第十六話:遠き地の呻き、動き出す探求心
王立アステリア学院での二度目の春が訪れようとしていた。レオナール・ヴァルステリアの生活は、知的な探求を中心に、規則正しく、そして充実したものとなっていた。ターナー教授との共同研究は、「根源粒子(原子)」とその結合法則についての理解を着実に深め、異世界版の化学体系の輪郭がおぼろげながら見え始めていた。ベルク紙の安定供給も始まり、研究環境は格段に向上していた。
研究の傍ら、レオナールはあの日、魔道具工房で知った「刻印回路」の原理——単純な論理判断を行う微小な魔法陣を組み合わせることで複雑な処理を可能にする技術——にも強い関心を抱き、独学でその基礎を学び始めていた。魔道具学の入門書や、ターナー教授が古い文献から見つけ出してきた断片的な記述を頼りに、彼は基本的な「魔力ゲート」の魔法陣を、ベルク紙の上に何度も描き、その構造と魔力の流れを考察した。紙の上でなら、簡単な論理回路を試作することも可能だったが、それを高度な計算に応用するには、専門家の協力が不可欠であることも痛感していた。協力者探しの糸口は、まだ見つかっていない。
そんなある日、彼の比較的平穏な研究中心の日々に、一つの不穏な報せがもたらされた。定期的に王都や諸領地の情報を集めて報告してくれる従者、ギルバートが、深刻な顔で口を開いたのだ。
「レオナール様、以前少しお話ししたかもしれませんが……王国の南西部、ローネン州の山間部で発生しているという奇妙な病について、新たな情報が入りました」
ギルバートは、分厚い報告書の束から一枚のベルク紙を取り出した。それは、ベルク商会を通じてローネン州の支部から送られてきた最新の状況報告の写しだった。
「奇病……ああ、原因不明の病が流行しているという話だったな。続報があったのか?」レオナールは眉をひそめた。
「はい。状況は、噂以上に深刻なようです」ギルバートは重々しく言った。「報告によれば、ローネン州の特に蒼鉛鉱山周辺の複数の村で、原因不明の病が蔓延し、死者が数百人規模に達しているとのこと。症状は奇妙で、多くの患者がまず手足の痺れや脱力感、感覚の異常を訴え、次第に歩行が困難になり、ろれつが回らなくなる。さらに、皮膚には雨だれが落ちた跡のような、あるいは広範囲に黒ずむような、奇妙な色素沈着が現れ、重症化すると激しい痙攣や精神錯乱を起こし、衰弱して死に至る、と……」
「末梢神経障害、中枢神経症状、そして特徴的な色素沈着……」レオナールは、ギルバートの報告を聞きながら、脳内で前世の医学知識を高速で検索していた。(この症状の組み合わせ……感染症にしては流行が局地的すぎる。となると、中毒か? 鉱山周辺……考えられるのは重金属……。神経毒性と皮膚への色素沈着を同時に引き起こすもの……ヒ素中毒の症状に酷似している。蒼鉛鉱山という名前だが、ビスマスと共にヒ素が産出されることは珍しくない。もし、鉱山の排水や粉塵で環境が汚染されているとしたら……?)
「原因は依然として不明で、王都から派遣された調査団——薬師や神官、宮廷魔術師の方々だそうですが——も、有効な対策を見いだせずにいるようです。感染症を疑って祈祷や浄化を行ったり、薬草を処方したりしているようですが、効果はほとんどなく、犠牲者は増え続けている、と……。鉱山の生産量も大幅に落ち込み、ローネン州全体の経済にも影響が出始めております」
レオナールは、黙って報告を聞いていた。彼の疑念は、ほぼ確信に変わりつつあった。これは、感染症ではない。環境汚染による集団中毒、おそらくはヒ素のような重金属類によるものだ。
(調査団が原因を特定できないのも無理はない。彼らに毒性学や疫学、環境医学の知識があるとは思えない。必要なのは、原因物質の特定、汚染源の調査、そして曝露経路の遮断という、公衆衛生的なアプローチだ)
犠牲者は増え続けている。その事実が、レオナールの胸を強く打った。母を救えなかった時の、あの無力感が蘇る。
(俺には、前世の知識がある。ヒ素中毒の診断、治療(対症療法が中心になるが)、そして予防策。そして、ターナー先生と開発中の化学分析技術。クロマトグラフィーで、水や土壌、あるいは患者の体液から原因物質を検出できるかもしれない。今度こそ、知識を役立てなければ……見過ごすことはできない!)
もちろん、異世界特有の要因が絡んでいる可能性は否定できない。だが、行動しない理由にはならない。彼は静かに決意を固めた。
「ギルバート、そのローネン州と蒼鉛鉱山について、もっと詳しい情報を集めてくれ。地図、産出する鉱物の種類と精錬方法、周辺の村々の水源、そして王国の調査団がどのような調査を行い、どのような報告をしているのか……手に入る限りの情報を」
彼の声には、もう迷いはなかった。
「それから、トーマスにも連絡を取ってほしい。ローネン州との交易状況や、現地の情報について、ベルク商会の情報網で何か掴んでいないか聞いてみてくれ。場合によっては、物資輸送や移動手段で協力を頼むことになるかもしれない」
「かしこまりました。しかし、レオナール様……まさか、ご自身で現地へ?」ギルバートは心配そうな顔をした。
「まだ決めたわけではない。だが、可能性を探る必要はあるだろう。まずは情報分析だ」レオナールは冷静に答えた。「そして、ターナー先生にも相談しなければな。もし原因が鉱物由来なら、先生の知識が不可欠だ。それに、現地の水や土壌の分析もお願いすることになるだろう」
彼は立ち上がり、窓の外に広がる王都の景色を見た。遠い南西の地で起きている悲劇。それを止めるために、自分に何ができるのか。刻印回路という未来の技術とは別に、今、目の前にある危機に対して、持てる知識と技術で立ち向かう。彼の新たな挑戦が、静かに始まろうとしていた。それは、単なる知的な探求ではなく、人々の命を救うための、医師としての戦いの始まりでもあった。