表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
27/167

第二十七話:黒き染みが示す真実

翌日から、レオナールとターナー教授は、ローネン州の水サンプル分析に本格的に着手した。まずは、基礎検討として、汚染が疑われる川の水と井戸水(それぞれ複数地点から採取したもの)、そして比較対照としてヴァルステリア領から取り寄せた清浄な湧き水を使い、ペーパークロマトグラフィーを行うことにした。


研究室の一角に、簡易的ながらも精密な実験を行うためのスペースが設けられた。レオナールは、ベルク紙を均一な短冊状に切り出し、下端から一定の距離に鉛筆で薄く線(原線)を引いた。この線上に、各水サンプルをマイクロピペットでごく少量ずつ、丁寧にスポットしていく。汚染疑いの水サンプル数種類と、対照の清浄な水。それぞれのスポットが乾くのを待ち、再度スポットする作業を繰り返し、濃度を高めた。


一方、ターナー教授は展開槽の準備を進めていた。ガラス製の大きな密閉容器の底に、展開溶媒(水と少量の酸、そしてアルコールを特定の比率で混合したもの)を注ぎ、槽内が溶媒蒸気で十分に飽和するように、しばらく時間を置く。

「よし、槽内の準備は整ったぞ。サンプルをスポットした紙をセットしたまえ」


レオナールは、サンプルがスポットされたベルク紙の短冊を、上端をガラス棒に固定し、原線の下端が展開溶媒に直接触れないように注意しながら、展開槽の中に静かに吊るした。複数の短冊を、互いに触れ合わないように並べていく。そして、ゆっくりとガラスの蓋を閉めた。


実験は始まった。展開溶媒が、毛細管現象によってベルク紙の下端からゆっくりと吸い上げられ、上昇していく。溶媒前線が原線を通過すると、スポットされたサンプル中の様々な成分が、溶媒の流れに乗って、それぞれの性質に応じて異なる速度で移動を開始する。

しかし、レオナールの予想通り、展開が進んでも、紙の上には目に見える色の変化はほとんど現れなかった。ただ、溶媒だけが静かに紙の上を浸していく。


「……溶媒先端が、予定のラインまで到達したな。展開を止めよう」

数時間後、ターナー教授が声をかけた。レオナールは展開槽の蓋を開け、濡れたクロマトグラム(展開後のベルク紙)を慎重に取り出し、溶媒が到達した先端の位置に鉛筆で印をつけた。そして、研究室の隅に吊るし、付着した溶媒を完全に乾燥させる。


乾燥した数枚のクロマトグラムが、実験台の上に並べられた。一見すると、どれもただの白い紙にしか見えない。だが、レオナールとターナー教授は知っていた。この白い紙の上には、目に見えない化学物質の痕跡が、それぞれの移動距離に応じて分布しているはずなのだ。


「いよいよ、呈色反応だ。先生にご助言いただいた方法で、試してみましょう」


レオナールは、安全に最大限配慮し、換気装置が稼働していることを確認すると、研究室の隅にあるドラフトチャンバー(排気機能付き実験設備)内で作業を開始した。少量取り寄せた硫化鉄の小片に、ターナー教授が用意した希硫酸を慎重に滴下する。すぐに、特徴的な腐卵臭を持つ無色の気体が発生し始めた。彼はその気体をガラス管を通して冷水にゆっくりと吹き込み、目的の物質――硫化水素――を水に溶かし込んだ。こうして調製された飽和硫化水素水は弱酸性を示し、例の毒性粒子を検出するための鍵となる。彼は、調製したばかりの硫化水素水を、専用のガラス製噴霧器に手早く移した。


そして、乾燥したクロマトグラムの一枚に向けて、噴霧器から硫化水素水を均一に、そして手早くスプレーした。シュッ、シュッ……。湿り気を帯びた霧が白いベルク紙に降りかかると、わずかに、しかし確実に、あの鼻につく腐卵臭が漂った。


レオナールとターナー教授は、息をのんで紙の変化を見守った。


数秒の沈黙の後……変化が現れた。


「……! 出た!」


レオナールが思わず声を上げた。対照として用いた清浄な水のクロマトグラムは、ほとんど変化がない。しかし、ローネン州の汚染が疑われる川の水、そして井戸水のサンプルを展開したクロマトグラムには、原線から一定の距離を移動した、ほぼ同じ高さの位置に、くっきりとした黒褐色のスポットが出現したのだ!


そのスポットの位置は、汚染が疑われる全ての水サンプルにおいて共通していた。再現性がある証拠だ。さらに、鉱山に近い地点の水や、症状が重い地域の井戸水ほど、スポットの色が濃く、大きい傾向が見られた。


「間違いない……!」ターナー教授も、興奮した声で言った。「清浄な水には存在せず、汚染された水にのみ共通して存在する、酸性の硫化水素水と反応して黒褐色を呈する何らかの粒子……! これこそが、あの谷の人々を苦しめている元凶なのだ!」


念のため、他の試薬(いくつかの薬草抽出液)も試してみたが、これほど明確で一貫性のある結果を示すものはなかった。酸性条件下で硫化水素と反応しやすい、特定の性質を持った粒子。それが、ローネン州の水系に広範囲に、そして高濃度に拡散していることは、ほぼ疑いようがなかった。


レオナールは、黒褐色のスポットが浮かび上がったクロマトグラムを手に取り、光にかざした。彼の脳裏には、ローネン州で見た患者たちの苦しむ姿が焼き付いていた。手足の痺れ、歩行障害、そしてあの特徴的な皮膚の色素沈着……。


(この黒褐色のシミ……。間違いない、この高さに現れる何かが原因だ。そして、ローネン州で見たあの症状……やはり重金属中毒が疑われるな……)


彼は、臨床医としての知識と、目の前の実験結果を結びつけ、原因物質への確信を深めていた。化学的な詳細までは分からなくとも、臨床像との一致が、彼の疑いを強く裏付けていた。


「先生、ついに尻尾を掴みましたね」レオナールは、確かな手応えを感じながら言った。


「うむ。だが、まだ終わりではないぞ」ターナー教授は、興奮の中にも冷静さを保っていた。「この黒いシミが、具体的にどの根源粒子(元素)なのかを突き止めねばならん。そして、同じものが、患者たちの体内(尿)からも検出されることを証明する必要がある」


ペーパークロマトグラフィーと硫化水素水による呈色反応によって、目に見えない犯人の存在は明らかになった。だが、その正体を完全に暴き、動かぬ証拠とするためには、さらなる分析——おそらくは、元素レベルでの同定——が必要となるだろう。


研究室には、一つの壁を突破した達成感と、次なる課題への決意が入り混じった、濃密な空気が漂っていた。彼らの探求は、核心へと、また一歩近づいたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ