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血液内科医、異世界転生する  作者:
抗菌薬の光
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第百五十二話:細菌たちの舞踏会

アシュトン博士が完成させたグラム染色法。それは、レオナールの探求を次の次元へと押し上げる、まさに革命的な武器であった。アンブロワーズで入手したヨード、そしてマルクスが丹念に精製した植物由来の二種類の色素。それらが揃った今、「見えざる敵」に、その正体を示す「正装」を与える準備は整ったのだ。


この数日間、彼らの日常は一変していた。

マルクスが王都の施療院や診療所を駆けずり回って集めてくれた貴重な検体――化膿した傷口の膿、高熱の患者の血液、そして死者の身体から得られた病巣の一部――から単離培養されたサンプルを、片っ端からこの新しい染色法で分類し続ける日々。その結果、彼らの手元には、ささやかながらも、この世界の病原体を初めて科学的に分類した、画期的な「細菌ライブラリ」が形成されつつあった。マルクスが整理したカードには、検体の由来、患者の症状、培養条件、そして染色結果が几帳面に記録されていく。


「レオナール様、こちらが最後のサンプルです。グラム染色、仕上げます」

マルクスの穏やかながらも熟練した手つきで、スライドガラス上の細菌塗抹標本が、紫水晶草の色素、ヨード媒染液、脱色用のアルコール、そして対比染色のための情熱的な赤の色素で、順に染め上げられていく。その一連の工程は、もはや芸術の域に達していた。


「お願いします」

レオナールは『深淵を覗く窓』Mk-IIIの接眼レンズから顔を上げ、マルクスから手渡されたスライドガラスをステージに載せ、焦点を合わせる。視野に広がった光景に、彼は言葉を失った。アシュトン博士が「微小世界の舞踏会」と称したその光景は、まさに圧巻だった。紫の豪奢なドレスをまとった貴婦人と、赤き薄衣を纏った奔放な踊り子。二つの異なる生命体が、その本質的な違いを白日の下に晒している。


まず、最も多様性に富んでいたのが、紫に染まる球菌――グラム陽性球菌だった。化膿した創から分離した株はブドウの房のように密集し、別の患者の喉から得られた株は真珠の首飾りのように連なっている。

「レオナール様、同じグラム陽性球菌でも、由来が異なればこれほど形態が違うとは。実に興味深いですな」

マルクスが二つのスライドを交互に示しながら言うと、レオナールは頷いた。

(まさしくブドウ球菌とレンサ球菌、その典型的な姿だ。この目に見えぬ小さな粒が、屈強な兵士をも時に死に至らしめる)


そして、その中には、レオナールの心を最も強く揺さぶるサンプルがあった。マルクスが添えたカードには、こう記されている。

『69歳男性、発熱・呼吸苦の症状を有する患者の喀痰。採取の3日後死亡』

その喀痰から分離された菌は、グラム染色で、先端がわずかに尖った、二つ一組で並ぶ特徴的な紫色の双球菌として染め出されていた。

(肺炎球菌……間違いない)

レオナールの脳裏に、前世で幾度となく対峙してきた、市中肺炎の最大の起炎菌の姿が重なる。適切な抗菌薬さえあれば、救えたかもしれない命。その沈黙の証言が、今、顕微鏡の視野の中にあった。

(ペニシリンやセフェム系の抗菌薬。それさえあれば、この老人を救う道を模索できたはずだ。だが、この世界には、その武器がない。診断はできても、治療ができない。このもどかしさこそが、俺がこの世界で戦うべき壁なのだ)


グラム陽性桿菌もいくつか同定されたが、その形態は比較的均一で、芽胞を形成していると思われるものが見られる程度だった。そして、赤く染まるグラム陰性桿菌。こちらも、今のところ形態的なバリエーションは乏しく、おそらくは大腸菌やクレブシエラと思われる太く短い棒状のものがほとんどだった。


「素晴らしい成果です」

レオナールは接眼レンズから顔を上げた。その瞳には、次なるステップへの確かな光が宿っていた。

「ですが、これはまだ序章に過ぎません。我々が今見ているのは、この単純な培地で、酸素がある環境でしか育たない、いわば『育てやすい菌』だけのはずです。血液寒天培地のような、より栄養豊富な培地や、あるいは酸素のない環境を好む嫌気性菌の培養法を確立できれば、さらに多くの未知なる敵の姿を捉えることができるようになるでしょう」

彼は立ち上がり、実験台の前に集まった仲間たちに向き直った。

「ひとまずは、この手持ちのライブラリを使って、我々が持つ『武器』の真価を試す時です」


実験は、次の段階――抗菌薬の活性評価へと移行した。クラウスが開発したセラミックフィルターで無菌化された、有望なアオカビ株と放線菌株の培養上清。それらを染み込ませた小さなベルク紙の円盤を、各種細菌が一面に生えた寒天培地の上に置き、その効果を試すのだ。この実験の成否が、今後の抗菌薬開発の方向性を決定づける。

「クラウスさん、あなたのフィルターがなければ、この実験は始まりすらしませんでした。感謝します」

レオナールの言葉に、クラウスは実直な顔をわずかに赤らめながら、「いえ、レオナール様の発想とご指導があってこそです」と短く答えた。


結果は、数日後、鮮やかな形で現れた。

アオカビの培養上清を置いた培地では、レオナールの予測通り、グラム陽性球菌のプレートにのみ、円盤の周囲に細菌が生えない、見事な透明な円――阻止円が形成されていた。しかし、グラム陰性桿菌のプレートには、何の変化も起きない。

「やはり、ペニシリンと同じか。スペクトラムは狭いが、グラム陽性球菌に対しては強力な活性を持つようだ」レオナールは、確かな手応えを感じた。


そして、運命の瞬間が訪れた。放線菌の培養上清。その円盤が置かれたプレートでは、まずグラム陽性球菌のプレートに、アオカビのものと同等か、それ以上に大きな阻止円が形成された。そして、固唾をのんで見守った、グラム陰性桿菌のプレート。

そこには、確かに、くっきりと、円盤の周囲に細菌の増殖を阻害する、透明な阻止円が浮かび上がっていたのだ。

「……効いている」

レオナールが、絞り出すような声で呟いた。

その光景は、彼にとって、単なる実験の成功以上の意味を持っていた。母エレオノーラの命を奪った胆管炎。その原因の多くは、この赤く染まるグラム陰性桿菌なのだ。その難敵に対し、ついに人類は有効な武器を手に入れた。


(これが、ストレプトマイシンのようなアミノグリコシド系の薬なのか、あるいは全く未知の広域抗菌薬なのかは、まだ分からない。だが、グラム陰性桿菌に活性を持つ物質が、この世界に確かに存在する!)


その事実は、この世界の感染症治療に、革命をもたらす可能性を秘めていた。グラム陽性菌にはアオカビの薬を、そしてグラム陰性菌が疑われる重篤な感染症には、この放線菌の薬を。二つの武器を使い分けることで、初めて体系的な治療戦略を立てることが可能になるのだ。


実験が一段落した後、3人はセンターの休憩室で、興奮冷めやらぬまま議論を交わしていた。

「しかし、レオナール様」マルクスが、薬師としての慎重な視点で口を開いた。「これほど強力な薬となると、人体への『毒』となる可能性も考えなければなりませんな」

「その通りです、マルクスさん」レオナールも頷いた。

「だからこそ、次の目標は、この青カビと放線菌が産生する物質を、高純度で精製し、その安全性を動物実験で徹底的に検証することです。そして何としても、人の治療に使えるようにする」


精製、安全性評価、そして量産化。目の前には、まだいくつもの高い壁がそびえ立っている。だが、レオナールの瞳には、絶望の色はなかった。彼の心には、未来の多くの命を救うという、揺るぎない誓いの炎が燃えていた。夜明け前の最も深い闇の中、彼は仲間たちと共に、静かに次なる戦いの準備を始める。

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