第二話:異世界での目覚め
——光。
暖かく、柔らかく、心地よい光。まるで春の陽だまりの中にいるような、全身を包み込むような感覚。死という絶対的な闇の中に、不意に差し込んだ一条の光。
(……なんだ……これは……天国、なのか……?)
意識がゆっくりと浮上してくる。だが、身体は鉛のように重く、思うように動かせない。瞼を開けようとしても、糊付けされたように固く閉じている。
(おかしい……死んだはずじゃ……。あの時、確かに俺の心臓は……)
混乱する思考。記憶は途切れたはずなのに、なぜか意識がある。そして、感じるこの温もりは、決して死後の世界の静寂ではない。生きている者の、確かな温もりだ。
微かに、音が聞こえる。優しい子守唄のような、穏やかな女性の声。そして、何か柔らかいものに包まれている感覚。微かに甘い匂い。ミルクのような……。
(状況が、全く理解できない……)
必死に瞼をこじ開けようと試みる。わずかに開いた隙間から、ぼんやりとした光景が目に飛び込んできた。
目の前にあるのは、美しい女性の顔だった。長い金色の髪、透き通るような白い肌、そして慈愛に満ちた翠色の瞳。彼女は、優しい微笑みを浮かべながら、何かを語りかけている。言葉の意味は分からない。だが、その声色と表情から、深い愛情が伝わってくる。
視線を巡らせると、そこは見慣れない部屋だった。高い天井には緻密なレリーフが施され、壁には美しいタペストリーが飾られている。窓の外には、青々とした庭園が見える。明らかに、日本の病院や家屋ではない。まるで、西洋の古い城か貴族の館のような、豪奢な空間だった。
(ここは……どこだ……? 俺は、どうなったんだ……?)
声を出そうとした。助けを求めようとした。しかし、喉から発せられたのは、意味のある言葉ではなく、「おぎゃあ」というような、か細く、力ない泣き声だった。
(なっ……!? 赤ん坊の、声……? まさか……!)
その瞬間、諭は信じられない事実に直面した。自分の身体が、異常なまでに小さいことに。手足が短く、ふくふくとしていることに。そして、自分の意志とは無関係に、泣き声を発してしまっていることに。
(嘘だろ……転生……? そんな、馬鹿な……。SFやファンタジーじゃあるまいし……)
思考を巡らせる。目の前の金髪翠眼の女性。西洋の城のような豪奢な部屋。そして、耳に届く、全く聞き覚えのない言語体系の言葉…。
(最初は、海外にでも転生したのかと考えた。だが、それだけでは説明がつかない。そもそも『転生』という現象自体が、俺の知る科学的常識を逸脱している。その非科学的な現実を受け入れるならば、この場所が、俺のいた地球上のどこかであると考える方が不自然ではないか? 転生という奇跡が起きたのなら、ここは――)
そう、結論は一つしかなかった。
中條諭は死に、そして——赤ん坊として、全く別の世界に生まれ変わったのだ。
混乱と衝撃の中で、時間だけが過ぎていった。彼は、その世界の言葉で「レオナール・ヴァルステリア」と名付けられた。周囲の人々は、彼を慈しみ、大切に育ててくれた。
金髪翠眼の美しい女性は、母親となったエレオノーラ。彼女は公爵家の令嬢で、優しく、聡明で、レオナールを深く愛してくれた。赤ん坊のレオナール(中身は31歳の諭)にとって、母親の腕の中は、前世では得られなかった安らぎを与えてくれる場所だった。
父親はアルフォンス・ヴァルステリア。この国の辺境伯であり、ヴァルステリア家の当主。厳格な雰囲気を持つが、その瞳の奥には深い愛情と知性を宿していた。彼は領地の統治に忙しい身だったが、時間を見つけてはレオナールを抱き上げ、力強い声で語りかけた。
ヴァルステリア家は、王国の東部に広大な領地を持つ、歴史ある貴族の家系だった。豊穣な大地と、近年発見された魔鉱石の鉱山によって財政は豊かで、屋敷には多くの使用人が働いていた。レオナールは、その待望の嫡男として、何不自由ない環境で育てられた。
最初の数ヶ月は、混乱と順応の繰り返しだった。言葉は、不思議なことに、聞いているうちに自然と意味が理解できるようになり、1歳を過ぎる頃には、片言ながら話せるようになっていた。
前世の記憶は、当初は靄がかかったように曖昧だったが、成長と共に徐々に鮮明になっていった。医師としての知識、経験、そして死の間際の記憶。それらが、幼いレオナールの精神の中で、現実の体験と混ざり合い、時に彼を混乱させた。
(おむつを替えられるのは屈辱だが、自分では何もできないのだから仕方ない……)
(離乳食は……味はともかく、栄養バランスは大丈夫なのか……?)
(ハイハイ……? くそ、こんな赤ん坊の動き、前世では考えられなかった……!)
中身は成人男性であるにもかかわらず、赤ん坊として扱われる日常は、奇妙で、滑稽で、そして少しばかり屈辱的でもあった。だが同時に、両親からの無償の愛、温かい家庭というものに、前世では得られなかった幸福感を感じている自分もいた。孤独だった前世とは違う、確かな繋がりがそこにはあった。
周囲の大人たちは、レオナールの成長の早さに目を見張った。言葉を覚えるのが異常に早く、物事への理解力も同年代の子供たちとは比較にならなかった。歩き始めるのも早く、すぐに屋敷の中を探検するように動き回った。その落ち着き払った態度や、時折見せる大人びた表情に、両親や乳母は「聡明な子だ」「将来が楽しみだ」と喜びながらも、どこか不思議そうな顔をすることもあった。
レオナールは、自分が「普通ではない」ことを自覚していた。前世の記憶を持つ転生者であることなど、誰にも話せるはずがない。彼は、できるだけ年齢相応の子供らしく振る舞おうと努めたが、内面から滲み出るものは隠しきれないこともあった。
特に彼が強い興味を示したのは、書斎にあった書物だった。まだ文字は読めなかったが、そこに描かれた挿絵——異世界の動植物、歴史上の出来事、そして奇妙な図形や紋様——に、彼は時間を忘れて見入った。
そして、3歳になる少し前、彼はこの世界の「常識」を揺るがす、決定的なものに出会う。
ある日、母エレオノーラが、レオナールのために温かいミルクを用意してくれた時のことだ。彼女がカップに手をかざし、何事か短い言葉を呟くと、カップの中のミルクが、ふわりと湯気を立てて温まったのだ。
(……!? いま、何が……?)
レオナールは目を丸くした。火を使ったわけでも、何か機械を使ったわけでもない。ただ、手をかざして言葉を口にしただけで、液体が加熱された。それは、彼の知る物理法則では説明できない現象だった。
「母上、今の……?」
彼は思わず尋ねた。エレオノーラはにっこりと微笑み、優しく答えた。
「なあに、レオ? これはね、『温め』の魔法よ。ミルクが冷めないように、少しだけお手伝いしてもらったの」
「まほう……?」
初めて聞く言葉だった。しかし、その言葉が意味するものが、目の前で起きた不可思議な現象と結びつき、レオナールの脳裏に衝撃を与えた。
——魔法。
それは、この世界では当たり前に存在し、使われている、未知の力。
その瞬間、レオナールの心に、新たな、そして強烈な好奇心の火が灯った。前世の科学知識では解明できない現象。それは、かつて彼が医学の未知を探求した時と同じ、あるいはそれ以上の興奮を彼に与えた。
(魔法……! なんて面白いんだ、この世界は……!)
3歳の誕生日を目前にして、レオナール・ヴァルステリア——かつての中條諭——は、この異世界が持つ最大の謎であり、最大の可能性である「魔法」という存在に、初めて明確な形で遭遇したのだった。