第百六十八話:審問
ある日の午後。
レオナールの研究個室に、いつになく強張った表情のギルバートが入室してきた。その手には、豪奢な装飾が施された、しかしどこか冷ややかな威圧感を放つ一通の書状が握られている。
「レオナール様、王都大教会より、至急の書状でございます。差出人は……教理聖省、異端審問官バルトロメオ枢機卿となっております」
「教理聖省……?」
レオナールは作業の手を止め、眉をひそめた。それは、普段マルクスを通じてやり取りしているシュトラッサーの所属する慈愛に満ちた部署ではない。教会の教義を守護し、逸脱した者を正す、教団内でも最も厳格で恐れられる「教義の番人」たちだ。
封を切ると、そこには簡潔かつ重々しい筆致で、こう記されていた。
『ヴァルステリア公子レオナール殿。貴殿が北東辺境領アンブロワーズにて行ったとされる「生きた母体への開腹」に関し、教義上の重大な疑義が生じている。明日正午、大聖堂内「真理の間」への出頭を命ずる』
「……来たか」
レオナールは静かに書状を机に置いた。アンブロワーズでの帝王切開。母子ともに救うための決断だったが、結果として母親は術後感染で亡くなり、赤子だけが残った。この「腹を切る」という行為自体が、保守的な中央の教会にとってどれほどの忌避感を持たれるか、覚悟はしていたつもりだった。
その日の夜、人目を忍ぶようにしてシュトラッサーが、そしてファビアンがレオナールの個室を訪れた。
「申し訳ない、レオナール公子。私が報告を調整していたのですが……」
シュトラッサーは苦渋の表情を浮かべた。
「アンブロワーズでの一件が、保守派の耳に入ってしまいました。『人の身でありながら、神が創りたもうた完全なる器に刃を入れ、その理を歪めたのではないか』と。特に、母体が亡くなられた事実を重く見ています」
「想定の範囲内です」
レオナールは冷静に答えた。「むしろ、今まで黙認されていたことの方が幸運だったのかもしれません」
腕を組んで壁に寄りかかっていたファビアンが、低い声で口を開いた。
「裏で手は回しておいた。国王陛下より賜った勅許奏聞権に基づく研究の一環であること、そして君が王国の将来にとって不可欠な人材であることは、枢機卿たちにも伝わっている。明日の呼び出しは、即座に断罪するためのものではない」
ファビアンは鋭い視線をレオナールに向けた。
「これは『値踏み』だ。彼らは君を直接見て、話して、判断したいのだよ。君が神の理に反する危険思想の持ち主なのか、それとも王国の益となる理知的な探求者なのかをな」
「……なるほど。半分は儀式、もう半分は試験というわけですか」
「ああ。だが油断するな。彼らの心証を損ねれば、あるいは君の回答に『傲慢』が透けて見えれば、彼らは躊躇なく君を切り捨てるだろう。教会の本部は国外にある。王家の意向といえども、教義の根幹に関わる部分では絶対ではない」
「肝に銘じます」
レオナールは力強く頷いた。
逃げも隠れもしない。自身の医療に対する信念を、真正面から伝えるだけだ。
翌日、正午。
王都大聖堂の奥深く、「真理の間」。
高い天井から差し込むステンドグラスの光だけが照らす薄暗い空間に、数名の高位聖職者が長テーブルの向こうに座していた。中央には、教理聖省を統括するバルトロメオ枢機卿。深く刻まれた皺と、全てを見透かすような冷徹な灰色の瞳を持つ老人だ。
レオナールの背後には、立会人としてファビアンとシュトラッサーが控えているが、発言権はない。レオナールはただ一人、審問席に立った。
「レオナール・ヴァルステリア。貴殿がアンブロワーズにて行った所業について、釈明を聞こう」
枢機卿の声が、石造りの壁に反響する。
「報告によれば、貴殿は臨月の婦人の腹を刃物で切り裂き、赤子を取り出したという。それは、神の与えた産みの苦しみを拒絶し、人の手で生命の理を操ろうとする冒涜ではないか?」
「いいえ、枢機卿猊下。それは冒涜ではありません」
レオナールは、静かに、しかしよく通る声で答えた。
「あれは、消えゆく二つの命を前にして、……癒し手として、残された唯一の『救済』の手段でした。母と子、共倒れとなる運命を座して待つことこそが神の御心でしょうか。それとも、泥にまみれてでも、その手に残された命を救い上げることこそが、神の与えたもうた知恵の使い方でしょうか」
「詭弁だな」枢機卿は表情を変えずに言った。「現に、母親は死んだ。貴殿が腹を開いたことによって、その命を縮めたのではないかという疑念は晴れぬ」
「……悔しいことですが、母上を救えなかったのは事実です」
レオナールは視線を逸らさなかった。ここで言い訳をすれば、彼らの不信を買う。
「その死因は手術そのものではありません。むしろ手術は彼女の延命に寄与したものと考えております。しかし、術後に忍び寄った『感染症』……目に見えぬ微小な毒が、傷口から入り込み、彼女を蝕んだのです。私の刃が彼女を殺したのではなく、私の『守る力』が足りなかったのです」
「守る力、だと?」
「はい。私は今、その『見えざる敵』と戦うための研究をしています。二度と、同じ悲劇を繰り返さないために」
レオナールは、言葉に熱を込めた。自分が開発中の縫合糸や、カビの話はまだ伏せた。理解の範疇を超える技術は、今はまだ「異端」の証拠になりかねない。まずは、自身の「動機」が純粋な慈愛と探求心にあることを示さなければならない。
「私は、神の摂理に逆らおうとしているのではありません。病という試練に対し、人が人として持ちうる知恵と技術で抗い、一つでも多くの命を救いたい。それだけが、私の望みです」
長い沈黙が流れた。
バルトロメオ枢機卿は、レオナールの瞳をじっと覗き込んでいた。その若者の目に、狂気や傲慢さが宿っていないか。己の欲望のために技術を弄ぶ「魔道」の気配がないか。
やがて、枢機卿はふぅ、と短く息をついた。
「……ファビアン殿が肩入れする理由も、分からんでもない。貴殿の言葉に、嘘の響きはないようだ」
張り詰めていた空気が、わずかに緩んだ。
「だが、教会として、貴殿の行う『外科』なるものを公に認めるわけにはいかん。人の体に刃を入れる行為は、依然として多くの民にとって恐怖と忌避の対象であり、教義との整合性も慎重に検討せねばならん」
それは、事実上の「現状維持」……いや、一歩進んだ「黙認」の宣言だった。
「レオナール・ヴァルステリア。貴殿の研究を、現時点では異端とは認定しない。監視付きではあるが、継続を認めよう」
「ありがとうございます、猊下」
「ただし」
枢機卿の声が、再び鋭さを帯びた。
「結果を示せ。貴殿が言う『守る力』とやらが、口先だけの絵空事ではないことを」
「……はい。必ずや、証明してみせます」
レオナールは深く頭を下げた。
これは勝利ではない。猶予を与えられたに過ぎない。
だが、これで首の皮一枚繋がった。
審問室を出ると、回廊の冷たい風が火照った頬を撫でた。
ファビアンが並び立ち、小声で囁く。
「上出来だ。彼らに『期待』を持たせることには成功したようだな」
「ええ……。ですが、宿題は重くなりました」
レオナールは自身の掌を見つめた。
教会を、そしてこの世界を納得させるには、言葉だけでは足りない。圧倒的な「結果」が必要だ。エレナの時は救えなかった命を、次は確実に救い上げるための力が。
「帰りましょう、ファビアン殿。私には、作らなければならないものが山ほどあります」
レオナールの脳裏には、すでに実験室で待つ「ガット弦」と「アオカビ」の姿があった。




