第百四十四話:見えざる敵の分類
王都アステリアに帰還してから数日間が過ぎた。物質科学研究センターの中央分析室は、レオナールが帰還したことで、静かな、しかし途切れることのない知的な熱気に満ちていた。
その一角に設けられたデスクで、レオナールはアンブロワーズ遠征で得た膨大な知見を、二通の公式報告書としてまとめる作業に没頭していた。
一通は、副学長を通じて学院へ提出する、純粋に学術的な調査報告書。グライフ商会が持つ「創縫術」の観察記録、兎人族が用いる「痺れの術」の魔法的・医学的考察、そして胎盤早期剥離に対する帝王切開という世界初の試みの詳細な記録。成功と失敗、その全てを客観的な事実として後世に残すための、科学者としての責務だった。
もう一通は、ファビアン・クローウェルへ提出する、より戦略的な価値に焦点を当てた報告書。アンブロワーズ伯爵領の医療技術レベル、その軍事的応用可能性、そして『白き結晶』が将来的な交渉において持ちうる価値の再評価。そこには、冷静な分析官としての視点が求められた。
特に、コンラート会頭との最終交渉については、言葉を慎重に選んだ。
『…交渉の最終段階において、私個人の判断で、将来的な外科技術の公認を王国側から働きかけるという可能性を、交渉材料として提示いたしました。これにより、グライフ商会が秘匿してきた解剖に関する情報開示の約束を取り付けましたが、これは私の権限を越えた越権行為であったやもしれません。最終的なご判断をファビアン殿に委ねたく存じます』
ペンが、ベルク紙の上を滑る。インクが染みる微かな音だけが、彼の周囲の静寂を支配していた。報告書の中で「術後合併症」の項目を執筆する際、彼の思考はエレナの死へと深く沈潜していく。奇跡的に成功させたはずの手術。腕の中に確かにあった新しい命の温もり。だが、その希望を無に帰した、目に見えぬ敵――術後感染症。
(あの時、我々の手にはなすすべがなかった……)
彼の脳裏に、分析室の向こう側でマルクスが誇らしげに培養棚に並べるシャーレの光景が重なる。アオカビと、そして土壌から分離された放線菌。それぞれが産生する未知の物質が描く、見事な「阻止円」。それは、無数の命を脅かす目に見えぬ敵に対し、人類がようやく掴んだ反撃への確かな手掛かりだった。
レオナールは、その中で最も大きな阻止円を形成しているアオカビ由来のサンプルを思い浮かべた。
(素晴らしい阻止円だ。強力な抗菌活性を持つことは間違いない。だが…)
彼の思考は、前世の医師としての冷徹な分析へと移行する。
(このアオカビから得られる物質が、前世のペニシリンに類するものである可能性は極めて高い。だとすれば、その抗菌スペクトラム…つまり、効果を発揮する細菌の種類は、おそらくブドウ球菌やレンサ球菌といった『グラム陽性球菌』に限られるだろう)
その推論は、彼の心に再び、あの夜の無力感を蘇らせた。母エレオノーラを最終的に死に至らしめたのは、胆管炎が引き起こした敗血症性ショックだった。胆道感染症の主な原因菌は、その多くが大腸菌やクレブシエラといったグラム陰性桿菌だ。
(もし、母を襲ったのがグラム陰性桿菌だったとしたら、たとえこのアオカビの薬が間に合っていたとしても、彼女を救うことはできなかったかもしれない。ペニシリンという最初の奇跡の薬も、万能ではなかったのだから。あの時、俺の知識と魔法は、結局のところ、迫りくる死の運命を前にして無力だったのだ…)
その現実は、抗菌薬開発の道のりが、単一の特効薬を見つけるだけでは終わらない、より複雑で困難なものであることを示していた。
レオナールは次に、マルクスが土壌から分離したという放線菌のシャーレに目を移した。こちらも見事な阻止円を形成している。絶望の淵で、一条の光が差し込む。
(だが、希望がないわけではない。マルクスさんが見つけてくれた、この放線菌。もし、ここからストレプトマイシンのようなアミノグリコシド系の抗菌薬が見つかれば話は別だ。毒性はペニシリンより遥かに高く、腎臓や聴神経への副作用も常に念頭に置かねばならないが、グラム陰性桿菌にも有効なスペクトラムを持つ。グラム陽性菌に効くアオカビの薬と、グラム陰性菌にも効く放線菌の薬。その二つが揃えば、ようやく細菌感染症という強大な敵と戦うための、最低限の武器が揃うことになる)
さらに、彼の視線は研究室の奥へと向けられた。そこではターナー教授とクラウスが、マルクスがアヘンを精製する際に使ったカラムの改良について、新しい実験装置の設計図を広げながら議論を交わしている。
(そして、ターナー先生の研究…古の錬金術魔法を化学反応として再構築する試み。あれがさらに進展すれば、将来的にはペニシリンの構造を化学的に修飾し、その性質を変化させる『半合成』も可能になるかもしれない。そうなれば、スペクトラムをグラム陰性菌にまで広げたり、酸に対する安定性を付与して内服薬にしたりすることも、夢物語ではなくなる)
だが、それら全ては、一つの基本的な技術が確立されていなければ絵に描いた餅に過ぎない。レオナールは、改めて自らの課題を再確認した。
(どの薬が、どの敵に効くのか。それを見極めるための『物差し』がなければ、我々は闇雲に武器を振り回すことしかできない。必要なのは、目に見えない敵を分類し、その正体を明らかにする技術だ。治療戦略の第一歩は、常に正確な診断にある)
そのための鍵こそが「グラム染色」だった。細菌の細胞壁の構造の違いを利用し、紫と赤の二色に染め分ける、細菌学の最も基本的な分類法。その確立は、抗菌薬開発と臨床応用の両輪を動かすために不可欠だった。
(クリスタルバイオレットの代わりとなる紫の色素、サフラニンの代わりとなる赤の色素。これらは、アシュトン先生の助けを借りれば、マルクスさんが集めてくれた植物由来の色素の中から見つけ出せるかもしれない。そして、媒染剤となるヨード…)
彼の脳裏に、アンブロワーズで手に入れた、あの小さな遮光瓶が浮かんだ。グライフ商会が国外から独占的に輸入し、秘薬として扱っていた消毒薬。レオナールは、その一部を研究用としてグライフ商会から正式に譲り受けていたのだ。あれこそが、グラム染色を完成させるための最後の、そして最も重要なピースだった。
レオナールはペンを置くと、静かに立ち上がり、議論を終えた仲間たちに向き直った。その声には、静かな、しかし確固たる決意が込められていた。
「先生、マルクスさん、クラウスさん。抗菌薬のスクリーニングと並行して、私はこれから、細菌そのものを分類するための新しい染色法の開発に集中します。そのために、近いうちに一度、貴族学院のアシュトン先生の元を訪ねようと思います」
その名を聞いたターナー教授は、やれやれといった顔で肩をすくめた。
「アシュトンか…。あの男も、襲撃未遂の一件から立ち直って最近はようやく元気を取り戻したようだが、そうなるとまた騒々しくて面倒なことだ」




