第十七話:決意の天秤
ローネン州で発生している奇病に関する情報は、ギルバートやトーマスを通じて、断片的ではあるがレオナールの元へと集まりつつあった。蒼鉛鉱山周辺の村々を襲う、神経症状と特徴的な皮膚の色素沈着を伴う原因不明の病。死者は増え続け、王国の調査団も有効な手立てを見いだせずにいるという。
集めた情報を分析すればするほど、レオナールの疑念——鉱物由来の毒性物質による集団中毒——は深まっていった。感染症にしては地域的な偏りが大きく、症状も典型的ではない。環境由来の要因を考えなければ、真の原因にはたどり着けないだろう。そして、原因を特定し対策を講じるためには、現地での詳細な調査が不可欠だと彼は結論付けた。
(文献や伝聞だけでは限界がある。現地の空気、水、土壌、そして可能ならば患者自身の検体……それらを直接分析しなければ、原因物質を特定することはできない。そして、原因が分からなければ、人々を救うことも、これ以上の被害を防ぐこともできない)
しかし、現地調査へ赴くには、大きな障壁があった。彼はまだ王立学院の一学生であり、長期にわたって学院を離れることは、学業の面でも、貴族の身分としても、通常なら許されることではない。そして何より、彼の研究活動の拠点であり、最大の理解者でもあるターナー教授の許可を得る必要があった。
意を決したレオナールは、ある日の研究室での作業後、後片付けをするターナー教授に声をかけた。
「先生、少し重要なお話があります。お時間をいただけますでしょうか?」
普段とは違う真剣なレオナールの口調に、教授は訝しげな顔をしながらも、「……なんだね、改まって」と手を止めた。
レオナールは、まず収集したローネン州の奇病に関する情報を、整理したベルク紙を示しながら、簡潔かつ客観的に説明した。症状の特異性、流行の地域性、死者の増加、そして調査団の難航。
「……以上の状況から、先生。私はこの奇病の原因が、感染症ではなく、蒼鉛鉱山周辺の環境に由来する、何らかの未知の毒性物質による集団中毒である可能性が高いと考えています」
「ほう……中毒、とな?」教授は眉をひそめた。「確かに、症状だけ聞けば、鉱物由来の毒物の可能性も考えられなくはないが……」
「はい。そして、もしそうだとすれば、既存の薬師や神官のアプローチでは原因究明は困難です。必要なのは、環境サンプルの採取と、我々が進めているような化学的な分析による原因物質の特定、そして曝露経路の遮断という、公衆衛生的な対策です」
レオナールは、自らの仮説とその根拠を、冷静に、しかし熱意を込めて述べた。
そして、本題を切り出した。
「つきましては、先生。私は、この奇病の原因を究明し、可能な限りの対策を講じるため、ローネン州の現地へ赴き、調査を行いたいと考えております」
「……なに? 現地へ、だと?」ターナー教授は驚きに目を見開いた。「正気かね、レオナール君! 流行地域は危険かもしれんのだぞ? それに、君はまだ学生だ。そのような危険な場所に、しかも長期間学院を離れて行くなど、儂が許可できるとでも?」
教授の反応は、予想通り厳しいものだった。
「危険については、父に連絡を取り、護衛をつけるなど、万全の対策を講じるつもりです。それに、これは単なる人助けというだけではありません」レオナールは続けた。「もし、私の仮説通り、未知の鉱物や物質が原因だとしたら? それを特定し、その性質を解明することは、我々が進めている物質の根源を探る研究にとっても、極めて貴重なデータと知見をもたらすはずです。まさに、理論を実践で検証する、またとない機会となりえます」
彼は、この調査が学術的にも大きな意義を持つことを強調した。
「さらに言えば、この調査では、開発中のクロマトグラフィーを実地で試す絶好の機会にもなります。現地の水や土壌サンプルを分析し、原因物質の特定に繋がるかもしれません」
「むぅ……」ターナー教授は腕を組み、唸った。レオナールの言葉には、確かに一理も二理もある。未知の物質、新たな分析技術の実践……研究者としての好奇心が、疼かないわけがない。だが、同時に、まだ若い弟子(のような存在)を危険な場所へ送り出すことへの躊躇いもあった。
「しかしだな、学院の授業はどうするのだ? 長期間休めば、単位を落とし、進級にも響くかもしれんぞ。君はヴァルステリア家の跡継ぎでもあるのだろう? 学業を疎かにすることは許されんだろう」
「学業については、ご心配なく。事前に各科目の教授に事情を説明し、課題やレポートの提出、あるいは帰還後の補講などで対応できるよう、最大限努力します。それに、先生。正直に申し上げて、今の私にとって、教室で受ける講義よりも、この奇病の原因を突き止めることの方が、遥かに重要で、学ぶべきことが多いと考えております。多くの人命がかかっているのですから」
レオナールの瞳には、強い決意が宿っていた。それは、単なる好奇心や功名心ではない、医師としての、そして人としての使命感から来る光だった。
ターナー教授は、レオナールのその真っ直ぐな目を見つめ、しばらく黙り込んだ。そして、大きくため息をつくと、やや呆れたような、しかしどこか覚悟を決めたような口調で言った。
「……やれやれ。君という奴は……。一度言い出したら聞かん性格なのは、分かっていたつもりだが……。そこまで言うのなら、儂が止めても無駄だろうな」
彼は、厳しい表情で付け加えた。「ただし、条件がある。第一に、必ず生きて帰ってくること。無茶は絶対に許さん。第二に、調査の経過と結果は、詳細な報告書として儂に提出すること。特に、採取したサンプルは最優先でこの研究室で分析させてもらうぞ。そして第三に——」
教授は、レオナールの目を真っ直ぐに見据えた。
「学院の学業も疎かにしないこと。ふん、君のことだ、自習でどうとでもするつもりなのだろうが、単位を落として留年などということになれば、儂の顔にも泥を塗ることになる。行くというのなら、まずは学業に支障が出ないよう、君自身で各教科の先生方への説明と調整を全て済ませることだ。レポートなり補講なり、必要な手筈を整え、その上で正式な欠席届が受理されるというのなら、儂は反対せん。それができないうちは、この研究室から一歩も出すわけにはいかん。分かったな?」
それは、単なる許可ではなく、明確な課題の提示だった。レオナールは、教授の厳しさの中に、彼なりの配慮と期待を感じ取った。
「はい、先生……! 必ず、全ての手続きを済ませてみせます!」レオナールは、驚きと感謝、そして新たな課題への決意を込めて、力強く頷いた。
「期待などしておらんわ」教授はぶっきらぼうに言い放ったが、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。「とにかく、準備を怠るな。必要な分析器具や試薬があれば、今のうちに準備しておくことだ。向こうで手に入るとは限らんからな」
こうして、レオナールは現地調査へ向かうための最大の関門の一つを突破した。師であるターナー教授の理解と(厳格な条件付きではあるが)協力を得られたことは、彼にとって何よりも心強かった。しかし同時に、学院の各教授への説明と調整という、現実的なハードルも課せられた。
彼の決意は固まった。未知の病に苦しむ人々を救うため、そして世界の真理に一歩でも近づくため、彼は学業面の課題をクリアし、王都を離れ、危険が潜むかもしれない辺境の地へと、その足を踏み出す準備を本格的に開始するのだった。