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血液内科医、異世界転生する  作者:
抗菌薬の光
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第百六十五話:白き酸の脆弱性

アオカビの培養上清という混沌のスープから、ただ一つの有効成分を単離するため、レオナール、マルクス、そしてクラウスの三人は、昼夜の別なく精製作業に没頭していた。


「レオナール様、第5次カラム精製のTLC結果です」

クラウスが、硫酸焼成を終えたばかりのプレートを、ピンセットで慎重に掲げる。プレート上には、無数の不純物が描いていた複雑なスポット群はほぼ消え失せ、バイオオートグラフィーで確認された活性画分と完全に一致する位置に、ただ一つの濃厚な黒褐色のスポットだけが、その存在を主張していた。

「素晴らしい…!」マルクスも、その完璧な分離結果に感嘆の声を漏らす。

「これほどの純度とは。我々の固定相も、ついにここまで…」

「ええ」レオナールも、その結果に満足げに頷いた。「不純物は、ほぼ取り除けたと見ていいでしょう。次のステップに移ります。…結晶化です」


レオナールは、最後のカラムクロマトグラフィーで得られた、目的の物質(彼が『ペニシリン』と仮称し始めた物質)が濃縮されているはずの、無色透明な活性画分を集めたフラスコを手に取った。

「まずは、この移動相として使っている有機溶媒を完全に除去します」


彼はフラスコに手をかざし、意識を集中させる。彼の魔力に呼応し、《精密乾燥》の魔法が発動した。溶媒は、熱による変質を一切伴うことなく、急速に、しかし穏やかに気化していく。

やがて、液体が完全に失われたフラスコの底には、研究チームの誰もが期待していた光景が広がっていた。純白の、アモルファス(無定形)な固形物が、薄く析出していたのだ。


「おお…!これが、あの青きカビが産み出した力の結晶…!」

マルクスが感嘆の声を上げる。レオナールは、その白い固形物を薬さじで慎重に掻き出し、小さなガラス皿に移した。


「次に、この物質の基本的な性質を調べます」 レオナールは、まず滅菌水を数滴垂らしてみた。だが、白い固形物は水を弾き、溶けようとしない。次に、クラウスが用意した高純度のアルコールを垂らすと、今度はすんなりと溶けていった。


「やはり…水には溶けず、有機溶媒には溶ける。脂溶性の物質ですね」

レオナールは、即座に結論付けた。

「ですが、これでは困りましたな」マルクスが懸念を口にした。「注射剤として人体に安全に投与するには、水に溶ける性質の方が遥かに望ましい。脂溶性のままでは、使い勝手が悪すぎます」

「ええ、その通りです」レオナールも頷いた。

「ですが、解決策はあります。アヘンの時と、同じことをすればいい」


彼の脳裏には、塩基性アルカロイドに酸を加えて水溶性の「塩酸塩」にした、あの成功体験が鮮明に浮かんでいた。

「この白い固形物が、酸性なのか塩基性なのかを、まず確かめましょう」


彼は、固形物を二つに分け、それぞれにターナー教授が精製した希硫酸と、水酸化ナトリウムの水溶液を、ごく少量ずつ滴下した。

結果は明白だった。酸を垂らした方は何の変化もない。だが、塩基を垂らした方は、白い固形物がしゅわりと泡立つように、あっという間に溶けて透明な液体になったのだ。


「…塩基で溶ける。つまり、この固形物そのものが『酸性』の性質を持っている、ということですね」

レオナールは、前世の記憶の断片と目の前の現象が一致していくことに、確かな手応えを感じていた。

「ならば、話は早い。この酸性の物質に、適切な塩基を反応させれば、水に溶けやすい『えん』を作ることができるはずです」


彼は、塩基(水酸化ナトリウム水溶液)で溶かした溶液を、再び石英ガラスの皿に移すと、慎重に《精密乾燥》の魔法を発動させた。水分だけが穏やかに蒸発し、皿の底には、先ほどとは似て非なる、新たな白い固形物が析出した。


「これが、『ペニシリン』のナトリウム塩…」

レオナールは、その新しい白い粉末を少量取り、滅菌水に落とした。彼の予測通り、粉末は今度こそ、すんなりと水に溶け、無色透明の水溶液となった。


「やりましたな、レオナール様!」

「これで、注射剤としての道が大きく開けました!」

マルクスとクラウスが、興奮したように声を上げた。レオナールも、この化学的な推論が完璧に実証されたことに、深い満足感を覚えていた。


「ええ。ですが、最後の確認が残っています」


レオナールは、その水溶液を染み込ませたベルク紙の円盤を、マルクスが準備していたグラム陽性球菌の寒天培地の上に、そっと置いた。無菌性試験と同時に、これが最も重要な活性試験となる。精製と化学処理を経てもなお、その力は失われていないはずだ。 培養器にシャーレが入れられ、三人は期待を胸に、結果が出る翌日まで待つことにした。


翌朝。

レオナールは、誰よりも早く分析室に足を踏み入れ、培養器の扉を開けた。

「……そんな」

シャーレを取り出した彼の口から、信じられないといった声が漏れた。そこにあるはずの光景が、なかったのだ。

ディスクの周囲には、あるべきはずの鮮やかな「阻止円」が、影も形もなかった。細菌は、ディスクのすぐ際まで、何事もなかったかのようにびっしりと生え揃っている。

抗菌活性は、完全に「失活」していた。


「馬鹿な…!精製過程で何かを間違えたのか?いや、TLCでの追跡は完璧だったはずだ。だとすれば、あの化学処理か…?」


駆けつけてきたマルクスとクラウスも、その結果に言葉を失った。

レオナールは、シャーレを握りしめたまま、必死で思考を巡らせる。塩基で溶かし、塩を作る。化学的には何一つ間違っていないはずだ。モルヒネでは成功した。なぜ、ペニシリンではダメだったのか?


(…待てよ。ペニシリン…。あの薬は確か、酸に弱く、胃酸で分解されるから、経口投与できるものが限られていたはずだ。だから注射でしか使えなかった…)

その記憶が、一つの仮説を導き出した。


(酸に弱い。その理由は、おそらく構造そのものの不安定さにある。特に、抗菌活性の本体である『β-ラクタム環』と呼ばれる構造は、極めて壊れやすいと聞いたことがある。もし、その環が、酸性条件下だけでなく、強塩基性の条件下でも、同様に…あるいはそれ以上に容易に開環し、分解してしまうとしたら…?)


彼は、自らが行った化学処理を思い返した。強塩基である水酸化ナトリウム水溶液で溶かし、塩を作った。その操作そのものが、薬効の本体である不安定な構造を、不可逆的に破壊してしまったのではないか。


「……pHの変化、か」

レオナールは、自らの知識の応用が、逆にアダとなった可能性に気づき、唇を噛み締めた。モルヒネという安定したアルカロイドと同じやり方が、この青カビが生み出す、デリケートな奇跡の物質には通用しなかったのだ。


(どうすればいい?水に溶けやすい形にしなければ、注射剤として使えない。だが、安易な化学処理は活性を失わせる…)

アオカビの精製は、成功したかに見えて、その実、最も困難な「製剤化」という壁に真正面からぶつかった。


(だが、諦めるわけにはいかない)

レオナールは、顔を上げた。その目には、失敗から学ぶ科学者の光が宿っていた。


(モルヒネのような安定した物質とは違う。この『ペニシリン』は、極めてpHの変化に敏感な、脆い物質なのだ。ならば、強塩基ではなく、もっと穏やかな塩基…例えば炭酸水素ナトリウムのような弱塩基を使って、中性に近いpH領域で慎重に塩を形成させることはできないか?あるいは、温度管理を徹底し、反応時間を最小限に抑えることで、分解を防げるかもしれない)


基本方針は変わらない。脂溶性の酸であるこの物質を、水溶性の塩として精製する。だが、そのための「化学処理の条件」――用いる塩基の種類、濃度、反応させるpH、温度、時間――それら全てのパラメータを、活性を失わない最適解が見つかるまで、一つ一つ地道に検討していく必要がある。


純粋な『一』を手に入れる道は、彼が想像していた以上に、遥かに険しく、そして繊細な技術を要求するものだった。

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