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血液内科医、異世界転生する  作者:
新たなる出会いと研究
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第十五話:契約

ターナー教授の研究室で自家製の「レオナール紙」が使われ始めてから一月ほどが経ち、その利便性は疑いようのないものとなっていた。惜しみなく使える記録媒体は、彼らの研究を確実に加速させていた。しかし、その一方で、研究の合間を縫って紙を作り続ける作業は、レオナールにとっても、そして時折手伝わされる(?)ターナー教授にとっても、無視できない負担となっていた。


そんな折、友人となったトーマス=ベルクから改まった様子で呼び出しを受けた。場所は学院の談話室の一角。約束の時間に訪れると、トーマスは落ち着かない様子でレオナールを待っていた。その目には、抑えきれない興奮と、商人としての強い意志が宿っている。


「やあ、レオナール様。急に呼び立てて申し訳ない。だが、どうしても君に話しておきたいことがあるんだ」

トーマスは周囲を軽く見回し、少し声を潜めて切り出した。

「例の『紙』のことだ。あれから、父にも報告し、我が『ベルク商会』で本格的に調査・検討を進めてみた。市場調査の結果は……予想以上だ。もし、あの品質の紙を安定供給できるなら、既存の羊皮紙市場のかなりの部分を奪えるだろうし、新たな需要——例えば、一般市民向けの書籍や、安価な帳簿など——も掘り起こせる。これは、単なる新商品というレベルではない。間違いなく、王国全体の情報流通を変える、巨大な事業になる!」

トーマスは、早口に、しかし確信を込めて語った。


レオナールは、彼の熱意に静かに耳を傾けていた。内心では、(やはり、そうなったか……)と思っていた。彼自身は研究環境の改善が主目的だったが、トーマスがこの発明の商業的可能性を見逃すはずがない。

「君の言う可能性は理解できる。だが、トーマス、それを実現するには多くの課題があることも、君は分かっているはずだ」


「もちろんです!」トーマスは力強く頷いた。「だからこそ、まず最初に、どうしても確認させていただきたいことがあるのです。可能であれば、その紙の実際の製造工程を、我々——特に、最終的な判断を下す父に——見せていただけませんか?正確な生産コストを見積もり、量産体制を構築し、そして何より、父を説得して必要な投資を引き出すためには、どのような技術で、どれくらいの労力と資源が必要なのかを、具体的に把握する必要があります」

彼の目は真剣だった。これは、単なる興味ではなく、事業化に向けた具体的なステップなのだ。


「工程を見せる、か……」レオナールは少しの間、思考を巡らせた。製法には、基本的な物理プロセスに加えて、彼が編み出した魔法による補助も含まれている。どこまで開示すべきか。技術が外部に漏れるリスクは?しかし、この面倒な紙作りから解放され、研究に専念できるメリットは計り知れない。そのためには、ベルク商会の力は必要不可欠だ。リスクとメリットを天秤にかける。

「……分かった。ターナー先生にも相談してみよう。先生の研究室の一部を借りて、基本的な工程ならお見せできるだろう。ただし、全ての技術詳細を開示するわけではない。それでよければ」


「十分です!ありがとうございます!」トーマスは破顔した。「父もきっと納得してくれるはずです。すぐに日程を調整しましょう!」


話は驚くほど速やかに進んだ。ターナー教授は、最初は「面倒だ」「研究の邪魔になる」と渋い顔をしたが、レオナールが「これで紙の心配が完全に無くなるかもしれませんよ。我々は研究に専念できます」と説得すると、「……まあ、一度だけなら、見せてやらんこともない」と、しぶしぶ承諾してくれた。どうやら彼も、羊皮紙のコストと紙作りの手間には、相当うんざりしていたらしい。


デモンストレーション当日を前に、レオナールは改めてトーマスと向き合い、権利関係について釘を刺した。場所は、ベルク商会が王都に持つ小さな事務所の一室だった。

「トーマス、この件を進めるにあたって、私の考えを明確にしておきたい。私は、この紙の製法に関する権利そのものを、君のベルク商会に完全に譲渡(買い取り)したいと考えている」


「えっ……?譲渡、ですか?レオナール様、それは本気で……?」トーマスは目を丸くした。通常では考えられない申し出だったからだ。発明の権利は、継続的な利益を生む金の卵のはずだ。


「ああ、本気だ」レオナールは落ち着いた口調で続けた。「見ての通り、私は研究に没頭したい。紙作りは必要に迫られて始めたことで、事業運営などには全く興味がない。それに、この技術が持つ可能性を最大限に引き出すには、君たちのような商会の力が必要だろう。下手に私が権利を主張して口を出すより、専門家である君たちに全て任せた方が、結果的に世のためにもなるはずだ」

彼の言葉には、私欲のなさと、合理的な判断があった。

「ただし、条件がある。今後、私とターナー先生が、それぞれの研究目的で必要とする紙は、品質の良いものを、必要なだけ、無償で、かつ最優先で安定的に供給してほしい。これが、技術を譲渡する唯一にして絶対の条件だ」


トーマスは、しばし言葉を失っていた。レオナールの欲のなさ、そして研究への純粋な情熱に打たれたようだった。やがて、彼は深々と頭を下げた。

「……レオナール様。あなたのそのお考え、そして我々への信頼に、心から感謝いたします。その条件、ベルク商会の名において、必ずお守りすることをお約束します! そして、この素晴らしい技術を、必ずや世に広めてみせます!」

彼の瞳には、事業への野心だけでなく、レオナールへの深い敬意と友情の色が浮かんでいた。こうして、異世界の常識を覆す可能性を秘めた技術の権利は、驚くほど円滑に、研究を優先する発明者から、その価値を見抜いた商人へと託されることになった。正式な契約書も、ベルク商会の法務担当者を交えて、滞りなく作成された。


数日後、約束の日。ターナー教授の研究室に、トーマスとその父親であるエルンスト=ベルク会長が訪れた。エルンスト会長は、恰幅が良く、上質な衣服に身を包んだ、いかにも老練な大商人といった風貌だった。しかし、その物腰は穏やかで、鋭い観察眼が眼鏡の奥からレオナールとターナー教授に向けられていた。


「これはターナー教授、そしてレオナール殿。本日はお時間をいただき、感謝申し上げる」エルンスト会長は丁寧に挨拶した。

「ふん、ベルク商会の会長殿が、このような埃っぽい場所に何の御用かな」ターナー教授は、ぶっきらぼうながらも、相手が大物であることを理解しており、最低限の礼儀は示している。


簡単な挨拶の後、早速デモンストレーションが始まった。エルンスト会長とトーマスの鋭い視線が注がれる中、レオナールは助手を務めるギルバートと共に、淡々と作業を進めていく。

リノ草の繊維を水槽で叩解する工程では、時折レオナールが水槽に手をかざし、魔力を流し込む。すると、水中の繊維がより細かく、均一に分散していくように見えた。圧搾後の湿った紙を板に貼り付け、乾燥させる最終段階でも、彼は時折、紙の表面にそっと触れ、微弱な魔力で何かを調整しているようだった。

(この叩解工程における繊維の解き方、そして乾燥時の魔力による微細な水分調整こそが、紙の均一性と強度を決定づける鍵だ。だが、その核心的な原理まで説明する必要はない)

一連の工程を食い入るように見つめていたエルンスト会長が、ついに口を開いた。

「レオナール殿。あなたが時折使っておられるあの操作は、特殊な魔法かな? 量産する上で、それが技術的な障壁になったりはしないかね?」

それは、この技術が「事業」になるか否かを見極めるための、核心を突く質問だった。レオナールは、動揺を見せることなく、穏やかに、しかし計算された答えを返した。

「会長。あれは、生産効率を上げるための、いわば『職人のコツ』のようなものです。確かに、この工程の最適化が品質と生産速度を左右しますが、決して属人的な秘術ではございません。そして最も重要なのは、この魔法工程はあくまで効率化のためのもの。時間をかけ、適切な道具と手順さえ確立すれば、熟練した職人の手作業や、水車の動力を利用した機械的な方法でも十分に代替可能です」


全ての工程が終わり、出来上がったばかりの紙をエルンスト会長が手に取った。彼は、指先の感触、光沢、厚みの均一さ、そしてインクの乗り具合を、プロの目で厳しくチェックした。そして、しばらくの沈黙の後、彼は満足げに頷いた。

「……見事だ。実に見事なものだ、レオナール殿。工程は合理的で、品質も安定している。そして、魔法への依存度が低い点も素晴らしい。これならば、初期投資と人材さえ確保すれば、量産化は十分に可能だろう」

彼の言葉には、疑いの余地のない確信が込められていた。

「トーマス、この件は我がベルク商会の最優先事業とする。直ちに試験工房の設立準備に入れ。ヴァルステリア様への約束は、必ず果たせ」

「はっ! お任せください、父上!」トーマスは、安堵と喜びを表情に滲ませながら、力強く返事をした。


話が正式にまとまり、デモンストレーションも成功裏に終わった日の夜。エルンスト会長は、「契約成立の祝意と、今後のよしみ、そして何より素晴らしい発明への敬意を表して」と、レオナールと、そして意外にもターナー教授をも、王都でも指折りの高級料理店へと招待した。


店の扉をくぐると、そこはレオナールやターナー教授が普段足を踏み入れることのない、別世界のような空間だった。磨き上げられた大理石の床、クリスタルのシャンデリア、柔らかな絨毯、そして丁寧な物腰の給仕たち。案内された個室も、重厚な調度品で飾られ、静かで落ち着いた雰囲気に満ちていた。


「さあさあ、ターナー教授、レオナール殿、どうぞ遠慮なさらず」エルンスト会長は上機嫌で席を勧めた。

ターナー教授は、最初こそ「ふん、儂のような年寄りが来る場所ではないわい」などと憎まれ口を叩いていたが、運ばれてきた料理——見たこともないような珍しい魚介のカルパッチョ、じっくり煮込まれた柔らかな仔牛肉、香り高い季節の野菜のスープなど——を一口食べるごとに、その表情がみるみるうちに和らいでいった。


「む……むぅ! これは……美味い! 実に美味いぞ!」

教授は、目を丸くして唸った。そして、注がれた上等な赤ワインを一口含むと、

「おお……この芳醇な香り、深い味わい……こんな上等な酒は、何十年ぶりか!」

と、さらに機嫌を良くした。普段の研究室での粗末な食事とは、まさに天国と地獄ほどの差があるのだろう。


エルンスト会長とトーマスは、そんな教授の様子を微笑ましく見守りながら、商談の成功を祝して杯を重ねた。

「いやはや、これもレオナール殿の素晴らしい発明のおかげですな」

「本当に。この『ベルク紙』が、王国の未来を明るく照らすことを願っております」


レオナールは、そんな会話を静かに聞きながら、美味しい料理(量はそれほど食べられないが)を味わっていた。彼の興味は、料理そのものよりも、ご馳走を前にすっかり饒舌になっているターナー教授の姿にあった。教授は、ワインが進むにつれて、若い頃の失敗談や、研究に行き詰まった時の苦労話、そして原子論への情熱などを、普段は見せない人間味あふれる表情で語り始めた。エルンスト会長も、単なる商売相手としてではなく、一人の知的な探求者として教授の話に耳を傾け、時には鋭い質問を投げかけるなど、意外なほど話が弾んでいた。


(教授も、たまにはこういう息抜きが必要なのかもしれないな)

レオナールは、少しだけ微笑ましい気持ちになった。そして同時に、これで本当に紙作りの心配から解放され、研究に集中できる環境が手に入ったことへの、深い安堵を感じていた。トーマスとエルンスト会長には感謝しなければならないだろう。


ターナー教授が美味しい料理と酒にご満悦になる中、トーマスも大人たちの会話に加わり、時折、的を射た意見を述べたり、将来の事業展開について熱心に語ったりしていた。もちろん、年相応に美味しい料理に目を輝かせる場面もあったが、彼はこの初めての大きな仕事を成功させた達成感と、未来への期待に満ちているようだった。レオナールの隣で、「この紙のおかげで、僕もようやく父上に少しは認めてもらえるかもしれません」と、少し照れたように囁いたりもした。


宴が終わり、夜風に当たりながら寄宿舎への帰り道を歩く。ターナー教授は、上機嫌で鼻歌などを歌っていたが、レオナールは夜空を見上げながら、静かに思考を巡らせていた。紙の問題は解決した。次は、いよいよ化学の基礎理論の確立と、そしてあの「刻印回路」の謎への挑戦だ。道はまだ遠く、険しい。だが、今日の出来事は、彼に確かな前進を実感させてくれた。

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