表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
血液内科医、異世界転生する  作者:
アンブロワーズへの道
141/167

第百四十話:知識の源泉

ヴァレリーの問いは、静かだった。しかし、その言葉は研ぎ澄まされたメスのように鋭く、レオナールの心の最も柔らかな、そして最も隠された部分へと真っ直ぐに突き刺さった。彼女の深い色の瞳は、ごまかしも、はぐらかしも一切許さないという、真理の探求者だけが持つ強い光を宿している。それは、長年、多くの死と生命の誕生に立ち会い、人体の神秘と向き合い続けてきた者だけが放つことのできる、揺るぎない意志の輝きだった。


(……ついに、来たか)


レオナールは、内心で静かに息をのんだ。いつか、誰かに、特にヴァレリーのような鋭い知性を持つ者には、必ず問われるであろう根源的な質問。彼は、このアンブロワーズの地に来て以来、いや、王立学院でターナー教授と出会い、自らの知識をこの世界で本格的に解き放ち始めた時から、常にこの問いに対する答えを準備してきたつもりだった。だが、それはあくまで論理の鎧であり、心の盾だった。今、目の前で、ヴァレリーという魂の同志ともいえる存在から、その魂そのものを問われている。用意してきた言葉が、いかに空虚で、不誠実なものに響くか。


全てを明かすことはできない。「私は、かつて別の世界で医師として生きていた」。そんな突拍子もない事実を、この世界の常識の中で生きる彼女が受け入れられるはずがない。下手をすれば、正気を疑われ、狂人として扱われ、築き上げてきた信頼関係そのものが、砂上の楼閣のように崩れ去るだろう。それは、彼が目指す医療革命の頓挫を意味する。


だが、嘘もつけない。目の前の女性は、自分と同じように、多くの無力感を味わい、それでもなお諦めることなく、血と泥の中で未知の医療を探求してきた、尊敬すべき先達だ。その真摯な問いかけに、作り話や不誠実な言葉で応えることは、彼自身の医師としての、そして一人の人間としての矜持が許さなかった。


レオナールは、ゆっくりと顔を上げた。窓から差し込む冬の淡い光が、彼の若々しい横顔に深い陰影を落としている。その瞳には、ヴァレリーの真摯な問いかけに対し、彼が今、語りうる最大限の誠実さをもって応えようとする、苦悩と覚悟が宿っていた。


「ヴァレリー殿。あなたのその問いに、私も誠意をもってお答えしなければなりません」レオナールは、落ち着いた声で語り始めた。その声は、部屋の静寂に吸い込まれるように、低く響いた。「ですが、その前に一つだけ、ご理解いただきたいのです。私がこれからお話しすることは、真実の全てではありません。そして、なぜ全てを話せないのか、その理由を今はまだ、お話しすることができないということを」


その異例の切り出しに、ヴァレリーはわずかに眉をひそめたが、黙って彼の次の言葉を待った。彼女は、目の前の若者が、言葉を慎重に、そして必死に選んでいることを感じ取っていた。


「あなたがおっしゃる通りです」レオナールは、きっぱりと認めた。視線を逸らすことなく、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返す。「エレナさんの手術…あの切迫した状況での私の判断や手技は、この世界で、この身体で、私が経験して得たものではありません。あれは、私が別の場所で学んだ、極めて体系化された知識と技術を、今の状況に合わせて応用したに過ぎないのです」


「別の場所で…?」ヴァレリーの声に、困惑の色が浮かぶ。


「はい」レオナールは頷いた。「それは、一つの書物や、一人の師から得たような断片的な知識ではありません。解剖学、生理学、薬学、病理学、そして臨床医学…その全てが相互に関連し合い、何世代にもわたる無数の人々の知見が積み重ねられ、一つの大きな学問体系として存在する、膨大な知の集積です。私がこれまで皆さんにお話ししてきた循環や呼吸の理論も、その壮大な学問体系の、ほんの入り口に過ぎません」


彼の言葉は、ヴァレリーにとって衝撃的だった。彼女が長年、暗闇の中を手探りで、死者の体という閉ざされた書物から、一文字ずつ必死に読み解いてきた知識の断片。それらが、どこか別の場所では、既に一つの壮大な、完成された「地図」として存在しているというのだ。それは、孤独な探求者であった彼女にとって、嫉妬を通り越して、畏怖の念すら抱かせるものだった。


「その学問体系は…一体、どこに存在するのですか?古の書物に記された、古代魔法文明の失われた叡智か何か…?」


ヴァレリーの問いは、この世界の常識の中で考えうる、最も論理的な推測だった。だが、レオナールは静かに、そして苦しげに首を横に振った。


「それをお話しすることが、今はできないのです」彼の声には、深い苦渋の色が滲んだ。「その知識の出所は、あまりに…この世界の常識や、人々が信じる世界の成り立ち、神々の教え、その全てを、根底から揺るがしかねないものです。私がそれを軽々しく語ることは、あなたに、そしてこの世界に、計り知れない混乱をもたらすかもしれない。その責任を負う覚悟が、今の私にはまだありません。そして、あなたにその重荷を背負わせることも、私にはできないのです」


ヴァレリーは、レオナールの言葉の奥にある、計り知れない重圧と、深い孤独を感じ取っていた。目の前の若者は、自分たちが想像もできないような巨大な秘密を、その若すぎる肩に、たった一人で背負っている。その事実が、彼の年齢にそぐわない落ち着きと、時折見せる深い憂いの理由なのかもしれない。彼女は、彼が単に知識をひけらかしているのではないこと、そして、何か途方もないものから自分たちを守ろうとしていることすら感じ取っていた。


「ですが」レオナールは、ヴァレリーの目を再び真っ直ぐに見つめ、静かに、しかし力強く言った。「私は、あなたに誓います。いつか、必ず。私がこの世界の理をさらに深く学び、私の知識がこの世界にもたらす影響を、私自身が受け止める覚悟ができた時。そして何よりも、ヴァレリー殿、あなたがその真実を知る準備ができたと、私が確信した時。その時には、私の全てをお話しします。私の知識の源泉も、私が何者であるのかも。それが何年先、何十年先になるかは分かりません。ですが、必ずその日を約束します」


その言葉は、もはや単なる言い訳や先延ばしではなかった。彼の瞳には、一点の曇りもない、絶対的な誠実さが宿っていた。それは、異なる世界で、異なる道を歩んできた二人の探求者が、未来の多くの命を救うという一つの目標のために、互いの全てを賭けて共に歩むことを誓う、魂の契約の申し出だった。


ヴァレリーは、レオナールの瞳の奥に宿る、あまりにも深く、そして揺るぎない誠実さの光に、ただ圧倒されていた。彼が背負う秘密の重さは計り知れない。だが、その秘密の先にあるであろう、まだ見ぬ医療の地平への渇望が、彼女の探求者としての魂を強く揺さぶった。そうだ、自分もずっと一人だった。このアンブロワーズの地で、禁忌とされる解剖を行い、血と泥の中で、たった一人で答えを探し続けてきた。その孤独を、目の前の若者は理解し、そして共に背負うと申し出てくれているのだ。


長い沈黙の後、彼女の顔に、これまでにないほど穏やかで、そして力強い決意に満ちた笑みが浮かんだ。それは、長年探し求めていた同志を見つけた者の、安堵と喜びに満ちた表情だった。


「……分かりました、レオナール様。そのお言葉、信じましょう。あなたのその『誓い』を、私もまた、共に背負わせていただきます」


彼女は、レオナールに向かって、そっと右手を差し出した。それは、この世界の騎士たちが誓いを交わす時に行う、固い握手のための仕草だった。その手には、幾度となくメスを握り、多くの命に触れてきた者だけが持つ、力強さと優しさが宿っていた。


レオナールもまた、その手を力強く握り返した。ヴァレリーの手は、暖かかった。

「ありがとうございます、ヴァレリー殿」


冬のアンブロワーズの地で交わされたその誓約は、やがて王国の、いや、世界の医療の歴史を大きく塗り替えることになる、静かで、しかし確かな第一歩となったのである。二人の探求者の間に結ばれた見えざる絆は、降りしきる雪のように静かに、しかし確実に、未来への道を固めていくのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ