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血液内科医、異世界転生する  作者:
抗菌薬の光
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第百五十九話:神の器

レオナールの言葉は、一つの問題を解決した安堵ではなく、その先に広がる、あまりにも広大な未開拓の荒野を見据えていた。シュトラッサーは、レオナールの瞳に宿る、尽きることのない探求の光を見つめ、静かに頷いた。


「ええ、公子。何なりとお話しください。あなたのそのお考えこそが、我々の進むべき道を照らす灯火となるでしょう」


「ありがとうございます。実は、その課題の答えの断片を、私は先日まで訪れていた北東辺境領、アンブロワーズの地で目の当たりにしてまいりました」


レオナールは、アンブロワーズ伯爵からの招聘に始まり、ヴォルグリム湖畔の街で目の当たりにした『創縫術』の実態、そして筆頭術者ヴァレリーとの出会いと、彼女と共に挑んだ帝王切開の顛末を手短に、しかし要点を外さずに語り始めた。


「…結論として、外科医療への扉は、確かに開かれました。ですが、その扉の向こうへ安全に進むためには、感染症という目に見えぬ敵を制圧する術と、失われた生命そのものを補う技術が、絶対的に不足していることを痛感させられた次第です」


報告を聞き終えたシュトラッサーは、しばらくの間、深く目を閉じて黙考していた。やがて、ゆっくりと目を開けると、その瞳にはレオナールの経験に対する深い共感と、そして教会という巨大な組織の保健衛生を統括する責任者としての、重い苦悩の色が浮かんでいた。


「…壮絶な経験をなさいましたな、公子。母子を救うための帝王切開…。その決断力と、ヴァレリー殿との連携、そして何よりも赤子を救われたその手腕には、ただ頭が下がるばかりです。ですが同時に、母体を救えなかったというその痛み、私もまた、長年この道に携わる者として、痛いほど理解できます」


シュトラッサーは、そこで一度言葉を切ると、レオナールの瞳を真っ直ぐに見据えた。


「その上で、お伺いします。公子が、アンブロワーズの地で目の当たりにし、そしてご自身も足を踏み入れた『外科』、そしてその礎となる『解剖』という行為について、教会がどのような見解を持つか、それを知りたいのでございますね?」


「はい」レオナールは、静かに、しかし強く頷いた。「私が目指す医療の実現のためには、避けては通れない道だと考えております。ですが、それが神の教えや、人々の倫理観に反するものであるならば、私の探求は、ただの独善的な狂気に成り下がるやもしれません。どうか、シュトラッサー様のお考えをお聞かせください」


シュトラッサーは、ゆっくりと立ち上がると、窓辺へと歩み寄った。窓の外では、施療院の庭で、回復期にある患者が尼僧に支えられながら、覚束ない足取りで歩行訓練を行っている。その光景を、彼は慈愛に満ちた、しかしどこか遠い目で見つめていた。


「まず、結論から申し上げましょう。我々が聖典とする教えの中に、解剖や外科的処置そのものを『禁忌である』と明確に記した一節は、ございません」


その言葉は、レオナールにとって予想外のものであり、彼の心に一筋の光明を差した。だが、シュトラッサーはすぐに、その光に影を落とす現実を語り始めた。


「ですが、聖典に書かれていないからといって、それが許容されるわけではないのが、人の世の複雑なところでございます。多くの信徒…いや、この国に生きるほとんどの民は、神が創りたもうた完璧な肉体に、人が直接刃を入れるという行為に対し、本能的な、そして根深い禁忌感を抱いております。それは、理屈ではなく、魂に刻み込まれた畏れのようなものです。我々教会もまた、その感情を無視することはできません」


彼は、レオナールに向き直った。その表情は、一人の聖職者としての、深い苦悩を物語っていた。


「歴史を紐解けば、過去に王家において、公子が成し遂げられた帝王切開に近い試みがなされたという記録が、確かに存在します。国外の要人の家族についても、同様の話を耳にしたことはございます。ですが、それらが公に異端として認定されたことは一度もありません。なぜなら、それらは常に、国家や家門の存続という、抗いがたい大義名分のもとに行われてきたからです。しかし…」


彼の声が、わずかに重みを増した。


「それらの試みの多くが、望ましい結果…つまり、母子ともに救われるという奇跡には至らなかったことも、また事実なのです。結果として、人々の心には『腹を開くことは死に直結する』という、より強い恐怖と禁忌感を植え付けることになってしまった。故に、教会としても、それらの行為を積極的に是認することは、これまで差し控えてきた、というのが実情でございます」


「では、アンブロワーズ領で、長年にわたり行われてきたという解剖については…?」


「無論、我々もその存在は認識しております」シュトラッサーは、静かに認めた。「ですが、あの地は国境という特殊な環境にあります。常に隣国との緊張関係にあり、戦傷者の治療は領地の防衛そのものに直結する死活問題。その必要性という大義と、アンブロワーズ伯爵家が持つ政治的な力、そして王都から遠く離れた地理的な要因。それらが複雑に絡み合った結果、我々も事実上の『黙認』という形を取らざるを得なかったのです」


それは、教会の無力さの告白であり、同時に、現実的な政治判断の表明でもあった。レオナールは、その複雑なバランスの上に、アンブロワーズの外科が成り立っていたことを、改めて理解した。


「ですが」とシュトラッサーは続けた。彼の目に、再びレオナール個人を見つめる、温かい光が宿った。「私個人の見解を申し上げるならば、状況は変わりつつあるのかもしれません。公子、あなたという存在によって」


彼は、レオナールの前に戻り、その肩にそっと手を置いた。


「私は、人を救うという崇高な大義があり、そして何よりも、手術の成功という明確な『結果』が伴うのであれば、その行為は神の御心に適うものであり、是認されるべきだと考えています。あなたがエレナさんの赤子を救ったように。そして、アルマン殿やグンター殿を、耐え難い苦痛から解放したように。あなたの知識・技術は、常にその二つを満たしている。故に、私はあなたを支持します」


その力強い言葉に、レオナールの胸が熱くなった。だが、シュトラッサーはすぐに、現実的な忠告を付け加えることも忘れなかった。


「しかし、これもまた事実としてお伝えせねばなりません。教会内にも、様々な考えを持つ者がおります。伝統と格式を重んじ、いかなる理由があろうとも人の体に刃を入れることを認めぬ者。あるいは、あなたのその革新的な技術に、嫉妬や脅威を感じる者もいるでしょう。現状で、あなたの活動が即座に異端として認定されることはないでしょう。ですが、ヴァルステリア家の公子という、あまりに目立つお立場のあなたが、このデリケートな問題に深く関与し続けることは、常に大きなリスクを伴うということを、どうかお忘れなきよう。あなたの敵は、もはや病だけではないのかもしれないのですから」


シュトラッサーの言葉は、レオナールへの深い信頼と、そして彼の未来を案じる温かい忠告に満ちていた。教会の全面的な支持という甘い幻想は打ち砕かれた。だが、その代わりに彼は、シュトラッサーという、この上なく心強い理解者を得たのだ。


「…肝に銘じます。シュトラッサー様」


シュトラッサーは、その決意に満ちたレオナールの姿に、静かに頷いた。「分かりました、公子。あなたのその覚悟、しかと受け止めました。この件、私一人で覆せるほど単純な問題ではございません。ですが、私の立場でできる限りのことはしてみましょう。時間はかかるやもしれませんが、あなたのその灯火が消えぬよう、私もまた、教会の内から道を照らす努力をすることをお約束します」


「…もったいないお言葉です、シュトラッサー様」


レオナールは、深く、そして静かに頭を下げた。彼の進む道は、茨の道かもしれない。だが、その道の先に救える命がある限り、そして共に歩んでくれる理解者がいる限り、立ち止まるという選択肢は、もはや彼の中にはなかった。

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