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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第二十九話:小さな命が示す毒性

ペーパークロマトグラフィーと呈色反応によって、「黒褐色のスポット」として可視化された未知の物質。それがローネン州の水系を汚染し、人々の体内に取り込まれていることは証明された。次のステップは、この物質そのものが持つ生物への毒性を、実験によって直接証明することだった。


「先生、次の段階として、この黒褐色のスポットに含まれる物質が、実際に生物に対して毒性を持つかを確認する必要があります」

レオナールが提案すると、ターナー教授は事もなげに頷いた。

「うむ、当然だな。原因物質と疑われるからには、その毒性作用を実験的に示さねば、科学的な証明とは言えん。昔、空気の成分を調べていた時も、新しい気体が生物にどう影響するか、常に動物を使って確認していたものだ。手順は同じことだろう」

気体の研究で数多くの動物実験を行ってきたであろう教授にとって、それは研究プロセスの一部であり、感傷を挟む余地はないようだった。彼のドライな反応に、レオナールは内心少しだけ複雑な気持ちを抱いたが、目的のためには必要なステップだと自身に言い聞かせた。


「毒性を確認するなら、原因物質を高濃度で含んでいるであろう、エリアス氏に提供していただいた鉱滓と廃液のサンプルを使うのが最も効率的でしょう。これらを再度クロマトグラフィーで展開し、スポット部分を抽出すれば、比較的純粋な形で試験物質が得られます」とレオナールは計画を説明した。

「それがよかろう。手間はかかるが、純度は高い方が良い。抽出方法もいくつか試してみる必要がありそうだな」

教授も異論はない。むしろ、どうすれば効率よく目的物質を抽出できるか、既に思考を巡らせているようだった。


実験計画はすぐに実行に移された。再び、研究室には大量のベルク紙が展開され、乾燥されていく。硫化試薬をスプレーし、現れた黒褐色のスポット部分だけを切り取る地道な作業が繰り返された。集められた紙片から原因物質を抽出する工程では、ターナー教授の薬品知識が遺憾なく発揮され、試行錯誤の末、弱酸性溶液を用いて目的物質を溶かし出すことに成功した。


実験動物としては、学院から譲り受けた小型齧歯類のクヴィックが用いられた。研究室の一角に設置されたケージで、数匹が実験の時を待っている。レオナールは、抽出した毒性物質溶液を慎重に濃度調整し、経口投与用の餌を用意した。対照群には、同じ手順で清浄な水サンプルから抽出した液(実際には何も抽出されていないはずだが)や、溶媒のみを混ぜた餌を与えた。


投与後、観察が開始された。ターナー教授は、まるで気体の組成変化を観察するかのように、冷静な目でクヴィックたちの行動変化を記録していく。一方レオナールは、前世の医師としての視点から、より詳細な症状——呼吸数、活動量、摂食量、神経症状(震え、麻痺の有無など)——を注意深く観察し、ベルク紙に記録した。


結果は、半日ほどで現れ始めた。毒性物質溶液を高濃度で投与されたクヴィックたちは、明らかに活動性が低下し、食欲をなくし、震えやふらつきといった神経症状を示し始めた。対照群には全く変化がない。


「ふむ。やはり明確な毒性作用があるな。神経系への影響が大きいようだ」

ターナー教授は、観察記録を眺めながら淡々と結論付けた。彼の態度には、予想通りの結果が出たことへの科学的な満足感はあっても、動物への同情といった感情はあまり見られない。それは長年の研究者としての経験が培ったものなのかもしれない。


数日間の観察で、高濃度投与群のクヴィックの多くが衰弱死するという結果に至り、実験は終了となった。レオナールは、必要なデータを全て記録した後、残ったクヴィックを苦痛から解放するため、静かに魔法で安楽死させた。彼の胸には、実験の成功という安堵と共に、小さな命を犠牲にしたことへの重みがずしりとのしかかっていた。


実験ケージの中で静かになったクヴィックたちを前に、レオナールは観察記録をまとめた報告書をターナー教授に提出した。ペーパークロマトグラフィーで分離され、硫化試薬で黒褐色を呈したあの未知の物質は、生物に対して強い毒性を持つことが、実験によって強く示唆された。ローネン州の奇病の原因がこの物質であることは、彼らの中ではほぼ確信に近いものとなっていた。


「ふむ。これで疑いの余地は、ほとんどなくなったな」ターナー教授は報告書に目を通し、冷静に頷いた。気体の研究で同様の実験に慣れている彼にとっても、未知の物質がこれほど明確な毒性を示すという結果は、科学的な確信を深めるには十分だった。「あの黒いシミが病の原因であることに、合理的な反論はできまい」


「はい。我々の中では、これで原因物質への確信は深まりました」レオナールは同意しつつも、表情は硬かった。実験で犠牲になった小さな命の存在が、単なる科学的達成感だけでは終わらせない重みを彼に与えていた。そして、彼は続けた。「ですが先生、以前お話しした通り、この動物実験の結果を論文に載せるわけにはいきません。実験に用いた物質は、エリアス氏に危険を冒して入手していただいた鉱滓・廃液から抽出したものですから」


「うむ、分かっている」ターナー教授も頷いた。「この毒性のデータは、我々の内部的な確信と、今後のための記録として留めておくべきだろう。公表する論文の方は、予定通り、より客観的かつ入手経路に問題のないデータのみで構成する」


二人は、改めて論文執筆の方針を再確認した。

「論文では、飲料水と尿サンプルの分析結果のみを提示します。汚染された飲料水と患者の尿から、共通の未知物質(黒褐色のスポット)が検出された、という事実のみを記載する。血液データも、現段階では公表を見送ります」とレオナール。

「そして結論も、『ローネン州の奇病は、飲料水の汚染によって引き起こされている可能性が強く示唆される』という表現に留める。直接的な毒性の言及や、断定的な表現は避ける、ということだったな」と教授。


それは、科学的な誠実さを保ちつつ、協力者を守り、政治的なリスクを最小限に抑えるための、現実的な選択だった。

「はい。そして、やはり重要になるのは、治療の第一歩が曝露を断つことである、という点です」レオナールは、ローネン州の住民たちの顔を思い浮かべながら言った。「この論文を発表し、問題提起を行うことで、鉱山の操業停止や浄化、そして安全な水の供給といった具体的な対策を、しかるべき立場の方々に促す必要があります。それこそが、今、最も優先されるべきことです」


元素同定や特効薬の開発も、もちろん諦めたわけではない。だが、それは時間のかかる道のりだ。目の前の苦しみを軽減するためには、まず環境改善が不可欠だった。


「うむ。元素の同定は、我々の科学的な探求としては避けて通れぬ道だが、それは次の段階だ。今は、君の言う通り、この論文を世に出し、具体的な行動を促すことに集中しよう」ターナー教授も完全に同意した。そして、少し付け加えるように言った。「だが、我々が直接、政治の舞台にしゃしゃり出るわけにはいかんな。それは我々の役割ではない」


「もちろんです、先生」レオナールも頷いた。「我々の役割は、得られた科学的知見を正確にまとめ、論文として公表し、警鐘を鳴らすことまでです。その情報を元に、どのような対策を講じるかは、ローネン州の領主や王国政府の方々、あるいは……その問題を正そうとする意志のある方々に判断を委ねるべきでしょう。我々は研究者として、事実を提示するに留めるのが身の丈に合っていると思います」

彼は、政治的な駆け引きに深入りするつもりはなかった。自分たちの本分は、あくまで科学的な真実の探求とその報告にあると考えていた。


「ふむ、それが良いかもしれんな」ターナー教授も納得したようだった。「我々は我々の本分を尽くすまでだ。よし、では論文執筆を急ごう。幸い、ベルク紙は山ほどある。そして…その論文とは別に、しかるべき筋へ、もう少し踏み込んだ情報を提供する準備も進めておくか」

教授の最後の言葉は、論文には載せられない内部データ(毒性試験の結果や、鉱滓・廃液の分析概要など)を、水面下で「リーク」することを示唆していた。公的な問題提起と、裏での情報提供。その二つの手段で、事態の改善を促そうというわけだ。


こうして、ローネン州の奇病に関する一連の分析研究は、毒性の内部的な確信をもって一区切りとなった。彼らは、公表する論文の内容と着地点を再確認し、次なる行動へと移行する。それは、科学的な真実を武器に、社会的な問題解決へと踏み出す、新たな挑戦の始まりだった。元素同定という純粋な科学的探求は継続する意志を持ちつつも、今は社会への働きかけを優先するのだ。

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