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血液内科医、異世界転生する  作者:
抗菌薬の光
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第百六十二話:縫合糸の原型

ここ数週間は致死的な感染症モデルを用いた動物実験が昼夜を問わず続けられていた。生と死の天秤を目の当たりにするその作業は、精神的にも肉体的にも極めてハードなものだった。アオカビ由来物質の劇的な薬効証明という光明と、放線菌由来物質の予期せぬ沈黙という壁。


その目まぐるしい展開は、レオナールだけでなく、彼の元に集ったマルクスやクラウスといった仲間たちをも、心身ともに消耗させていた。アオカビ由来物質の精製という、次なる大きな壁に挑む前夜。レオナールは、積み上がった実験データを前に、ふと窓の外に広がる王都の穏やかな夜景を見つめた。


「…皆さん、少しよろしいでしょうか」


分析室で最後の片付けをしていたマルクスとクラウスが、レオナールの静かな声に顔を上げた。


「皆さんの献身的な努力のおかげで、我々の研究は大きな一歩を踏み出すことができました。アオカビという確かな希望の光が見え、次なるステップである精製への道筋も立ちつつあります。ですが、走り続けるだけでは、良い研究はできません」


彼の声には、リーダーとしての配慮と、彼自身の実感が込められていた。彼自身、心身の疲労が蓄積しているのを自覚していた。


「明日は、学院の安息日でもあります。ここは一旦、実験を全て休み、チーム全体で休日としましょう。マルクスさんもクラウスさんも、どうかゆっくりと休んで、英気を養ってください」


「し、しかしレオナール様、我々は…」クラウスが実直な顔で何か言いかけたが、レオナールは穏やかにそれを制した。


「これも、次のステップへ進むための重要な準備です。よろしくお願いします」


彼の言葉に、二人は顔を見合わせ、やがて安堵と感謝の表情で深く頷いた。


レオナールは、隣の研究個室で相変わらず膨大な計算に没頭しているであろう、もう一人の仲間のことも忘れなかった。扉を軽くノックし、数式が描かれたベルク紙の海から顔を上げたノヴァ・ノーマンに声をかける。


「ノヴァ君、明日は研究室全体で休日にする。君も、たまには計算から離れて、頭を休めるんだよ」


「…やすみ…ですか」ノヴァは、その言葉の意味を理解するのに数秒かかったかのように瞬きしたが、やがて小さく頷いた。


レオナールは久々に、研究以外のことを考える時間ができたことに、わずかな解放感を覚えていた。


翌朝。レオナールは、いつもより少しだけ遅く目を覚ました。窓から差し込む春の日差しが、心地よい。


「ギルバート、今日は久しぶりに街へ出ようと思う。少し、息抜きがしたい」


「かしこまりました、レオナール様。どちらへ?」


「特に目的はないんだ。ただ、王都の空気を吸いたくてね。市場の方へ行ってみようか。何か目新しいものがあるかもしれない」


「承知いたしました。では、少し目立たない服装をご用意します」


ギルバートが手配した、上質だが華美ではない平服に着替えたレオナールは、忠実な従者だけを伴い、王都の喧騒へと足を踏み入れた。


初夏の市場は、溜め込んでいたエネルギーを発散させるかのように、活気に満ち溢れていた。行き交う人々の声、荷馬車が石畳を転がる音、様々な品物を売り込む威勢の良い呼び声。遠方から運ばれてきたであろう香辛料の刺激的な香り、焼きたてのパンの香ばしい匂い、そして川魚の生臭さ。その全てが混じり合い、生きているという実感そのものを形作っているようだった。レオナールは、その生命力に満ちた空気を深く吸い込み、研究室に籠りきりだった頭がリフレッシュされていくのを感じた。


二人は、まずは大衆向けの食堂に入り、簡単な昼食をとった。焼きたての黒パンと、野菜と豆を煮込んだ素朴なスープ、そして新鮮なハーブを添えた白身魚のグリル。貴族の食卓や、宮廷での饗宴とは比べ物にならないが、労働の合間に人々が掻き込むその食事には、生きるための確かな温かみと力強さがあった。


食事を終え、再び市場を散策する。薬草を扱う店、鍛冶屋が打った日用品を並べる店、異国の織物を広げる店…。彼の目は、無意識のうちに、自らの研究に繋がる何かを探していたのかもしれない。アンブロワーズで見た東洋風の品々のような、文化の痕跡を探す視線で。


「レオナール様、あちらは珍しい品を扱っているようですな」


ギルバートが指差したのは、古物商のようでもあり、異国の雑貨屋のようでもある、雑多な品々を並べた一軒の露店だった。壁には、色褪せたタペストリーや、獣の角、そしていくつかの見慣れない形状の弦楽器が、埃をかぶったまま無造作に吊るされている。


その中の一つに、レオナールの足が止まった。


ひょうたんを二つ繋げたような、滑らかなくびれを持つ木製の胴体。長く伸びた(さお)には、金属製のフレットが打ち込まれている。そのフォルムは、彼の失われた記憶の、ある断片を強く刺激した。


(…ギター、か?)


前世の記憶が、不意に蘇る。中條諭として生きていた大学時代。医学部の勉強自体も過酷だったが、部活動もハードな体育会系のものが多く、とても参加する余裕はなかった。何か新しい趣味でも見つけようかと、息抜きと称して少しだけアコースティックギターに触れたことがあった。結局、すぐに医学部の過酷な勉強に追われるようになり、ギターはほとんど触れられないまま部屋の置物と化してしまった、ほろ苦い記憶だ。すっかり忘れていたはずの、遠い日の思い出だった。


「ご店主。その楽器を、少し見せていただいても?」


露店の奥から出てきたのは、人の良さそうな、しかし抜け目のない目をした中年の男だった。彼は壁に吊るされた楽器を見上げ、少し面倒くさそうにそれを手に取った。


「へい、旦那。お目が高い。そいつは、遥か西方の国から渡ってきた、珍しいもんでさあ。なんでも、爪弾いて歌を歌うための道具だそうですがね。生憎、この国じゃあ、こいつの弾き方を知ってる者も、壊れた時に直せる職人もいやしねえ。まあ、物好きな旦那への飾り物、美術品として考えてくだせえ」


「構いません。少し、手に取っても?」


「どうぞ、どうぞ」


許可を得て、レオナールはその楽器を手に取った。ギターにしては少し小ぶりで、胴体も薄い。どちらかといえば、ウクレレを大きくしたようなサイズ感だ。弦は四本だけ張られている。木材の継ぎ目や、表面のニス仕上げは、やや雑だが、楽器としての基本的な構造はしっかりと保たれているようだった。


彼は、棹に打ち込まれたフレットを指で数えた。1、2、3…17本。そして、指板の12番目のフレットの位置に、小さな貝殻の装飾が埋め込まれている。彼は、試しに一番太い弦の12フレットを押さえ、その弦を爪弾いた。ポロン、と少し間の抜けた音が鳴る。次に、何も押さえずに開放弦を鳴らす。ポロン。

調弦はめちゃくちゃだったが、二つの音の高さの関係を、彼の耳は正確に捉えていた。


(…12フレットで、1オクターブ。基本的な構造は、前世のギターやウクレレと全く同じだ。ドレミファソラシド…。音楽の法則もまた、この世界と前世とで、普遍のものなのか…)


アンブロワーズで見た東洋風の工芸品と同じ、文化の普遍性。その事実に、彼は改めて世界の広さと不思議さを感じていた。彼は、調弦が狂っているのも構わず、四本の弦を軽く爪弾いた。ポロン、ポロン…。前世で覚えた簡単なコードの形を、指が思い出そうとする。ぎこちない指使いで弦を押さえ、かき鳴らす。もちろん、調和のとれた和音にはならなかったが、その乾いた、しかし温かみのある素朴な音が、彼のささくれだった心をわずかに癒やしてくれるようだった。


その時、弦に触れた指先の感触が、彼の意識を別の方向へと強く引きつけた。


(この弦は…)


弦は、やや白濁した、半透明の素材でできていた。指で弾くと、しなやかな弾力がある。その質感、その見た目。


(…ナイロンだ。いや、この世界にナイロンのような石油化学製品があるはずはない。だが、この感触…表面が滑らかで、繊維が撚り合わさっていない、一本の糸…モノフィラメントだ!)


レオナールの脳裏に、アンブロワーズでの帝王切開の記憶が鮮烈に蘇る。エレナの死。その原因となった、膣断端の縫合糸感染。ヴァレリーと共に行った解剖で確認した、絹糸に形成されたバイオフィルム。複数の繊維を撚り合わせた編糸は、その微細な繊維の隙間が細菌の絶好の住処となり、難攻不落の城を築く足場となってしまった。


(だが、これなら…! このモノフィラメント構造なら、細菌が隠れる隙間がない。表面が滑らかだから、組織を通過する時の抵抗も少ないはずだ。もし、この素材が体内で安全に使えるものならば、俺が求めていた理想の縫合糸じゃないか!)


アンブロワーズで直面した「抗菌薬」「輸血」と並ぶ、三つ目の大きな課題、「縫合糸の開発」。その答えのヒントが、こんな王都の片隅の、楽器の弦という思わぬ形で見つかったのだ。


「ご店主! この弦の素材は、一体何だかお分かりですか?」


レオナールは、興奮を抑えきれずに尋ねた。だが、店主は「さあねえ」と肩をすくめるだけだった。


「西方の国じゃあ、なんか特別な獣の腱でも使ってるのかもしれやせんが、こちとらサッパリで。だからこその、美術品扱いでさあ」


失望がレオナールの顔を覆いかけた、その時。傍らで静かに控えていたギルバートが、そっと口を開いた。彼は、レオナールが楽器を手に取った時から、その弦を注意深く観察していたようだった。


「レオナール様。もし、差し出がましいようでしたら申し訳ございません」


「どうした、ギルバート?」


「その弦の質感…おそらくですが、動物の腸を加工したものではないかと存じます」


「腸…だと?」


「はい。この国でも、リュートやハープといった高級な弦楽器には、羊の腸を丁寧に洗い、乾燥させ、撚り合わせて作った弦が用いられることがございます。これは撚られておりませぬ故、製法は異なるのでしょうが、原料としては十分に考えられます」


ギルバートの該博な知識が、再びレオナールに光明をもたらした。


(腸…ガット弦か! 前世でも、ヴァイオリンなどに使われるとは聞いていたが、実物を見るのは初めてだ。そうか、動物の腸…生体由来のタンパク質繊維(主にコラーゲン)。だからこその、この強度としなやかさ。そして、生体由来であるならば、体内でいずれ分解・吸収される可能性も極めて高い…!)


エレナの死が突きつけた、縫合糸感染という高い壁。それを乗り越えるための「吸収性モノフィラメント縫合糸」という理想の答え。その製造のヒントが、今、この手に。


「ギルバート、ありがとう。素晴らしい情報だ」レオナールは、興奮を隠せないまま従者に礼を言った。「ご店主、これをいただこう。手遊び用にちょうどいい」


「へい、ありがとうございます!」


店主は、ガラクタ同然の美術品が売れたことに、満面の笑みを浮かべた。


楽器を丁寧にケースに収めてもらい、ギルバートに持たせる。レオナールは、単なる息抜きのつもりが、またしても重大な研究の種を見つけてしまったことに、半ば呆れ、半ば運命的なものを感じていた。

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