第百四十三話:王都への帰還
王都アステリアの壮麗な城壁が、彼の眼前に再びその姿を現したとき、季節は冬の最後の名残を振り払うかのように、力強い生命の息吹に満ちた春へと移り変わっていた。
王立アステリア学院の門をくぐり、物質科学研究センターへと戻った彼の足は、まずセンター長であるターナー教授の研究室へと向かった。不在中の報告と、そして何よりも師の顔を見て、この複雑な心境を整理したいという思いがあった。
重厚な扉をノックし、懐かしいしゃがれ声の返事を聞いて中へ入る。そこには、山のようなベルク紙と、複雑なガラス器具に囲まれながら、新しい元素の反応性について思索を巡らせている、変わらぬ師の姿があった。薬品と鉱石の混じった独特の匂いが、レオナールに「帰ってきた」という実感を与えた。
レオナールの姿を認めると、教授は丸眼鏡の奥の目をわずかに見開き、次いで「ふん」と鼻を鳴らした。
「戻ったか、小僧。随分と長く辺境の空気を吸ってきたようだが、顔つきは悪くない。何か面白い発見でもあったのかね?」
ぶっきらぼうな言葉の中にも、弟子の無事を安堵する響きが確かにあった。
「ただいま戻りました、先生。ご心配をおかけしました」
レオナールは深く頭を下げると、アンブロワーズでの成果を、その光と影の両面から、詳細に報告し始めた。
「結論から申し上げますと、収穫は予想を遥かに超えるものでした。グライフ商会との間に、確かな協力関係の道筋をつけることができました。特に、筆頭術者のヴァレリー殿は、我々の目指す医療の未来を共有できる、得難い同志です」
彼はまず、輝かしい成果から語った。兎人族が用いる『痺れの術』を応用し、伝達針を開発し、自らを被験者とした脊髄麻酔に成功したこと。それは、この世界の外科医療の可能性を根底から覆しうる、画期的な一歩であったこと。
「相変わらず、とんでもないことをしでかす…」
ターナー教授は呆れたように言いながらも、その口元には抑えきれない笑みが浮かんでいた。だが、レオナールの報告が、あの吹雪の夜の死闘に及ぶと、教授の表情は次第に険しく、そして沈痛なものへと変わっていった。
「…ですが先生、私はまたしても、敗北しました」 レオナールは、胎盤早期剥離という絶望的な状況下で行われた、世界初の帝王切開について、淡々と、しかしその時の感情の昂ぶりを隠さずに語った。ヴァレリーとの奇跡的な連携、赤子を取り上げた瞬間の歓喜、そしてその直後に訪れた、術後感染症による母体の死。抗菌薬も、輸血技術もない現実の前で、為す術なく失われていく命。その無力感を、彼は包み隠さず師に伝えた。 「外科への扉は開きました。ですが、その扉の向こうへ安全に進むためには、我々にはまだ『武器』が足りていないのです」 報告を聞き終えたターナー教授は、しばらくの沈黙の後、重々しく頷いた。
「……君が北で壮絶な戦いを繰り広げている間、我々もただ遊んでいたわけではないぞ」 教授は、机の上に広げられた一枚の、極めて精密な図が描かれたベルク紙を示した。そこには、レオナールが見慣れた化学反応式に似た図式と、それを説明するかのような魔法陣が併記されている。
「君が出立してから、クラウス君に本格的に手伝ってもらってな。長年、儂が疑問に思っていた、古の錬金術魔法の化学的な再構築に取り組んでおるのだ」 教授の声には、新たな発見への興奮が満ちていた。
「驚くべきことにというべきか、想定していた事ではあるが、一部の錬金術魔法は、特定の『官能基』を付加したり、あるいは二つの分子を脱水して繋ぎ合わせる『縮合』といった、極めて具体的な化学反応を触媒していることが分かってきた。クラウス君の精密な測定技術と、君が構築した原子・分子のモデルがなければ、この発見はなかっただろう。これは、将来の化学合成への、大きな一歩となるかもしれん」
(先生とクラウスさんで、そこまで解明を進めていたとは…!)
レオナールは、その進捗に目を見張った。自分が不在の間も、王都の研究の歯車は、彼の想像以上の速度で回り続けていたのだ。
「ああ、そうだ」ターナー教授は、何かを思い出したように付け加えた。
「この特別研究科も、君が入ってからもうすぐ一年になる。そろそろ、来年度の二期生について、学院側から打診がきている。君の研究をさらに加速させるためにも、どのような人材を迎えるべきか…その件については、後日、改めてゆっくりと相談したい」
ターナー教授への報告を終え、レオナールは自身の研究チームが待つ中央分析室へと向かった。扉を開けると、そこにはマルクスとクラウスが、それぞれの持ち場で真剣な表情で作業に打ち込む姿があった。レオナールの帰還に気づくと、二人はぱっと顔を輝かせ、駆け寄ってきた。
「レオナール様!お帰りなさいませ!」
「ご無事で何よりです」
「お二人とも、留守の間ありがとうございました。素晴らしい働きだったと、ターナー先生から伺っています」
レオナールが労うと、マルクスが興奮した面持ちで、いくつかのシャーレが並んだ実験台へと彼を促した。
「レオナール様、早速ですがご報告が。クラウス殿が完成させてくれた新型フィルターのおかげで、抗菌薬のスクリーニングが飛躍的に進みました。まず、アオカビの中から、有望と思われる株を三種類、同定することに成功しました。こちらが、その培養上清による阻止円です」
示されたシャーレには、細菌が一面に生えた培地の上に置かれた濾紙の周囲だけが、見事に透明な円を描いて細菌の増殖を阻害している。エレナを死に至らしめた「見えざる敵」に対する、確かな武器の萌芽だった。
「さらに」マルクスは、別の棚に保管されていたシャーレを指差した。
「アオカビだけに頼るのではなく、他の微生物にも可能性を広げるべきかと愚考し、様々な場所の土壌を採取し、そこから分離した放線菌についてもスクリーニングを行いました。その結果、こちらからも、有用な株を五種類、見つけ出すことができました」
(放線菌まで…!マルクスさん、素晴らしい仕事ぶりだ。ストレプトマイシンや、数々の抗がん剤も、元は放線菌から見つかったものだ。これは、とてつもない宝の山になるかもしれない)
次に、クラウスが少し誇らしげな、しかし実直な口調で報告を続けた。
「レオナール様。有望な株が見つかったことで、次のステップである大量培養の必要性が出てまいりました。そこで、ターナー先生のご許可もいただき、現在、魔道具工房と共同で、大型の『ファーメンター(発酵槽)』の試作品作りに入っております。無菌状態を保ったまま、内部の液体を攪拌し、空気を送り込む機構…課題は多いですが、技師長も非常に協力的です」
アンブロワーズで、自分が一つの扉を開こうと奮闘している間、王都では二人の仲間が、いくつもの新しい扉を開いてくれていた。その事実に、レオナールの胸は熱くなった。アンブロワーズで直面した敗北とエレナの死。その深い影を振り払うかのように、王都の研究室には、未来の命を救うための確かな光が灯り始めていたのだ。
「お二人とも、本当にありがとうございます。あなた方のような素晴らしい仲間がいてくれて、私は本当に幸運です。さあ、私も今日から復帰します。アンブロワーズで得た知見も、きっと我々の研究の役に立つはずです。やるべきことは、いくらでもありますから」
彼の瞳には、悲しみを乗り越えた、より強く、そして揺るぎない決意の光が宿っていた。抗菌薬、輸血技術、そして新たな縫合糸。エレナの死が突きつけた課題を乗り越えるため、彼の探求は、再びこの物質科学研究センターを舞台として、さらに加速していく。