第百四十六話:特別研究科二期生
貴族学院の変人の砦から戻ったレオナールの足はターナー教授の元へと向かっていた。
センター長室の重厚な扉を叩くと、「入ってくれたまえ」という、いつもと変わらぬぶっきらぼうな声が返ってきた。中では、ターナー教授が真新しい実験器具の配置について、クラウスに細かく指示を与えているところだった。
その背中からは、研究が新たな段階へと進んでいることへの静かな熱意が感じられる。レオナールの姿を認めると、教授は「おお、戻ったか。して、あの変人は息災であったかね?」と、アシュトンの安否(というよりは、迷惑をかけられなかったか)を尋ねてきた。
「はい、お変わりなく研究に没頭されていました。それと、先生にご報告とご相談が…」 レオナールがアシュトン博士との詳細や、不在だったクレアの件について切り出そうとした、その時だった。
「その話も興味深いが」とターナー教授は、珍しく彼の言葉を遮った。
「その前に、副学長先生がお呼びだ。私と、それから君にも、至急話があるとのことだ。以前話した件についてだ」
「以前の件…まさか、特別研究科の二期生について、ですか?」
「うむ。なんでも、君が留守の間に選考が最終段階まで進み、君の意見も聞いておきたいそうだ」
その言葉に、レオナールは思考を切り替えた。自分がアンブロワーズにいる間に、学院では次の才能を探す動きが着実に進んでいたのだ。彼はターナー教授と共に、副学長の執務室へと向かった。道すがら、教授が補足するように説明する。
「私も詳しいわけではないが、どうやら一人、とんでもないのが最終候補に残っているらしい。昨年入学したばかりの新二年生で、専門は数学だとか。指導しているジオメトラ教授が『百年、いや、この学院の歴史の中でも随一の才能。彼の頭脳は、もはや魔法だ』と、あの謹厳実直な老教授らしからぬ熱量で推薦してきたそうだ」
副学長の執務室は、相変わらず整然としており、書物のインクと古い羊皮紙の微かな香りが、思考の深さを感じさせる静寂を演出していた。副学長は、二人を穏やかな笑みで迎え入れると、まずレオナールに向かって、深く温かい労いの言葉をかけた。
「レオナール君、まずは、長きにわたるアンブロワーズでの調査、そして先だって君から提出された報告書、実にご苦労だった。その内容は、単なる技術的な成果報告に留まらない、君自身の大きな成長の記録として、私も深く拝読させてもらったよ。絶望的な状況下で、赤子を救ったその判断力と技術、そして母体を救えなかった現実からも目を背けず、次なる課題を見出したその姿勢。君がまた一つ、重い覚悟をその肩に背負ったことが伝わってきた。本当によくやった」
「…身に余るお言葉、誠に恐縮です」
レオナールは、自らの苦い敗北と倫理的な葛藤すらも肯定的に評価してくれる副学長の言葉に、胸が熱くなるのを感じながら、深く頭を下げた。
「さて、本題に入ろう」副学長は、場の空気を切り替えるように、本題へと移った。
「君が不在の間、特別研究科の二期生の選考を進めていた。そして、ターナー君から聞いたかもしれんが、現在、一人の新二年生が最終候補として残っている」
彼は手元の書類に目を落とし、その異能の持ち主について語り始めた。
「その学生は、入学時の適性検査で、魔力こそ平凡だったが、論理構築能力と空間認識能力において、過去に例を見ないほどの突出した成績を記録した。貴族の子弟ではあるが、家で数学に関する特別な教育を受けていたわけではないらしい。ただ、幼い頃から、誰に教わるでもなく、独学で数学の古書を読み解くことに没頭し、数の世界の法則性に魅了されていたという。入学後は、即座に数学の権威であるジオメトラ教授の研究室の門を叩き、この一年間で、これまで学院の数学者たちが何年も解けずにいたいくつかの難問――例えば、古代文明の遺跡から発掘された暗号の解読や、天体の運行軌道に関する複雑な計算モデルの構築などを、いとも容易く解決してしまったそうだ」
その経歴は、異質という言葉では足りなかった。まさに、異能。
「ジオメトラ教授からの推薦理由は、ただ一つ。『彼の才能は、この学院の、いや、王国の至宝となる。既存の教育の枠に押し込めることは、その才能の冒涜に他ならない』とまで書かれておった。あの老教授が、これほど感情を露わにするとは、よほどのことだよ」副学長は、少し楽しそうに付け加えた。
「研究テーマは、純粋数学の領域だ。君のように大規模な実験設備や高価な薬品を必要としない。極論、ベルク紙とペンさえあれば、彼の研究は進む。学院としては、これほどローコストで、かつ特異な才能を囲い込み、育成できる機会はない。まさに、特別研究科の理念に合致する人材と言えよう」
レオナールは、その話を聞きながら、自身の研究の未来に、新たな光が差し込むのを感じていた。ローネン州でのデータ分析で、彼は統計的な思考法――帰無仮説の検定――を用いた。それは、あくまで手計算で可能な方法による、ごく単純な検定に過ぎなかった。もし、数学という純粋な論理体系を極めた専門家が仲間になれば、より高度なデータ解析、例えば複数の要因が絡み合う疫学モデルの構築や、薬物動態を記述する数理モデルの作成、あるいは抗菌薬の阻止円の大きさと濃度との関係性を関数で示すといった、全く新しいアプローチが可能になるかもしれない。
「私に異論はありません」レオナールは、きっぱりと答えた。「むしろ、ぜひ仲間になっていただきたい。私の研究分野でも、統計処理やモデル化といった、高度な数学的知識を必要とする場面が今後増えていくはずです。そのような方と議論できれば、我々の研究も、これまでとは比較にならないほど深く、そして速く進展するでしょう」
「うむ、君ならそう言うと思っていたよ」副学長は満足げに頷いた。
「それで、彼の処遇だが、特別研究科に籍を置くことになっても、研究活動の拠点は、これまで通りジオメトラ教授の研究室となるだろう。彼の才能を最も深く理解し、伸ばせるのは、やはり専門の指導者だからな。ただ、君と同様に、物質科学研究センター内に専用の研究個室を与え、君たち研究員との交流を促したいと考えている。異なる分野の才能が交わることで、誰も予測しなかったような、新たな相互作用が起きるかもしれんからな」
その配慮は、レオナールにとってもありがたいものだった。孤高の天才を孤立させるのではなく、緩やかな繋がりの中で、互いの知性を刺激し合う。それこそが、特別研究科が目指すべき理想の形だろう。
「承知いたしました。ぜひ、そのように進めていただければと存じます」
話がまとまり、レオナールは新たな才能との出会いに、静かな期待を膨らませていた。化学、医学、そして魔法。そこに「数学」という、世界を記述するための最も純粋で強力な言語が加わる。それは、彼の探求が、また一つ新たな次元へと飛躍する予兆に他ならなかった。
「それで、副学長先生。その方は、どのような…?」
レオナールが、そのまだ見ぬ数学の天才について尋ねようとした時、副学長は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「まあ、そう焦るな。近いうちに、君たちにも紹介する機会を設けよう。なかなか面白い人物だから、楽しみにしておくことだ」
その言葉に、レオナールは頷いた。近いうちに会ってみたい。一体どんな人物なのだろうか。彼の胸には、新たな仲間を迎えることへの期待が満ちていた。




