効果を評価するための基盤技術の確立。
(第一に、病気の原因となる微生物を確実に観察できる『高性能な観察手段(顕微鏡)』を手に入れること。第二に、その微生物を特定し、安定して『培養』する技術を確立すること。そして第三に、その微生物を使って薬の効果や毒性を評価するための『疾患モデル(感染動物など)』を作ること。これらがなければ、どんな候補物質が見つかっても、それが本当に薬として使えるのか、科学的に証明することはできない)
結論は明らかだった。抗菌薬開発という壮大な目標への第一歩は、地道な基礎研究——微生物学の導入と、実験系の確立——から始めなければならない。
「よし……」
レオナールは、机に向かい、新しいベルク紙を取り出した。ペンを手に取り、書き始める。
『研究計画:感染症治療薬の開発に向けて』
『第一段階目標:
1.高性能な微生物観察手段の確保(既存技術調査および魔法応用による開発/改良)
2.主要な病原微生物(化膿性細菌、梅毒スピロヘータ等)の同定・分離・培養法の確立
3.動物を用いた感染症モデルの作成と評価系の構築(倫理面も要検討)』
まずは、これをターナー先生に相談してみよう。先生なら、きっとこの新しい挑戦にも興味を持ってくれるはずだ。「見えざる敵」との戦いが、ここから始まるのだ。
レオナールの瞳には、もう疲労の色はなかった。新たなる、そして困難な目標に向けた、静かで強い決意の光が宿っていた。
南方先生~




