第二十五話:色を分ける知恵、クロマトグラフィー論文
ローネン州の原因究明という次なる大きな目標を前に、レオナールとターナー教授は、まずそのための武器を研ぐことを選んだ。彼らが開発した画期的な分離分析技術――「クロマトグラフィー」の原理と有用性を、まずは一本の独立した論文として世に問う。それが、これから彼らが提示するであろう衝撃的な分析結果に、揺るぎない権威と信頼性を与えるための、必要不可欠な布石となるはずだった。
「よし、やるからには、中途半端なものは作れんぞ」
その決定が下されるや否や、ターナー教授は腕まくりをして、研究室の黒板に向かった。レオナールも、ベルク紙の束と木炭ペンを手に、教授の隣に立つ。二人の間に、新たな共同作業の火花が散った。
「まず構成ですが」レオナールは、前世での論文執筆の経験を思い起こしながら、提案した。「序論で、既存の分離技術(蒸留など)の限界と、我々が提唱する新技術の必要性を述べます。次に、実験方法の項で、カラムの作成から展開、検出までの具体的な手順を誰にでも再現可能なように詳細に記述する。そして、結果の項では、具体的な分離例をデータと共に示し、最後に考察で、この技術の原理と、考えられる応用範囲について論じる。この流れでいかがでしょう」
「ふむ、合理的で分かりやすい構成だ。それでいこう」ターナー教授は、レオナールの提案に満足げに頷いた。「問題は、結果の項で示す『具体的な分離例』だ。何を使う? あまり複雑すぎても、原理を説明するのには不向きかもしれん」
「それでしたら、以前にも試した、夜想花の色素分離はいかがでしょうか。複数の色素が見事に分離される様子は、視覚的にも分かりやすく、この技術の有効性を示すには最適かと思います」
「おお、あの美しい色の帯か。確かに、あれは誰の目にも明らかだ。よし、それに決まりだ。どうせなら、論文に載せるための、完璧なデータをもう一度取り直そう!」
教授の目が、純粋な探求者のそれに戻っていた。
こうして、二人は論文掲載用の公式データを取得するため、改めて夜想花の色素分離実験に取り掛かった。ギルバートが王都の市場で仕入れてきた、朝露に濡れたばかりの新鮮な夜想花。そのビロードのような質感の深い紫色の花弁を、レオナールは乳鉢で丁寧にする。ふわりと、夜を思わせる甘く妖艶な香りが研究室に広がった。すり潰した花弁に高純度のアルコールを加え、色素と芳香成分を一緒に抽出する。どす黒い紫色の液体が、フラスコの中で静かに揺れていた。
一方、ターナー教授はカラムの準備を進めていた。直径3センチ、長さ50センチほどの特注のガラス管に、彼が最適と判断した白い粘土鉱物の微粉末(固定相)を、溶媒と共に慎重に、そして均一に充填していく。
「レオナール君、見ておれ。カラム作りで最も重要なのは、この充填だ。中に気泡が残ったり、密度にムラができてしまったりすると、溶媒の流れが乱れ、分離能が著しく低下する。まるで、デコボコの道で競争させるようなものだからな。ゆっくりと、丁寧に、重力と対話するように詰めていくのがコツだ」
教授は、長年の経験に裏打ちされた熟練の手つきで、完璧なカラムを作り上げた。白い粉末が均一に詰められたそれは、まるで象牙の柱のように美しかった。
レオナールは、抽出した夜想花のエキスを、マイクロピペットでカラムの上端に静かに添加した。白い固定相の上に、濃い紫色の層がくっきりと形成される。そして、移動相となるアルコール溶媒を、一定の流速でゆっくりと流し始めた。
実験は始まった。アルコールがカラム内を浸透していくにつれて、紫色の層もまた、ゆっくりと下方へと移動を開始する。最初は一本の帯だったそれが、カラムを通過するうちに、徐々にその内なる色彩を解き放ち始めた。
最初に分離したのは、鮮やかなピンク色の帯だった。それは他の色素よりも固定相との親和性が低く、アルコールの流れに乗って、先頭を切って駆け下りていく。続いて、少し遅れて、より幅の広い、赤紫色の帯。そして、さらにその後に、カラムに強く吸着されるかのように、ゆっくりと移動する青紫色の帯が続いた。
「見ろ……! 見事に分かれていく……!」
ターナー教授も、思わず声を上げた。白いカラムを舞台に繰り広げられる、静かな色彩のレース。それは、何度見ても飽きることのない、科学の美しさを体現した光景だった。
さらに、レオナールが注意深く観察していると、紫色の主要な色素群とは別に、ごく微かな、淡い黄色の帯が、まるで隠れていたかのように姿を現し、ゆっくりと移動していくのが見えた。
「先生、あの黄色い色素は……」
「うむ。あれが、夜想花の持つ独特の『香り』の本体だろうな。色素そのものとは性質が違うため、分離されたのだ。これもまた、この技術の優れた分離能を示す、良い証拠となる」
彼らは、各色のバンドがカラム内を移動していく様子を注意深く観察し、時間を追ってその位置をベルク紙に正確にスケッチした。やがて、カラムの下端から、分離された液体が滴り始める。最初に流れ出てきたのは、無色透明のアルコール。次いで、鮮やかなピンク色の液体。レオナールは、この世界にはまだ存在しないはずの「フラクションコレクター」の代わりに、試験管を手に持ち、滴り落ちる液体の色が変わるタイミングを正確に見極めながら、手動で分取していった。
ピンク、赤紫、青紫、そして最後に微かな黄色。それぞれの色が、別々の試験管に集められていく。分取された液体は、それぞれに異なる、しかしどこか共通する甘い香りを放っていた。
「よし、これなら論文に載せるデータとして十分すぎるほどだろう」
実験を終え、試験管に並んだ色とりどりの液体と、詳細な記録が記されたベルク紙を前に、ターナー教授は満足げに頷いた。
その後の数日間、二人は再び論文執筆に没頭した。レオナールが実験方法と結果を客観的な事実としてまとめ、ターナー教授がその化学的な考察と、この技術の応用可能性——薬学、錬金術、鉱物分析、そして将来的には法医学的な毒物鑑定に至るまで——について、その深い洞察力と知識を惜しみなく筆に込める。修正や加筆も、ベルク紙のおかげで以前より格段に容易になっていた。時には、一つの言葉の定義を巡って、夜が更けるまで議論を戦わせることもあった。
そしてついに、論文は完成した。タイトルは、『クロマトグラフィー:混合物分離における新手法とその原理、及び植物色素分離への応用』。レオナール・ヴァルステリアとターナー教授の連名で記されたその論文は、この世界の物質科学に新たな扉を開く可能性を秘めた、力強い産声を上げた。
「これでよし。早速、学院の紀要編集委員会に提出しよう」
「はい。これが認められれば、いよいよローネン州のサンプルの本格的な分析に取り掛かれますね」
レオナールの胸には、一つの大きな仕事を成し遂げた達成感と、次なる、そしてより困難な挑戦への静かな高揚感が満ちていた。このクロマトグラフィーという新しい知恵の光を手に、彼はローネン州の闇に隠された真実へと、今まさに迫ろうとしていた。




