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血液内科医、異世界転生する  作者:
抗菌薬の光
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第百四十五話:細菌の正装

レオナールは、一つの重要な目的を胸に、再び貴族学院へと向かう準備を整えていた。彼の傍らの鞄には、グライフ商会から研究用に譲り受けた、貴重なヨード溶液の入った遮光瓶が、厳重な梱包に守られて静かに収められている。これこそが、彼の次なる挑戦――細菌感染症という「見えざる敵」に、その正体を示す「正装」を与えるための鍵となるはずだった。


馬車が貴族学院の優美な門をくぐり、古びた別棟へと向かう。以前訪れた際に耳にした、クレア先生の研究によるものであろう、あの腹に響くような爆発音は、今日は聞こえてこない。その静けさに、レオナールはわずかな違和感を覚えた。

(先生の研究室が休みというわけでもないだろうが……。後で、少し様子を見に行ってみよう)


アシュトン博士の研究室の扉の前に立つと、相変わらず『至高なる微小世界の探求を妨げる者は…』の警告文が、来訪者を威圧するように貼られている。静かにノックし、名を告げると、中から「おお、レオナール君か! 入ったまえ!」という、以前よりも幾分か機嫌の良さそうな声が返ってきた。


扉を開けると、そこは相変わらず、アシュトン博士の混沌とした聖域だった。様々な標本や培養器具、そして用途不明のガラクタが、彼なりの秩序をもって配置されている。部屋の主は、巨大な『深淵を覗く窓』Mk-IVの接眼レンズを覗き込みながら、何やら満足げに鼻歌などを口ずさんでいた。

「先生、ご無沙汰しております。レオナールです。お変わりありませんか?」

レオナールが声をかけると、アシュトンはゆっくりと顔を上げ、分厚い眼鏡の奥の目を輝かせた。

「おお、レオナール君! いやはや、本当に久しぶりではないか! 君こそ、北の辺境まで長い間、旅に出ていたそうじゃないか。この儂を放っておいて!」

アシュトンは、少し拗ねたような、それでいてレオナールの帰還を喜んでいるような複雑な口調で言った。


「ご心配をおかけしました。アンブロワーズでの調査について、先生にご相談したいことが山ほどあります。ですが、その前に。例の件以来、ご自身の研究室に籠もっておられると伺っておりましたが、最近はすっかりお元気だと聞いております。お加減はもうよろしいのですか?」

その言葉に、アシュトンはわざとらしく咳払いを一つした。

「ふん、当然だとも! この儂ほどの天才にかかれば、少々の災難など研究の肥やしに過ぎんわい! おかげで、俗世の邪魔も入らず、この城でじっくりと研究に没頭できたし、夜には夜で、まあ、その…心身のリフレッシュもできたからな!実に有意義な時間だったわ!」

彼はふんぞり返って見せたが、その瞳には研究に没頭できたことへの満足感が隠しきれていない。

「それはようございました。先生が研究に集中できるのが一番ですから。本日は、以前お話しした染色法の件で、重要な進展がございましたので、ご相談に上がりました」

「ほう! 色素の探求かね! いいぞ、いいぞ! この儂も、君が置いていった色素で様々なものを染めてみたが、実に奥深い! まるで、微小なる世界の宝石箱をひっくり返したようだ!」


レオナールは頷くと、鞄から慎重にヨードの入った遮光瓶を取り出した。

「先生、こちらはアンブロワーズの地で入手した『ヨード』という物質です。以前、先生がミョウバンを媒染剤として用いるという、素晴らしい着想を披露してくださいましたが、このヨードもまた、特定の色素と強く結びつき、対象物への定着を助ける、極めて強力な媒染剤としての性質を持つことが分かりました」


彼は、マルクスと共に進めている様々な植物色素のスクリーニング結果と、このヨードを組み合わせることで、全く新しい染色法が確立できるかもしれない、という自身の仮説を熱心に語り始めた。


「先生にお願いしたいのは、このヨードを媒染剤として、いくつかの色素を組み合わせ、細菌を染めていただきたいのです。私の仮説では、細菌の種類によって、細胞壁の構造に違いがあるのではないかと考えています。そして、その構造の違いによって、色素がヨードと共に強く細胞壁に結合し、後の脱色操作でも色が抜けない『媒染作用の強い細菌』と、結合が弱く、容易に色が抜けてしまう『媒染作用の弱い細菌』に分けられるのではないか、と。そして、色が抜けた後者には、対比染色として薄めの色素を乗せることで、細菌を二色に染め分けることが可能になるはずです。これこそが、細菌の正体を分類するための、最初の大きな一歩となるのです」


アシュトンは、レオナールのその革新的なアイデアに、最初は目を丸くしていたが、やがてその口元がニヤリと歪んだ。

「ほう…! 二色による染め分けだと? 細菌どもに、2種類のドレスを着せて分類する、と! なんと悪趣味で、なんとエレガントな発想だ! 面白い! 実に面白いぞ、レオナール君!」

彼の探求心は、完全に火が付いたようだった。「よし、その挑戦、この儂が受けて立とうではないか! この『深淵を覗く窓』をもってすれば、細菌一匹一匹のドレスコードの違いまで、白日の下に晒してくれるわ!」


その時、レオナールはアシュトンが覗き込んでいた顕微鏡の横に、見たこともないような複雑なレンズの組み合わせや、微細な魔力回路が刻まれた水晶板が置かれているのに気づいた。

「先生、そちらは…また新しい改良を?」


「ん? おお、これかね?」アシュトンは、まるで秘蔵のコレクションを見せるかのように、にやりと笑った。

「これはな、光の『位相』というものをだな、こう…ぐにゃりと曲げて、透明なものでも見えやすくするという、まあ、常人には理解できん領域の試みでな。完成すれば、染色せずとも細胞の内部構造が…むにゃむにゃ…」

博士は再び専門用語と擬音に満ちた、常人には理解不能な説明を始めたが、レオナールには、彼が位相差顕微鏡、あるいは微分干渉顕微鏡に近い原理のものを、この世界で独自に開発しようとしていることだけは理解できた。その探求心は、やはり底が知れない。


一通り染色法の計画について話し終えた後、レオナールはふと思い出したように尋ねた。

「そういえば先生、今日はクレア先生の研究室の方から、いつもの爆発音が聞こえてきませんが、ご存知ですか?」

「ん? クレア嬢かね?」アシュトンは、心底どうでもよさそうに肩をすくめた。「ああ、そういえば、ここしばらく静かだな。あのお転婆娘、最近はほとんど研究室に姿を見せんのだよ。おかげで、我が愛しの微生物たちも、ようやく安寧の日々を取り戻したというわけだ。実に結構なことだわい」

「いらっしゃらないのですか? どこかへ出張にでも?」

「さあな。儂の知ったことではないわい」

アシュトンは、全く興味がないといった様子で、再び顕微鏡の接眼レンズに目を戻してしまった。


レオナールはアシュトン博士に礼を述べ、研究室を後にした。その足で、彼は以前訪れた、クレアの研究室へと向かった。扉の前まで来たが、中から物音はせず、人の気配もない。

ノックをしてみるが、やはり応答はない。ドアノブに手をかけてみるが、固く施錠されていた。

(本当に、不在なのか……。あれほど研究に情熱を注いでいた先生が、これほど長く研究室を空けるとは。何かあったのだろうか)

レオナールの胸に、わずかな、しかし拭いきれない不安の影が落ちた。だが、今はそれを確かめる術はない。彼は、グラム染色という新たな研究への期待と、かつての恩師の不在という小さな謎を胸に、貴族学院を後にするのだった。

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