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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第二十四話:帰還と分析への序章

二週間ぶりに見る王都アステリアの城壁は、レオナールにとって安堵と同時に、新たな戦いの始まりを告げる象徴のように見えた。ローネン州への往復に要した時間は、彼の人生の中でも特に濃密で、そして重い意味を持つものとなったからだ。


ヴァルステリア家の馬車が王立学院の寄宿舎前に到着すると、レオナールは護衛の騎士たちに礼を述べ、従者のギルバートと共に馬車を降りた。長旅の疲れはあったが、彼の足取りはしっかりとしていた。彼が慎重に指示して運び出させた分厚い断熱材で覆われた箱の中には、ローネン州の未来を左右するかもしれない、貴重なサンプルが冷凍状態で納められているのだ。


「ギルバート、長旅ご苦労だった。荷解きは後で構わないが、この断熱箱の中身——現地で凍結させ、特殊な冷却材と共に厳重に梱包してきたサンプルだ——は最優先で、ターナー先生の研究室にある低温保管庫に移しておいてくれ。そして、中の冷却材がなくならないよう、定期的に補充を頼む。やり方は後で先生に確認するから、まずは移動を頼む」

「かしこまりました、レオナール様。直ちに研究室へ運び、指示通り管理いたします」

ギルバートは、主人が細心の注意を払うその箱を、慎重に受け取り、手配した荷運び人に指示を出した。血液や尿などの生体サンプルだけでなく、水質サンプルや鉱滓なども、変質を防ぐためには低温保存が不可欠であると、レオナールは現地で判断し、冷却魔法で凍結させた後、この世界で利用可能な最も効果的な冷却材(魔法で生成されたドライアイスのようなもの)と共に梱包してきたのだ。


レオナールは、ギルバートにサンプルの移動と管理を任せると、休む間もなく、足早に学院の敷地の奥にある古い実験棟へと向かった。目指すは、ターナー教授の研究室だ。早く報告し、分析に取り掛からなければならない。一刻も早く、あの苦しむ人々を救うための道筋をつけなければ。


研究室の古びた木の扉の前に立ち、深呼吸を一つ。扉をノックすると、中から聞き慣れた、少ししゃがれた声が聞こえた。

「……入ってくれたまえ。鍵はかかっておらん」


レオナールが静かに扉を開けると、そこには相変わらず混沌とした、しかし彼にとっては馴染み深い空間が広がっていた。薬品と埃の匂い、無造作に積まれた書物と鉱石、そして複雑な実験器具。部屋の奥では、ターナー教授が丸眼鏡を額に押し上げ、何やら新しい配合の金属の溶解度を、小さな試験管で試しているところだった。


レオナールが入ってきたことに気づくと、教授は試験管から顔を上げ、少し驚いたような、そして安堵したような複雑な表情を浮かべた。

「ほう……無事に戻ったか、レオナール君。思ったより早かったな。して、どうだった? 例の『奇病』とやらは」

ぶっきらぼうな口調はいつも通りだが、その声色には、弟子の身を案じていた気配が微かに滲んでいた。


「ただいま戻りました、先生。ご心配をおかけしました」レオナールは一礼し、教授の机の前に進み出た。「結論から申し上げます。ローネン州の奇病は、感染症ではなく、鉱山由来の何らかの毒性物質による集団中毒である可能性が極めて高い、と私は判断しました」


「……中毒、だと? やはり、そうか」

教授は眉をひそめ、ピンセットを置いた。レオナールの断定的な口調に、ただの憶測ではない確信を感じ取ったのだろう。


レオナールは、鞄からベルク紙にまとめた調査記録を取り出し、簡潔に、しかし詳細に報告を始めた。

「まず、症状です。手足の痺れ、筋力低下、歩行障害、構音障害、そして特徴的な皮膚の色素沈着……これらは、私が知るある種の重金属粒子による中毒の典型的な症状と酷似しています。そして、その症状は鉱山に近い地域、あるいは鉱山からの川の下流域の住民に集中して見られました」

彼は、自身で描いた簡易的な地図と患者分布図を示した。

(……前世で見た、慢性ヒ素中毒の症状そのものだ。だが、この世界でヒ素の存在が確認されているわけではない。断定は避けるべきだ)

「さらに、現地で長年精錬技師をされていたエリアスという方から、決定的な証言を得ることができました。十数年前から、鉱山の運営方針が利益優先に変わり、本来なら適切に処理されるべきだった廃液や鉱滓が、そのまま川へ流されたり、野積みにされたりするようになった、と。彼は当時から危険性を感じていたそうです」

「なんと……! では、やはり……」教授の声に、怒りの色が混じる。

「はい。原因物質は、症状や鉱山の性質から考えて、特定の重金属粒子である可能性が高いと推測しています。それを裏付けるため、現地でこれらのサンプルを採取してきました。変質を防ぐため、採取後すぐに冷却魔法で凍結させ、特殊な冷却材と共に低温状態を維持して運んできました」


レオナールは、後ほどギルバートが研究室の低温保管庫へ運び込む手筈になっているサンプルについて説明しながら、採取したサンプルのリストを示した。汚染が疑われる地域の川の水、井戸水、畑の土壌。そして、数名の患者さんから同意を得て採取した血液、尿サンプル。最後に、エリアスが決死の覚悟で入手してくれた、鉱滓の欠片と、濁った廃液。これらは全て、凍結状態で保管されている。


教授は、サンプルのリストとレオナールの説明を聞き、その用意周到さに感心したような顔を見せた。

「ふむ……現地で凍結処理し、冷却材まで用いて運んできたか。サンプルの変質を最小限に抑える、良い判断だ。して、その鉱滓や廃液は……見たところ、通常の蒼鉛鉱石の精錬過程だけでは説明がつかんような代物だろうな。不純物……おそらくは、君の言う未知の毒性粒子が、かなり高濃度で含まれていると見て間違いないだろう……」

彼の研究者としての目が、見えないサンプルに異常性を見出していた。


「それで、先生」レオナールは本題を切り出した。「これらのサンプルを、我々が開発した新しい分析法——クロマトグラフィーを用いて詳細に分析し、原因物質を特定したいと考えています。そして、その結果をまとめ、論文として発表したいのです」

「論文、だと?」教授は意外そうな顔をした。

「はい。まずは、前提となるクロマトグラフィーの原理と有用性を示す論文を。その上で、今回の調査結果——臨床像、疫学データ、尿と環境サンプルの分析結果、そして可能であれば毒性実験の結果をまとめ、水質汚濁が奇病の原因であることを示唆する論文を発表したいのです。発表媒体としては、まずは学院の紀要が適切かと考えております」


レオナールは、慎重に言葉を選びながら続けた。

「ただし、先生。エリアス氏から提供を受けた鉱滓と廃液については、その入手経路が問題となるため、今回の論文データからは除外するつもりです。あくまで、公式に採取可能であった、あるいは患者さんの同意を得られたサンプルに基づいた報告に留め、結論も『原因である可能性が高い』という示唆に留めたいと考えています。血液サンプルについても、刺激が強すぎる可能性があるため、同様に今回は使用を見送るつもりです」

彼は、自身の考え——倫理的な配慮と、政治的なリスク回避——を正直に伝えた。


ターナー教授は、しばらくの間、黙ってレオナールの言葉を聞いていた。そして、ゆっくりと頷いた。

「……なるほどな。君の判断は、妥当だろう。真実を明らかにすることは重要だが、我々研究者は、その過程における倫理や、結果がもたらす影響にも配慮せねばならん。特に、協力者を危険に晒すわけにはいかんからな。不正に入手したサンプルや、扱いがデリケートな血液データを伏せる、という判断は正しい」

彼は、レオナールの慎重さと配慮を評価したようだった。そして、その目に再び研究者としての強い光が宿った。

「よし、決まりだ! まずはクロマトグラフィーの論文を完成させ、世に問う! そして、その新しい武器を使って、持ち帰ったこれらのサンプルを徹底的に分析するぞ! ローネン州の悲劇を引き起こしている未知の毒性粒子の正体を、我々の手で科学的に突き止めるのだ! 幸い、ベルク商会のおかげで、記録用紙の心配はなくなったからな!」

教授は、まるで新たな冒険に乗り出す少年のように、興奮した様子で立ち上がった。原因物質が具体的に何であるかはまだ不明だが、それを特定するという挑戦に、彼の知的好奇心は強く刺激されたのだ。

「さあ、レオナール君、感傷に浸っている暇はないぞ!早速クロマトグラフィ論文執筆の準備を開始しよう!」


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