第十九話:未知への備え
ローネン州への出発日が近づくにつれ、レオナールの準備は最終段階に入っていた。情報収集、移動手段の手配(ベルク商会が協力してくれた)、そしてターナー教授との分析計画の打ち合わせ。やるべきことは多かったが、彼が特に重要視していたのが、未知の病原体に対する防御策と、診断精度を高めるための新たな道具の準備だった。
(原因は鉱物由来の中毒の可能性が高いと考えているが、未知の感染症である可能性を完全に否定することはできない。もし、空気感染や接触感染するような病原体だったら……? 自分自身や、同行するギルバート、そして彼らを王都へ運び、また王都へ連れ帰るであろう者たちへの感染リスクを最小限に抑えなければならない)
彼は、前世の医師としての経験から、個人用防護具(PPE: Personal Protective Equipment)の重要性を痛感していた。マスク、手袋、ガウン、そして眼の保護具。これらを装備することで、飛沫や接触による感染リスクを大幅に減らすことができる。
問題は、この世界でそれらをどうやって調達するか、だった。前世のような高性能な医療用マスクや、使い捨てのゴム手袋、防水性のガウンなどは存在しない。
「トーマス、相談があるんだが」レオナールは、再び友人の力を借りることにした。
「今度の調査では、未知の病気に感染する可能性も考えて、できる限りの対策を講じたい。そこで、こういうものを用意できないだろうか?」
彼は、ベルク紙にPPEの簡単なスケッチを描きながら説明した。口と鼻を覆う、目の細かい布製のマスク。手全体を覆い、できれば液体を通しにくい素材(なめし革か、あるいは特殊な樹脂加工を施した布?)で作られた手袋。身体全体を覆う、洗いやすい布製のガウン。そして、眼を保護するための、透明な水晶かガラスで作られたゴーグル。
「なるほど……。確かに、原因不明の病と接触する可能性があるなら、これくらいの備えは必要かもしれませんね」トーマスは真剣な顔で頷いた。「素材については、いくつか心当たりがあります。マスクやガウン用の目の細かい布地、手袋用の薄くて丈夫な革、ゴーグル用の透明度の高い水晶板……。我が商会の取引先を当たってみましょう。数が必要でしょうから、多少時間はかかるかもしれませんが、出発までには何とか揃えてみせます!」
トーマスは、商会のネットワークを駆使して、レオナールの要求に応えるべく奔走してくれることになった。
そしてもう一つ、レオナールがどうしても準備しておきたいものがあった。それは、安全な採血を行うための器具だった。
(患者の状態を正確に把握するには、血液検査が不可欠だ。体液中の毒物濃度を測ったり、あるいは未知の病原体や、それに対する免疫反応の有無を調べたりする上で、血液サンプルは非常に重要な情報源となる。だが……)
この世界には、前世のような滅菌済みの注射針や、血液を吸引・保存するためのシリンジ(注射筒)が存在しない。簡単な瀉血に使われるナイフや、あるいは粗末な金属製の針のようなものはあるかもしれないが、それらは不潔で、患者に無用な苦痛と感染リスクを与えるだけだ。
(……作るしかないか)
幸い、彼には魔道具工房で得た知識の断片と、自身の魔法技術、そしてターナー教授の研究室という環境があった。彼は、安全かつ効率的な採血を実現するための、「魔法滅菌注射針」と「ガラス製シリンジ」の試作に取り掛かった。
まずは針。切れ味が良く、組織へのダメージが少なく、かつ滅菌処理に耐えられ、錆びにくい、十分な硬さを持つ金属が必要だ。彼は、物質の専門家であるターナー教授に相談を持ち掛けた。
「先生、採血に使うための、非常に細くて鋭い針を作りたいのですが、何か適した金属素材はありませんでしょうか? 丈夫で、錆びにくく、熱や魔法による滅菌にも耐えられるものが理想です」
「ふむ、採血針か……」教授は顎髭を捻りながら、研究室の棚に並んだ様々な金属素材のインゴットや棒材に目を向けた。「条件に合うものとなると、いくつか候補はあるな。例えば、この硬質鋼合金。鉄に特定の鉱石を混ぜて打ち延ばしたもので、かなりの硬度がある。あるいは、こちらの耐食青銅。銅に錫と、さらに別の希少金属を少量加えたもので、錆びには滅法強い。ただ、鋼ほど硬くはないかもしれん。あとは……儂が実験用に配合した未知の合金もいくつかあるが、性質が安定しているかどうか……」
レオナールは、教授の助言をもとに、いくつかの合金サンプルを少量分けてもらい、その特性を試してみることにした。魔法を使って小さな針の形に加工してみる。硬質鋼は硬いが、細く尖らせる加工が難しく、無理な力を加えると折れやすい。耐食青銅は加工しやすいが、鋭さを維持するのがやや難しい。
最終的に、彼は特殊な配合の鋼合金(硬さと粘り強さのバランスが良いもの)を選び出した。そして、魔法加工(微細な溶解と冷却、精密な研磨)によって、その合金から極細の中空針を作り出すことに成功した。針先は、自作の簡易顕微鏡で見ながら、魔法で分子レベルに近い精度で鋭く磨き上げた。これならば、皮膚への刺入抵抗も最小限に抑えられるはずだ。
次にシリンジ。血液を正確な量だけ衛生的に吸引し、一時的に保持するための容器が必要だ。彼は、ガラス器具の扱いに長けた職人(ベルク商会を通じて紹介してもらった)に依頼し、円筒形のガラス管と、それにぴったりとはまるガラス製の押し子を作ってもらった。気密性を高めるため、押し子の先端には、弾力性のある魔獣の革を薄く加工して巻き付けた。ガラスは透明なので、吸引した血液の量や状態を確認できる。
最後に、最も重要な滅菌。彼は、完成した鋼合金の針とガラス製シリンジを、密閉可能な金属製の容器に入れ、その内部を高熱の蒸気(水を魔法で急速加熱して発生させる)で満たし、一定時間維持するという、前世のオートクレーブ(高圧蒸気滅菌器)に近い原理の滅菌法を考案し、実践した。これも、ターナー教授の助言(密閉容器の材質や、均一な加熱のための魔力制御など)があってこそ可能になった。
数日間の試行錯誤の末、レオナールはついに、数セットの「滅菌済み注射針付きガラス製シリンジ」を完成させた。それは、この世界の医療レベルを考えれば、画期的な道具と言えただろう。
トーマスが手配してくれたPPE一式も、出発の前日には無事届けられた。マスク、革手袋、布製ガウン、水晶ゴーグル。完璧とは言えないまでも、これがあるのとないのとでは、安心感が全く違う。
これで、現地調査に必要な最低限の準備は整った。未知の奇病、限られた時間、不確かな情報……。多くの困難が予想されたが、レオナールの手元には、前世の知識、異世界の魔法、そして新たに創り出した分析技術と医療器具があった。
(やるだけのことはやった。あとは、現地で何を見つけられるかだ……)
彼は、旅立ちの支度を終えた鞄を傍らに置き、窓の外に広がる夜の王都を見つめた。遠き地で助けを待つ人々を思い、彼の心には、医師としての使命感と、未知への探求心が、静かに、しかし強く燃え続けていた。