第百四十八話:古の魔法と多孔質の奇跡
レオナールの頭の中はターナー教授が提示した古の錬金術魔法への興奮で満ち溢れていた。固定相の性能向上は、アヘン精製をはじめとする彼の研究全体のボトルネックとなっていた。その壁を、全く予期せぬ角度から打ち破るかもしれない、全く新しいアプローチ。彼の足は、自然と速まっていた。
「先生、早速ですが、先ほどお話しされていた『コーティング魔法』を試させていただいてもよろしいでしょうか」
センターに戻るや否や、レオナールは逸る心を抑えきれないといった様子で切り出した。その熱意に、ターナー教授は「ふん、君はいつもせっかちだな。だが、その探究心こそが君の美点でもあるか」と、やれやれといった顔で肩をすくめながらも、その目には同じ研究者としての好奇心が宿っていた。
「まずは、実験台となる素材が必要だな。クラウス君のところへ行ってみるといい。彼はフィルター開発で、文字通り山ほどの『失敗作』を生み出しておるはずだ。彼にとっては不要な素焼きの板でも、我々の実験には格好の材料となるだろう」
教授の言葉に、レオナールは頷いた。彼は足早に、センターの裏手にある窯が設置された中庭へと向かった。そこでは、クラウスが完成したばかりの素焼きの板を、一枚一枚、精密なノギスで厚みの均一性を確認しているところだった。彼の傍らには、確立されたプロトコルに従って作られたであろう、規格の揃った試作品が整然と並べられている。窯の火は管理され、以前のような試行錯誤の熱気ではなく、むしろ管理された生産工程が持つ静かな秩序がそこにはあった。彼の足元には、かつての苦闘を物語るように失敗作の山が残ってはいたが、その数はもう増えていないようだった。
「クラウスさん、少しよろしいですか。その、規格外になった素焼きの板を、いくつか分けていただけませんか?」
レオナールの申し出に、クラウスは作業の手を止め、実直な顔を上げた。
「レオナール様。ええ、構いません。こちらにあるものは、厚みの誤差が基準をわずかに超えてしまった規格外品です。フィルターとしての使用には向きませんが、何にお使いに?」
「新しい固定相の開発に、少し試してみたいことがありまして。あなたのその地道な努力が、別の形で我々の研究を大きく前進させてくれるかもしれません」
レオナールの言葉に、クラウスの目にわずかな誇りの色が宿った。彼は、規格外品の山の中から形の良い板を数枚選び出し、丁寧に布で拭いてからレオナールに手渡した。
分析室に戻ると、ターナー教授が既に準備を整えて待っていた。彼の手には、古びた羊皮紙からベルク紙へと丁寧に書き写されたのであろう、複雑な幾何学模様と、古風な文字で構成された魔法陣の図が握られている。
「これが、例の『親水性コーティング』の魔法陣だ。幸いなことに、これは呪文や特定の所作を必要とせず、魔法陣と魔力だけで発動できるタイプでな。再現性は高いはずだ」
教授から魔法陣の紙を受け取ったレオナールは、その精密な構造に目を見張った。彼は、分析室の床にチョークで魔法陣を正確に描き写すと、その中央に、先ほどクラウスから譲り受けた素焼きの板を一枚、静かに置いた。
「では、やってみます」
レオナールは深く息を吸い、両手を魔法陣にかざし、魔力を慎重に、そして均一に流し込み始めた。魔法陣が淡い青白い光を放ち、描かれた線が床から浮かび上がるかのように明滅する。エネルギーが中央の素焼きの板へと収束していくのが、魔力の流れとして肌で感じられた。数秒後、光が収まると、板そのものに目に見える大きな変化はなかった。しかし、レオナールは直感的に、何かが決定的に変わったことを感じ取っていた。
「……質感が、違う」
彼は呟きながら、恐る恐る板に手を伸ばした。元々の素焼きが持っていた、ざらりとした、乾いた感触ではない。どこか湿り気を帯びているかのような、しっとりとしたマットな質感へと変化していたのだ。だが、濡れているわけではない。表面に水分は一切感じられなかった。
指先で撫でてみると、その奇妙な感覚はさらに増した。まるで極めて目の細かいヤスリの上を滑らせるように、指が微かに引っかかる。そして、指先の汗が、すっと吸い取られていくような、独特の乾燥した感触があった。まるで、板そのものが水分を渇望しているかのようだった。
「ほう……。確かに、表面の性質が完全に変わっておるな。これは、儂の仮説を裏付ける結果かもしれん」
隣で見ていたターナー教授も、感心したように唸った。
「中はどうなっているか……」 レオナールは、小さな金槌で板の端を軽く叩いた。カキン、と乾いた音を立てて、板は二つに割れる。その断面を覗き込み、彼は確信を深めた。予想通り、魔法の効果は表面だけでなく、板の内部、多孔質な構造の隅々にまで均一に及んでいるようだった。
「素晴らしい……! これならば、固定相として理想的な性質を持つ可能性があります。次に、液体との親和性を試してみます」
彼はもう一枚、今度は浅い器の形をした素焼きの失敗作を魔法陣の上に置き、同様にコーティング魔法を施した。そして、その器に、スポイトで水を数滴垂らしてみる。
次の瞬間、驚くべき光景が広がった。水滴は、器の表面に玉となって留まることなく、まるで乾いた砂に吸い込まれるかのように、サッと一瞬で、音もなく吸収されてしまったのだ。
「なんと……!」
今度は、器に並々と水を注いでみた。水は器の内壁に吸い込まれていくように見えたが、不思議なことに、器の外側へと水が漏れ出してくる気配は一切ない。数分間待ってみても、その状態は変わらなかった。
最後に、レオナールは器の中の水を捨て、再び金槌でそれを割ってみた。断面を観察すると、さらに驚くべき事実が明らかになった。水が吸収されているのは、器の内壁の、ごくごく表面的な層だけだったのだ。内部の多孔質な構造には、水が浸透した気配は全くなかった。まるで、目に見えない薄い膜が、強力なバリアとして機能しているかのようだった。
「これは……! 表面の極めて親水性の高い層が、水を強力に保持し、内部への浸透を防いでいる…ということか。凄まじい吸着力だ」
レオナールは、次に純度の高いアルコールを少量垂らしてみた。水ほどではないが、やはり素早く吸収される。しかし、マルクスが薬草の成分抽出に使う油――極性の低い液体――を垂らしてみると、それは吸収されることなく、表面で美しい玉となって弾かれた。
「間違いない」レオナールは、興奮を抑えきれない声でターナー教授に語りかけた。「この魔法は、物質の表面に、水のような極性の高い分子と選択的に、かつ強力に結びつく層を形成するものです。これこそ、我々が求めていた、理想の固定相です! この素焼きをクロマトグラフィーに利用すれば、アヘンの中から、極性の異なる成分を、これまでとは比較にならない精度で分離できるはずです!」
古の知恵が、科学的な視点と結びつき、新たな技術の扉を開いた。二人の研究者は、顔を見合わせ、この発見が研究を次の次元へと押し上げる確かな一歩となることを確信し、満足げな笑みを浮かべるのだった。




