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血液内科医、異世界転生する  作者:
ローネン州の真実
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第二十話:生と死の解剖学

王立アステリア学院の門を後にし、ローネン州を目指す旅が始まった。レオナールが乗るのは、ヴァルステリア家の紋章が入った頑丈な大型馬車。同乗するのは、忠実な従者ギルバートと、父アルフォンスが万全を期して付けてくれた、経験豊富な護衛騎士団の隊長クラスの騎士、そしてその部下である屈強な騎士たち数名だ。表向きは「領地経営の実地研修のための視察旅行」ということになっているが、その真の目的を知るのは、レオナールとギルバート、そして事情を説明され固く口止めされた騎士隊長だけだった。


目指すは、王国の南西部に位置するローネン州、その山間部にある蒼鉛鉱山周辺地域。王都からは馬車で最低でも十数日はかかる距離だ。旅の準備は万端だった。トーマスとベルク商会の協力で、個人用防護具(PPE)一式と、医薬品や食料などの物資は十分に確保できた。そして、レオナール自身が試作した、滅菌済みの採血針とガラス製シリンジも、厳重に梱包され、彼の荷物の中に納められている。ターナー教授との約束通り、学院の各教授への説明と調整も済ませ、正式な休暇許可も得ている。


(あとは、現地で何を見つけられるか、だ……)


馬車の窓から流れる景色を眺めながら、レオナールは思考を巡らせていた。ギルバートが集めた情報、トーマスからもたらされた現地の経済状況、そして自身の医学知識に基づく仮説——蒼鉛鉱山由来のヒ素(あるいは他の重金属)中毒。だが、それはまだ仮説に過ぎない。未知の感染症や、異世界特有の要因が絡んでいる可能性も捨てきれない。


(現地では、まず症状を自分の目で確かめ、記録する。そして、環境サンプル——水、土壌、鉱石——を可能な限り採取する。患者さんの協力が得られれば、尿、そして血液サンプルも……。持ち帰ったサンプルをターナー先生と分析すれば、きっと原因物質の手がかりが見つかるはずだ)


旅は、最初の数日間は比較的順調に進んだ。王都周辺の整備された街道を南西へと進み、豊かな穀倉地帯を抜ける。街道沿いの宿場町は活気があり、レオナールたちは毎晩、それなりの宿で休息を取ることができた。


しかし、旅が始まって一週間ほど経ち、ローネン州に近づくにつれて、道のりは険しくなり、風景も寂しくなっていった。街道は狭くなり、舗装も途切れがちになる。宿場町の間隔も開き、時には野営を余儀なくされる夜もあった。護衛の騎士たちは、交代で見張りに立ち、常に周囲への警戒を怠らなかった。


そんな野営の準備をしていたある日の夕暮れ時。斥候に出ていた若い騎士が、興奮した様子で駆け戻ってきた。

「隊長! 大きな雄鹿を仕留めました! 今夜はご馳走です!」

どうやら、食料調達のために狩りに出ていたらしい。しばらくして、他の騎士たちが、肩に担いで立派な角を持つ鹿を運んできた。


「おお、見事な獲物だな」騎士隊長——名をバルカスという、歴戦の強者らしい風格を持つ壮年の騎士——は満足げに頷いた。「よし、今夜は新鮮な鹿肉だ。手早く解体して、焚き火で焼こう」


騎士たちが、慣れた手つきで解体作業を始めるのを、レオナールは少し離れた場所から見ていた。血の匂いが風に乗って漂ってくる。前世では、手術室という管理された環境でしか人体の内部に触れたことのなかった彼にとって、それは生々しい光景だった。


しかし、次の瞬間、彼の目を捉えたのは、血や内臓に対する嫌悪感ではなく、純粋な知的好奇心だった。騎士が使うナイフの動き、皮を剥ぎ、筋肉を切り分け、内臓を取り出す手際。それは、まさに生きた解剖学の実習そのものだった。


(……すごい。迷いがない動きだ。筋肉の走行や、関節の位置を正確に理解している)


彼は、思わず立ち上がり、解体作業を行っている騎士のそばへと歩み寄った。

「……少し、見せていただいてもよろしいですか?」

声をかけられた騎士は、一瞬驚いた顔をしたが、相手が主君の息子であるレオナールだと気づくと、少し戸惑いながらも頷いた。

「は、はあ。構いませんが……血などが飛びますし、あまり気分の良いものでは……」


「大丈夫です。興味があるのです。特に、内臓の配置や、骨と筋肉の繋がり方に」

レオナールの真剣な眼差しに、騎士は何かを感じ取ったのか、「では、こちらへ」と、作業が見やすい位置へと彼を招き入れた。


レオナールは、食い入るように解体作業を見つめた。胸腔が開かれ、肺と心臓が現れる。腹腔が切り開かれ、胃、腸、肝臓、腎臓といった臓器が次々と取り出される。その位置関係、大きさ、形状、色……。前世で学んだ人体解剖学の知識と、目の前の鹿の内部構造が、彼の頭の中で重ね合わされていく。


(基本的な構造は……やはり同じだ。哺乳類としての共通性か。心臓の位置、肺の葉の数、消化管の走行……。もちろん、細部は違うだろうが、驚くほど似ている)


彼は、騎士に質問を始めた。

「その、今取り出したのは肝臓ですね? かなり大きいですが、鹿は草食だからでしょうか?」

「それは腎臓です。形が特徴的でしょう?」

「この太い血管は……大動脈から分岐しているものですか?」


彼の質問は、単なる子供の好奇心ではなく、明らかに解剖学的な知識に基づいていた。騎士は、最初は戸惑いながらも、次第に彼の知識と理解力に感心し、丁寧に答えてくれるようになった。

「若様は、お詳しいのですな。薬師か何かを目指しておられるのですか?」

「……ええ、まあ。少し、身体の仕組みに興味がありまして」レオナールは曖昧に微笑んだ。


しばらく見学していたレオナールだったが、やがて衝動を抑えきれなくなった。

「もし、よろしければ……少しだけ、ナイフを使わせていただけませんか? この筋肉の付き方を、自分の手で確かめてみたいのです」

彼の申し出に、騎士はさすがに驚き、隊長のバルカスに指示を仰いだ。バルカスも一瞬眉をひそめたが、レオナールの真剣な目を見ると、「……構わん。だが、怪我だけはするなよ。それと、肉を無駄にするな」と許可を出した。


レオナールは、騎士から小ぶりのナイフを受け取ると、手袋の上から、震える手で鹿の脚の筋肉に切り込みを入れた。生温かい肉の感触、筋膜の抵抗、骨に当たる感触……。それは、教科書の図や、ホルマリン漬けの標本とは全く違う、生々しい「生命」の感触だった。


(……これが、生きているということ、そして死んでいるということ……)


彼は、慎重に筋肉を剥離し、その起始と停止、神経や血管の走行を確認していく。前世の外科医が行う手術とは全く違う、荒々しく、血生臭い作業。だが、彼の目は、研究者のように冷静に、そして医師のように真剣に、目の前の「現実」を観察していた。


一通りの解体作業が終わり、肉が焚き火で焼かれ始めると、香ばしい匂いが辺りに漂い始めた。レオナールは、汚れた手袋を外し、ギルバートが用意した水で手を洗いながら、先ほどの経験を反芻していた。


(貴重な経験だった……。動物とはいえ、内部構造を直接、この手で確かめることができたのは大きい。教科書の図や、ヴァルステリア家の書庫にあった古い解剖図だけでは得られない、立体的な理解、そして生命の“手触り”があった。基本的な構造は人間と同じ部分が多い。やはり、知識だけではダメだ。実際に見て、触れて、感じること……それが理解を深めるためには不可欠だ)


そして、彼は改めて感じていた。生命の複雑さと、その脆さ。そして、それを救うために、自分がこれからやろうとしていることの重さ。書物や理論だけではない、生々しい現実が、彼の決意をさらに固くしたようだった。


同時に、彼は別の、そしてより重要な事実を痛感していた。

(そして、改めて思い知らされた……。内部構造をどれだけ正確に理解していても、それだけでは、何も救えないのだ、と。病に侵された臓器、傷ついた血管、あるいは悪性の腫瘍……それらに直接到達し、切開し、切除し、縫合する技術——外科的アプローチがなければ、助けられない命がある。母を救えなかった大きな要因の一つも、それがないことだった)


彼は唇を噛んだ。学院に入ってから、ターナー教授との化学研究、そして情報処理魔法陣への興味に没頭するあまり、当初抱いていた目標の「三本目の柱」——外科的介入能力の獲得——への意識が、どこか薄れていたことに気づいたのだ。


(化学による原因究明、魔法による診断・治療補助……それらは確かに重要だ。だが、それだけでは足りない。俺が目指すのは、内科も外科も、そして魔法も統合した、全く新しい医療体系のはずだ。危うく、知識偏重になるところだった……)


目の前の解体作業で見た、騎士の迷いのないナイフ捌き。それは医療行為ではないが、「切る」「分ける」という行為の現実を彼に突きつけた。


(メスを握る技術、あるいはそれに代わる精密な魔法。組織を傷つけずに処置し、確実に止血し、そして機能的に縫合する知識と経験……。これもまた、本腰を入れて学び、探求しなければならない。王都に戻ったら、あの噂に聞く『外科』の情報や、解剖が可能な場所についても、本格的に調べ始めなければならない。時間はないんだ……)


書物や理論だけではない、生々しい解剖の経験が、彼の目標設定に、改めて外科的アプローチの重要性という、欠けていたピースを強く意識させた。


夕食の鹿肉は、少し硬かったが、滋味深く、レオナールも普段よりは多く口にした。護衛の騎士たちは、解体に強い興味を示しただけでなく、何か深い思索にふけっている風変わりな若様を、どこか畏敬の念のこもった目で見ているようだった。


旅は続き、やがて一行の目の前に、ローネン州の険しい山々が迫ってきた。目的地である蒼鉛鉱山周辺地域は、もう間もなくだ。馬車の窓から見える景色は、次第に荒涼としたものへと変わっていく。レオナールの表情にも、緊張の色が浮かび始めていた。


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