第二十六話:白き紙上の目に見えぬ痕跡
レオナールとターナー教授が共同で執筆したクロマトグラフィーに関する論文は、提出からわずか数週間で、王立アステリア学院の紀要編集委員会から受理の通知を受けた。異例の早さでの受理であり、通知を持ってきた編集委員の老教授(魔術理論)は、興奮冷めやらぬ様子だった。
「ターナー君、レオナール君、君たちの論文、受理されたぞ! いやはや、素晴らしい! 実に画期的だ!」
老教授は、普段の厳格な表情を崩し、手にした論文の写しを軽く叩きながらまくし立てた。
「査読を担当した錬金術や物質の性質変化を専門とする者たちも、皆、舌を巻いていたわい! 『従来の蒸留や分留では到底到達できない分離精度だ』『物質探求の新たな地平を拓く可能性がある』とな! 特に、固定相と移動相の組み合わせで分離特性を制御するという発想、そしてそれを植物色素で実証してみせた手腕! 見事と言うほかない!」
専門家たちが、既存の技術体系にはない新しいアプローチに強い衝撃を受けた様子が伝わってくる。
「それはようございました。我々のささやかな試みが、いくらかでもお役に立てたのなら幸いです」
ターナー教授は、素直に喜びを表しながらも、どこか飄々とした態度で応じた。レオナールも、安堵と共に、自分たちの研究が認められたことへの静かな喜びを感じていた。これで、ローネン州サンプル分析の結果を報告する際の、土台となる信頼性は確保できたと言える。
論文アクセプトの祝杯を(ささやかに研究室で)挙げた後、二人の意識はすぐに次の課題へと移っていた。いよいよ、ローネン州から持ち帰ったサンプルの本格的な分析だ。目標は、奇病の原因となっているであろう未知の毒性粒子を特定すること。
「さて、先生。いよいよ本番です。まずは、大量にある水サンプル(川の水や井戸水)を使って、分析条件の基礎検討から始めましょう。貴重な生体サンプル(尿など)を使うのは、ある程度目星がついてからの方が良いでしょう」
レオナールが低温保管庫から慎重に取り出したサンプルリスト(もちろんベルク紙だ)を確認しながら提案する。
「うむ、それが賢明だな。それで、具体的な分析方法だが……」
ターナー教授が言いかけた時、レオナールは少し考え込むような表情で続けた。
「先生、一つ問題があります。前回の夜想花の実験では、色素という『色』で分離を確認できましたが、今回の対象は、鉱山由来の無色の重金属粒子である可能性が高い。そうなると、クロマトグラフィーで分離できたとしても、どこに目的の粒子があるのか、目で見て追跡することができません」
前世の化学知識を持つレオナールは、有機化合物と無機化合物の違い、特に検出方法における難易度の差を念頭に置いていた。
「ふむ……確かに、色も香りもないとなると、厄介だな……」教授も腕を組む。
「そこで、ですが」レオナールは続けた。「分離した後に、特定の試薬を反応させて目的の粒子だけを『可視化』する、つまり呈色反応を利用する必要があるかと思います。そして、その呈色反応を行うのであれば、カラムよりもペーパークロマトグラフィーの方が適しているかと。展開後の紙に試薬をスプレーしやすいですし、複数のサンプル(汚染された水と対照の清浄な水など)を並べて比較するのにも便利です」
「なるほど、ペーパークロマトグラフィー上で呈色反応、か。それは理に適っているな」ターナー教授は頷いた。「だが、問題は、どんな試薬を使えば、その正体不明の重金属粒子とやらが色を見せるか、だ。我々はその粒子の化学的性質をまだ何も知らないのだぞ?」
「ええ、そこが一番の難問です……」レオナールも表情を曇らせる。前世の知識で当たりはつけているものの、この世界でその物質(ヒ素)がどう認識され、どのような試薬で検出できるかは未知数だ。手当たり次第に試すしかないのか……。
その時、ターナー教授が、自身の古い記憶を探るように、ゆっくりと口を開いた。
「待てよ……。そういえば、錬金術師や鉱物鑑定士の間で、経験的に使われてきた方法がいくつかあったはずだ。体系化された知識ではないがな……」
彼の目が、遠い過去の実験や、古文書の記述を思い出すように細められる。
「例えば、多くの金属粒子は、硫黄と強く結びつく性質がある。鉱石を焼いて硫黄の蒸気を当てたり、あるいは硫黄を含む特定の温泉水に浸けたりすると、黒や褐色の色を示すことが多い。硫化物を作っているのだろう。これなら、多くの重金属粒子に反応する可能性があるかもしれん」
「硫黄を含む化合物、ですか……」レオナールは、教授の言葉に思考を巡らせた。(硫黄……。確かに、前世でも特定の重金属が硫黄と結びつきやすいという性質はあったはずだ。ヒ素もそうだったか……? いや、そこまではっきりと記憶していない。だが、重金属系の毒物という括りで考えれば、試してみる価値はありそうだ)
「もし、我々が追っている粒子がその性質を持つなら、硫黄化合物を使えば可視化できるかもしれません。何か、試せるような試薬の候補はありますか?」
「ふむ……」ターナー教授は顎髭を捻った。「硫黄の蒸気を当てるのは紙には向かんな。硫黄を含む鉱泉水も、不純物が多すぎるだろう。となると……古の錬金術師が時折使っていたという、あの鼻を突く腐卵臭のする気体……あれを水に溶かしたものはどうだろうか。確か、様々な金属粒子と反応して色のついた沈殿を生じたはずだ。扱いは厄介だが、試薬としては比較的純粋で、反応性も高いかもしれん」
「腐卵臭のする気体……硫黄を含む……」レオナールの脳裏に、前世の化学実験の記憶が断片的に蘇る。(硫化水素か……! 確かにあれは有毒だが、実験室では使われていた。酸性水溶液……それなら、クロマトグラム上で反応させる試薬として使えるかもしれない)
「扱いには細心の注意が必要ですが、酸性の水溶液として調製すれば、有力な候補になりそうです。試してみましょう」
「うむ。ただし、その気体は有毒だ。換気には十分すぎるほど気を配り、決して吸い込まんようにな。準備と実験は、ドラフトチャンバーの中で行うべきだろう」教授は安全面を強調した。
「それから、昔、ある種の赤い鉱石(辰砂のようなものか?)を探すのに、特定の植物の根の煮出し汁を使ったことがある。その煮出し汁を垂らすと、目的の鉱石の粉末だけが紫色に変わったのを覚えている。他の金属粒子にも、それぞれ特有の反応を示す薬草があるのかもしれんな。まあ、これは根気よく探すしかないが」
「薬草の煮出し汁……」
「あとは……そうだな、炉で熱した時の炎の色で、含まれる金属の種類を推測することもあったな。まあ、これはクロマトグラフィーの後では使えんが……」
教授の口から語られるのは、近代化学の体系的な知識とは異なる、まさに経験と伝承の知恵だった。pHのような概念はそこにはない。だが、特定の物質が特定の条件下で色を変える、という観察に基づいた実践的な知識だ。
「ありがとうございます、先生! そのお話、非常に貴重です!」レオナールは、教授の助言を熱心にメモした。「まずは、硫化物を生成させる方法を試してみましょう。硫化水素ガスを使うのはここでは危険ですが、先生の仰るようにドラフトチャンバーを使用します。それと並行して、手に入る薬草の中から、金属と反応しそうなものをいくつか試してみる価値はありそうです」
分析の方針は固まった。まずは、ローネン州から持ち帰った水サンプルを、ペーパークロマトグラフィーで展開する。次に、展開後のベルク紙に、硫化水素水をスプレーし、対照サンプルと比較して特異的な反応(色の変化)を示すスポットが現れるかどうかを確認する。もし、汚染された水にのみ共通して現れるスポットがあれば、それが原因物質の手がかりとなるはずだ。
「しかし、有毒な気体まで扱うことになるとは……これもまた地道な作業になりそうですね」レオナールは、目の前の長い道のりを想像して、ふ、と息をついた。
「うむ。だが、面白いじゃないか」ターナー教授は、不敵な笑みを浮かべた。「目に見えない犯人を、我々の知恵で白日の下に晒してやるのだ。これぞ、探求の醍醐味というものだろう」
二人の研究者は、顔を見合わせ、静かに頷き合った。ペーパークロマトグラフィーと呈色反応。この二つの武器を手に、彼らはローネン州の闇に隠された真実へと、次なる一歩を踏み出す準備を整えた。その先に何が待っているのか、まだ誰にも分からない。だが、彼らの知的好奇心と探求心は、かつてないほど高まっていた。




