第百四十七話:ターナーからの提案
副学長の執務室を辞し、レオナールとターナー教授は物質科学研究センターへと続く石畳の道を並んで歩いていた。春の柔らかな日差しが、真新しい研究棟の白壁に反射して眩しい。レオナールの頭の中は、先ほどの会話の余韻で満たされていた。特別研究科二期生――数学という、彼の探求とは全く異なる分野から現れた異能の才能。その存在が、自分たちの研究にどのような化学反応をもたらすのか、期待に胸が膨らんでいた。
「面白いことになってきたな」
それまで黙って歩いていたターナー教授が、ふと、独り言のように呟いた。その声には、いつものぶっきらぼうさの中に、隠しきれない好奇心の色が浮かんでいる。
「ええ。数学という純粋な論理体系が加わることで、我々の研究も新たな視点を得られるかもしれません。これまで経験則と試行錯誤に頼らざるを得なかった部分に、理論的な裏付けを与えてくれる可能性もあります」
「それもそうだが」と教授は、レオナールの言葉を遮るように続けた。
「君と話していると、どうにも儂の頭も刺激されるらしい。長年、当たり前だと思っていた古い知識が、ふと新しい顔を見せる。…そうだ、レオナール君、君に一つ、相談というか、アイデアがあるのだがね」
「先生から、ですか?」 レオナールは少し意外に思い、足を止めて師の顔を見上げた。ターナー教授から研究の方向性について、このような形で相談をされることは珍しいことだった。
「うむ」
ターナー教授は、一度言葉を切ると、まるで古い記憶の引き出しを開けるかのように、ゆっくりと語り始めた。
「古の錬金術魔法の中に、一つ、奇妙なものがあってな。もともとは、金属の耐腐食性を上げるための魔法で、いわば表面処理の一種だ。鉄製品にこの魔法をかけると、錆びにくくなる。魔道具工房の連中なども、金属部品の接着性を上げたり、塗装のノリを良くしたりするために、今でも時折使っている、比較的ありふれた魔法なのだが…」
「ありふれた魔法、ですか?」
「ああ。だが、その作用機序が、どうにも不可解でな」教授は、丸眼鏡の奥の目を細めた。
「多くの錬金術魔法はな、純粋な物質に作用させたり、特定の溶媒に溶かした溶質に作用させたりすることで、何らかの化学変化を引き起こす。その生成物の比重や反応性を調べれば、我々の分子モデルと照らし合わせて、どのような分子構造の変化が起きたかをある程度は推定できた。だが、このコーティング魔法だけは、そのセオリーが全く通用せんのだ」 教授の声には、長年の探求者を悩ませる謎への、苛立ちと好奇心が混じっていた。
「この魔法、水溶液の中に溶け込んでいる単一の粒子…例えば、砂糖の粒子のようなものに直接かけても、一切変化が起きん。必ず、金属などの『塊』、つまり固体表面が存在しなければ、効果を発揮しないのだ。まるで、物質の表面だけを、目に見えない薄い膜でコーティングするような感じで、魔法がかかる。これでは、我々の得意とする方法で分析できん。だから、具体的にどのような化学的変化を引き起こしているのか、これまで正確に同定できずにいたのだよ」
その説明に、レオナールの科学者としての興味が強く惹きつけられた。表面にのみ作用する魔法。その特異な性質が、応用可能性を感じさせる。
「それで、ここからは儂の仮説なのだが」ターナー教授の声に、研究者としての熱がこもり始めた。
「おそらく、あの魔法は、物質の表面に、極めて親水性の高い、つまり水と強く結びつく性質を持つ『官能基』を、強制的にコーティングしているのではないか、と。いわば、物質の表面に、水を掴んで離さない無数の『小さな手』を生やしているようなものだ。だからこそ、塗装のノリが良くなり、水による腐食を防ぐ。そして、分子レベルではなく、マクロな表面にしか作用しないように見えるのも、そのためだと考えれば説明がつく」
「親水性の官能基を…コーティングする…」 レオナールは、その言葉を反芻した。彼の脳裏に、水酸基(-OH)やカルボキシル基(-COOH)といった基本的な官能基が思い浮かぶ。それらが物質の表面にびっしりと並んだ状態。それは、極めて高い極性を持つ、理想的な吸着面の姿だった。
「そこで、本題だ」ターナー教授は、レオナールの目を見て、ニヤリと笑った。「この奇妙な魔法、我々のクロマトグラフィーの『固定相』に応用できないだろうか?」
その提案は、レオナールの思考に、まるで稲妻のような衝撃を与えた。
固定相。クロマトグラフィーにおいて、分離したい物質を一時的に吸着させ、その性質の違いによって分離を引き起こすための、まさに土台となる素材。アヘンの精製や色素の分離において、彼らはこれまで、ベルク紙の原料でもあるリノ草の繊維を加工したものや、木炭の粉末を固定相として用いてきた。それらは一定の成果を上げたが、レオナールは常にその性能に限界を感じていた。分離能が低く、目的の物質を完全に単離するには至らない。マルクスからの報告でも、モルヒネ結晶の分析には難渋しているようだった。複雑な混合物を分離するためには、全く新しい、高性能な固定相が不可欠だった。
(炭素や紙の繊維を固定相とすることには、限界があると感じていた。もっと表面積が大きく、そして何より強い極性を持つシリカゲルのような素材が必要だ。だが、その具体的な製造方法が分からなかった。だが、もし…!)
「先生、その魔法を、素焼きの陶器にかけてみるというのは、どうでしょう?」
レオナールの口から、抑えきれない興奮と共に、新たなアイデアが飛び出した。
「素焼き、だと?」ターナー教授が、意外そうな顔で聞き返す。
「はい。クラウスさんがフィルター開発で使っていた、あの素焼きの器です。その内部は無数の微細な孔を持つ多孔質な構造になっている。その広大な表面積を持つ多孔質な内壁に、先生がおっしゃる『親水性の官能基をコーティングする魔法』をかければ、もしかしたら…我々が求める、極めて分離能の高い、全く新しい固定相を創り出せるかもしれません!」
その着想は、二人の知性が交錯した瞬間に生まれた、まさにブレイクスルーだった。ターナー教授が提示した古の魔法という「点」と、レオナールが抱えていた固定相への課題という「点」。その二つが、今、確かな「線」として結ばれたのだ。
「ほう…!」ターナー教授の目が見開かれ、やてその口元に満足げな笑みが広がった。
「素焼きの多孔質な表面を、極めて親水性の高い吸着面に変える、か。面白い!実に面白いぞ、レオナール君!試す価値は、大いにありそうだ!」
アヘンからモルヒネをより高純度で。アオカビの培養液から未知の抗菌物質を。彼らが追い求める数々の宝は、より高性能な分離技術なくしては手にすることができない。古の錬金術師が遺した不可解な魔法が、今、最先端の科学と結びつき、その道を切り拓くための、新たな鍵となろうとしていた。