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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第二十一話:沈黙の証言者

二週間に及ぶ長い旅路の末、レオナール一行はようやく目的地のローネン州、蒼鉛鉱山周辺地域へと足を踏み入れた。馬車が山間の谷へと入っていくにつれ、車窓から見える景色は一変した。豊かな緑は色褪せ、活気ある農村の風景は影を潜め、代わりに目立つのは痩せた土地と、点在する活気のない小さな村々だった。空気も、気のせいか重く淀んでいるように感じられる。


最初に訪れたのは、鉱山から見て川の下流に位置する比較的人口の多い村だった。しかし、村の広場には人影もまばらで、家々の扉は固く閉ざされているところが多い。時折見かける村人の顔には生気がなく、その手足や顔には、ギルバートの報告にあった通りの、不気味な青黒い斑点が浮かんでいる者もいた。そして何より、村全体を覆う、重苦しい静寂と絶望感が、レオナールの肌を刺した。


「……これが、報告にあった奇病の村か」レオナールは馬車を降り、厳しい表情で呟いた。隣に立つギルバートも、息をのんで周囲を見回している。護衛の騎士たちも、歴戦の彼らですら、戦場とは異なるこの陰鬱な雰囲気に顔を曇らせていた。


レオナールは、まず村のまとめ役(村長のような存在だろうか)に挨拶し、身分を明かして調査への協力を求めた。辺境伯の子息であり、ターナー教授(その名は地方の知識人の間でも僅かに知られていた)の推薦状を持つ彼の申し出は、最初は警戒されたものの、最終的には受け入れられた。王都からの調査団が何の成果も上げられずにいる中、藁にもすがる思いだったのかもしれない。


レオナールは早速、ギルバートと手分けして、本格的な調査を開始した。まずは、患者たちの診察だ。彼は持参したPPE(マスク、手袋、ガウン)を着用し、村長の案内で病に苦しむ家々を訪ね歩いた。診察すればするほど、症状の特異性と深刻さが明らかになっていく。手足の痺れ、進行性の筋力低下、歩行困難、構音障害、そしてあの特徴的な皮膚の色素沈着。重症の患者は、寝たきりの状態で、時折意味不明な言葉を発したり、痙攣を起こしたりしていた。


(間違いない……これは典型的な慢性中毒の症状だ。特に神経系と皮膚への影響が大きい。やはり、ヒ素中毒の可能性が極めて高い。だが、なぜこれほどの規模で……?)


並行して、環境調査も進めた。村の主要な水源である川の水と、いくつかの家の井戸水を採取。畑の土壌も採取した。見た目には異常は感じられないが、レオナールはこれらのサンプルに原因物質が含まれている可能性が高いと睨んでいた。採取したサンプルは、持参したガラス瓶に密閉し、王都に持ち帰って分析するために厳重に保管した。


住民への聞き取りも重要な情報源だった。いつ頃から症状が出始めたのか? どのような水を飲み、何を食べているのか? 鉱山での仕事の経験は? 彼らの話からは、数年前から徐々に体調を崩す人が増え始め、ここ一年ほどで死者が急増していること、そして症状は鉱山に近い地域や、川の下流域でより深刻であることが浮かび上がってきた。


そんな中、レオナールはある噂を耳にした。

「鉱山の精錬に関わっていた技師で、数年前に突然、山奥に引っ込んじまった男がいるんだ。なんでも、鉱山のやり方に何か文句があったとか、なかったとか……気難しい人でね、村の者もあまり近寄らんのですよ」

村長が、ぽつりと漏らした言葉だった。


(元精錬技師……? 鉱山のやり方に文句……? 彼なら、何か知っているかもしれない!)


レオナールは、その元技師に会うことを決意した。村長からおおよその場所を聞き、ギルバートと護衛騎士一名だけを伴って、山道を分け入っていった。


半日ほど歩いただろうか。谷間の奥まった場所に、粗末だが手入れの行き届いた小さな小屋を見つけた。小屋の前で、薪を割っている初老の男性がいた。頑固そうな顔つき、鍛えられた腕、そしてその目に宿る深い翳り。彼が元技師のエリアスだろう。


「ごめんください」レオナールが声をかけると、エリアスは訝しげな顔で彼らを見た。貴族の少年と、その従者、そして武装した騎士。こんな山奥に似つかわしくない一行に、彼の警戒心は露わになった。

「……何の用だ? 見ての通り、わしは世捨て人だ。貴族の方々がおいでになるような場所ではないぞ」


「突然の訪問、失礼いたします。私はレオナール・ヴァルステリア。麓の村々で流行している奇病の原因を調べております。あなた様が、以前、蒼鉛鉱山で精錬技師をされていたエリアス殿だと伺い、ぜひお話を伺いたく参上いたしました」レオナールは、単刀直入に用件を告げた。


エリアスの表情が、さらに険しくなった。

「奇病だと? わしには関係ない。鉱山のことも、とうの昔に辞めた身だ。帰ってくれ」彼は、取り付く島もないといった態度で背を向けようとした。


「お待ちください!」レオナールは声を強めた。「関係なくはないはずです! あの病気は、おそらく鉱山から流れ出ている毒物が原因です! あなたはそのことを知っている、あるいは少なくとも、何か心当たりがあるのではないですか?」


エリアスは動きを止め、ゆっくりと振り返った。その目には、驚きと、そして深い苦悩の色が浮かんでいた。

「……毒物だと? 君は……一体、何者なんだ? 王都の調査団でも、そんなことは……」


「私は医術と、そして物質のことわり——化学を学ぶ者です。症状と状況から判断するに、あれはヒ素のような重い粒子による中毒の可能性が極めて高い。鉱石の精錬過程で、有害な廃棄物や廃液が出ることは避けられません。問題は、それらが適切に処理されていたかどうかです」

レオナールは、彼の目を見て、はっきりと告げた。前世の知識に基づいた、確信に近い推測だった。


エリアスは、レオナールの言葉に目を見開き、そして何かを堪えるように唇を噛んだ。彼の脳裏に、過去の光景が蘇っているのかもしれない。精錬炉から立ち上る異臭のする煙、川へと流される濁った廃液、そして、コスト削減のために野積みにされた大量の鉱滓……。


「……当時は、誰も、あんなものに毒があるなんて、本気で考えちゃいなかったんだ」エリアスは、絞り出すような声で言った。「鉱滓も廃液も、ただの『ゴミ』だと……。まさか、それが村の人たちをこんな目に遭わせるなんて……。俺は……俺は、薄々、何かがおかしいとは感じていた。だが、知識がなかった。それに、上に逆らえばどうなるか……」

彼の声は、後悔と自己嫌悪に震えていた。運営側は、必ずしも悪意があったわけではないのかもしれない。ただ、知識がなく、利益を優先し、結果として取り返しのつかない事態を招いたのだ。そして、エリアス自身も、その流れを止められなかった一人だった。


レオナールは、エリアスの苦悩を静かに受け止めた。彼を責めるつもりはなかった。問題は、過去を悔やむことではなく、今、そして未来のために何をすべきかだ。

「エリアスさん。あなたの知っていることを、話していただけませんか? 何が原因で、どうすればこの悲劇を止められるのか。それを知るためには、あなたの力が必要なのです」


エリアスは、しばらくの間、レオナールの真剣な瞳を見つめていた。そして、長く、重い沈黙の後、彼はゆっくりと頷いた。

「……分かった。君になら、話せるかもしれん。あの鉱山が……そして、俺たちが、この谷に何をしてきたのかをな……」

彼は、レオナールたちを自身の小さな小屋へと招き入れた。固く閉ざされていた真実の扉が、今、静かに開かれようとしていた。


元精錬技師エリアスの小さな小屋は、質素だが、整理整頓が行き届いていた。壁には鉱石の分析に関するメモや、古い設計図のようなものが貼られている。彼が研究熱心な人物であったこと、そして今もなお、完全に世を捨てたわけではないことを物語っているようだった。レオナールとギルバート(護衛騎士は外で待機させた)は、エリアスに勧められるまま、粗末な木の椅子に腰を下ろした。


「……どこから話したものか」

エリアスは、テーブルに置かれたランプの灯りを見つめながら、ぽつりと呟いた。その表情には、長年抱えてきたであろう後悔と、真実を語ることへのためらいが色濃く浮かんでいた。


「エリアスさん、無理にとは言いません。ですが、あなたが知っていることが、麓の村の人々を救う鍵になるかもしれないのです」レオナールは静かに促した。


エリアスは、レオナールの真っ直ぐな瞳をしばし見つめた後、ふぅ、と深く息を吐き、意を決したように語り始めた。

「……わしが、あの蒼鉛鉱山で働き始めたのは、もう三十年以上も前のことだ」

彼の声は、低く、重かった。


「あの鉱山はな、表向きはローネン州を治める子爵家の持ち物ということになっているが、実際の運営は、王都に本店を持つ『ゴルディン商会』という欲深い連中に、もう何十年も前から委託されておるのだ。彼らにとって、鉱山はただ金を産む道具でしかなかった」

運営主体が明らかになり、レオナールは黙って頷いた。貴族と商会が結びついた、利益優先の構図が透けて見える。


「わしが若い頃……先代の子爵様と、ゴルディン商会の先代の会長が仕切っていた頃はな、今思えば、まだ多少の『まともさ』があったのかもしれん」エリアスは遠い目をした。「もちろん、当時から労働環境は厳しかったし、安全への配慮も十分とは言えんかった。だが、少なくとも、鉱石を精錬した際に出る『廃液』や『鉱滓こうさい』の扱いについては、妙な決まりがあったんだ」


「決まり、ですか?」


「ああ。『精錬で出た泥水(廃液)は、この谷の奥にある『浄化の沼』と呼ばれる場所に流すこと』『燃え残り(鉱滓)は、山の特定の洞窟に運び込み、決して雨風に晒さぬこと』……先々代の技師長から、そう固く言い含められてな。理由はよく分からんかった。『古くからの言い伝えだ』とか、『土地の精霊の怒りを買わぬため』とか、そんな曖昧な説明だったが、とにかく皆、それを守っていた。まあ、それでも多少は川に流れ込んだりもしたんだろうが、今ほど酷くはなかったはずだ」


(浄化の沼……洞窟への保管……。理由は不明でも、経験則か、あるいは過去に何かあったのか、有害な廃棄物を環境から隔離しようという意識はあったわけか。不完全ではあっても)

レオナールは、その古い慣習に興味を引かれた。


「だがな、十数年前に代替わりして、全てが変わった」エリアスの声に、苦々しさが混じる。「新しい子爵様は領地経営に興味がなく、全てをゴルディン商会の新しい会長——欲深く、計算高い男だった——に丸投げした。そして、その新しい会長が連れてきたのが、効率化ばかりを口にする新しい鉱山長だった」


「彼らは、鉱山の生産量を上げるためなら、どんな手段も厭わなかった。そして、真っ先に目をつけたのが、あの廃液と鉱滓の処理だったのだ。『ただの泥水や石ころを、わざわざ遠くまで運んで処理するなど、時間と金の無駄だ! 川に流せ! その辺に捨て置け!』とな」


「……そんな無茶な」ギルバートが思わず声を漏らした。


「ああ、無茶だ。わしら古い技師たちは、いくらか反対した。『先代からの決まりだ』『何か良くないことが起こるやもしれん』とな。だが……」エリアスは自嘲気味に笑った。「我々には、その『良くないこと』が具体的に何なのか、説明するだけの知識がなかったのだ」


「運営側の連中は、我々の反対を『非科学的な迷信だ』『効率化を妨げる老害だ』と一蹴した。彼らにとって、廃液はただの汚れた水、鉱滓はただの石ころに過ぎなかった。それに毒が含まれている可能性など、考えもしなかったのだろう。なぜなら、彼らはそういった細かい理屈や、物が毒に変わる仕組みを知らなかったし、知ろうともしなかった。ただ、目の前のコストが下がり、生産量が増えることしか見ていなかったのだ」


「そして、処理は簡略化された。廃液はそのまま川へ流され、鉱滓は鉱山の近くに野積みにされるようになった。わしは……何度も危険性を訴えたが、聞き入れられず、最後には『非協力的だ』として、半ば追い出されるように鉱山を去った……。他の反対した者たちも、同じような運命だった」

エリアスの拳が、固く握りしめられていた。


「それから数年……案の定、川の下流の村々で、奇妙な病気が現れ始めた。最初は気のせいかと思われたが、年々患者は増え、症状は重くなっていった。わしは……自分の無力さと、あの時の判断を、ずっと……ずっと後悔してきた……」

彼の目には、深い苦悩と涙が滲んでいた。


レオナールは、静かにエリアスの告白を聞いていた。それは、無知と利益優先が生んだ、防げたかもしれない悲劇の記録だった。そして、その根底には、この世界の科学知識の未熟さがあった。


「エリアスさん……お話しいただき、ありがとうございます」レオナールは、静かに、しかし力を込めて言った。「あなたの証言は、この奇病の原因を特定し、そして同じ過ちを繰り返さないために、非常に重要です。あなたの勇気を、決して無駄にはしません」


エリアスは、驚いたように顔を上げた。彼の目には、諦めだけでなく、微かな希望の光が灯ったように見えた。


「それで……君は、これからどうするつもりだ?」


「まずは、あなたの証言と、私が集めた情報、そして持ち帰るサンプルを基に、原因物質を科学的に証明します。そして、その結果をもって、鉱山の運営側——子爵家とゴルディン商会に、対策を迫ります。汚染源を断ち、環境を浄化し、そして苦しんでいる人々への治療と補償を求める。簡単なことではないでしょうが、必ずやり遂げます」

レオナールの言葉には、揺るぎない決意が込められていた。


エリアスは、しばらくレオナールの顔を見つめていたが、やがて、ふっと息をつくと、立ち上がった。

「……分かった。わしも、もう黙っているのは終わりにする。君に協力しよう。鉱山の内部構造、精錬のプロセス、廃棄物の詳細……わしの知っていることは、全て話す。サンプル採取にも、できる限り協力しよう」

彼の目には、長年の沈黙を破る、新たな決意が宿っていた。


こうして、レオナールは奇病の真相に迫るための、最も重要な証言者であり、協力者を得ることができた。残された滞在期間はあとわずか。彼はエリアスの協力を得て、最後の情報収集とサンプル採取に全力を注ぐことになる。そして、王都に戻り、実験室での分析という、次なる戦いに備えるのだ。鉱山の闇は深いが、真実の光は、確かに差し込み始めていた。


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