第百六十話:青きカビの証明
シュトラッサーとの再開から数週間後、レオナールたちの抗菌薬開発はまさに佳境にさしかかっていた。
「マルクスさん、菌液の準備はよろしいですか。濃度は、前回の予備実験で設定した通りに」
分析室に隣接する、厳重に管理された準備室。レオナールは、白衣の上にさらに防護用の革エプロンを重ね、顔には水晶ゴーグルと布製マスクを装着しながら、マルクスに最終確認を促した。その声には、普段の穏やかさとは異なる、外科医が手術に臨む時のような鋭い緊張感が宿っている。
「はい、レオナール様。亡くなられた患者さんの喀痰から分離・培養したグラム陽性双球菌です。これを、我々が調製した栄養豊富な液体培地で、濁度が一定になるまで正確に培養し、滅菌水で懸濁・希釈いたしました。濃度も、予備実験通り、腹腔内投与で2日以内におよそ9割のクヴィックが重篤な状態に至るであろう力価に調整してあります」
マルクスもまた、同様の厳重な防護体制をとりながら、滅菌済みのガラス製注射筒に、わずかに白濁した危険な液体――調整された菌液――を慎重に吸い上げていく。彼の薬師としての長年の経験が、目に見えぬ敵を扱うこの繊細な作業を可能にしていた。彼の瞳には、これから行われる実験への畏敬と、その先に待つであろう医学の進歩への静かな期待が同居している。
隣では、クラウスが実験に使用する大型クヴィックたちの最終チェックを行っていた。体重測定、体温測定(これも彼が開発した簡易的な直腸温計だ)、そして活動性の観察。実験群ごとに分けられたケージには、それぞれ健康状態が良好で、体重もほぼ均一な若年のクヴィックが十匹ずつ収容されている。彼の几帳面な手によって、一匹一匹に識別番号が付与され、その基本データがベルク紙の記録表に寸分の狂いもなく書き込まれていく。
「対照群、低用量群、中用量群、高用量群、各群十匹ずつ。全四十匹、準備完了です。彼らの驚異的な繁殖力のおかげで、完全に同胞だけで揃えることはできませんでしたが、各群内で可能な限り、性別や同じ両親から生まれた同胞の比率が均等になるよう、慎重に割り振りました。投与する培養上清も、私が完成させた新型セラミックフィルターで完全に濾過滅菌し、それぞれの濃度に正確に希釈済みです」クラウスは、実験動物の選定における配慮を付け加えた。
レオナールは頷き、三つの注射筒を手に取った。それぞれに、異なる濃度に調整されたアオカビの培養上清――あのグラム陽性球菌に対してシャーレ上で見事な阻止円を描いた、希望の液体――が満たされている。そして、もう一つ、対照群に投与するための、ただの滅菌生理食塩水が入った注射筒。
「では、始めます。今回は全四十匹への投与と観察を数日に分けて行います。まずは第一陣として、各群から二匹ずつ、計八匹への菌液投与から。マルクスさん、対照群の二匹をお願いします。腹腔内へ、正確に」
マルクスは頷き、最初のケージから一匹目のクヴィックを、革手袋をした手で優しく、しかし確実に保定した。腹部の毛をアルコールで消毒し、菌液が満たされた注射針を、素早く腹腔内へと刺入する。クヴィックが驚いて身をよじらせるが、マルクスの熟練した保定の前では、わずかな抵抗しかできない。菌液が注入され、針が抜かれると、クヴィックはすぐにケージへと戻された。その作業が、第一陣の八匹全てに、慎重かつ正確に繰り返されていく。
準備室には、クヴィックたちの不安げな鳴き声と、注射針が皮膚を貫く微かな音、そして三人の研究者たちの集中した呼吸音だけが響いていた。
「第一陣、菌液投与完了。これより四半刻後、各個体に対応する薬剤を尾静脈より投与します。クラウスさん、投与量の最終確認と、注射器の準備をお願いします」
レオナールの指示を受け、クラウスはそれぞれの投与液が入った注射筒と、彼がレオナールの指導のもと習熟したばかりの、極細の尾静脈注射用の針を準備し始めた。その手つきは、時計職人のように精密で、一切の迷いがない。
四半刻後。今度はクラウスがクヴィックを保定し、レオナールが投与を担当する番だった。大型クヴィックとはいえ、尾静脈への注射は極めて繊細な技術を要する。レオナールはまず、クヴィックの尾の付け根を温めて血管をわずかに怒張させ、アルコールで消毒した。そして、極細の針先を、慎重に、血管の走行に対して浅い角度で進めていく。手技には慣れてきたとはいえ、毎回、息を詰めるような集中力が必要だった。
(よし、入った…)
計算された量の薬剤――対照群には生理食塩水を、他の群にはそれぞれの濃度のアオカビ培養上清を――ゆっくりと、血管を傷つけないように注意しながら注入していく。この作業を、第一陣の八匹全てに終えるには、相応の時間と神経を使った。
「第一陣、薬剤投与完了です。これより丸2日間、状態を注意深く観察します。マルクスさん、クラウスさん、交代で観察記録をお願いします。明日は第二陣の投与を行います」
(頼む……効いてくれ……!)
レオナールは、心の中で強く念じながら、最初の試練に臨むクヴィックたちを見守った。実験は、始まった。それは、数日間にわたる、生と死の天秤を見つめ続ける、長く、そして精神的に消耗する戦いの始まりでもあった。
最初の半日は、どの群のクヴィックたちにも、目立った変化は見られなかった。だが、夜が更け、翌日の朝を迎える頃になると、対照群のケージからは、明らかに異常な兆候が現れ始めた。
「レオナール様、対照群のクヴィックたちが……」
早朝から観察を続けていたクラウスが、厳しい表情で報告した。対照群のクヴィックは、ケージの隅で身を寄せ合い、毛並みは逆立ち、明らかに活動性が低下している。呼吸も浅く速く、時折、小刻みに震えている。それは、敗血症の初期症状だった。
昼過ぎには、対照群の中から最初の脱落者が出た。一匹のクヴィックが、ケージの隅でぐったりと動かなくなり、やがて冷たくなっていったのだ。マルクスが、その死を静かに確認した。彼の顔には、生命の儚さに対する深い哀しみが浮かんでいた。
その日の夕方までには、対照群のもう一匹が同様の経過を辿り、息絶えた。低用量群でも、二匹とも同様の症状を示し始めており、生存への期待は薄いように見えた。
だが、中用量群と高用量群では、明らかに異なる光景が広がっていた。
中用量群のクヴィックたちは、確かに活動性の低下や食欲不振といった症状は見られるものの、対照群や低用量群のような急速な悪化は見られず、一匹はケージの中をゆっくりと動き回っている。
そして、高用量群。そのケージの中では、驚くべきことに、二匹とも、感染前と変わらない様子で元気に動き回っていたのだ。毛並みには艶があり、食欲も旺盛。重篤な状態に陥る気配は全く感じられない。
数日間にわたって全てのクヴィックへの投与と観察が続けられ、最終的な集計結果が出たのは、最初の投与から六日後のことだった。その明確な差は、決定的なものとなった。
クラウスが、震える手で最終的な集計結果をレオナールに差し出した。ベルク紙に記された数字は、残酷なまでに明白だった。
対照群(生理食塩水投与):生存1匹 / 死亡9匹(死亡率90%)
低用量群:生存2匹 / 死亡8匹(死亡率80%)
中用量群:生存6匹 / 死亡4匹(死亡率40%)
高用量群:生存9匹 / 死亡1匹(死亡率10%)
「……これは……!」
レオナールは、その結果を前に、言葉を失った。統計解析などするまでもない、圧倒的な差。そして、投与量が増えるにつれて、生存率が劇的に改善していく、完璧なまでの『用量依存性』。アオカビの培養上清は、間違いなく、この致死的な感染モデルにおいて、強力な治療効果を発揮したのだ。
「やりましたな、レオナール様……!」マルクスの声が、感動に震えていた。「これは、まさに奇跡です! あの青きカビが、これほどの力を持っていたとは!」
「奇跡ではありません、マルクスさん」レオナールは、静かに首を横に振った。彼の瞳には、達成感と共に、科学者としての冷静な光が宿っていた。「これは、我々の仮説が正しかったことの証明です。そして、これから始まる長い戦いの、ほんの始まりに過ぎません」
彼は、ケージの中で元気に動き回る高用量群のクヴィックたちと、隣のケージで静かに横たわる対照群の亡骸を、交互に見つめた。この実験のために犠牲となった多くの命。その重みを、彼は決して忘れることはないだろう。
(母さん、エレナさん……見ていますか。我々はついに、あの時あなた方の命を奪った『見えざる敵』に対する、最初の武器を手に入れました。まだ、不完全で、粗削りな武器かもしれない。だが、これは確かに、未来の多くの命を救うための、希望の光です。この光を、決して絶やしはしない……!)
実験室には、一つの大きな壁を乗り越えた達成感と、犠牲となった命への鎮魂の祈り、そして次なる、より困難な課題へと立ち向かう決意が入り混じった、濃密な空気が満ちていた。青きカビがもたらした希望の光は、今、確かにその輝きを増し始めていた。




