第百三十八話:命の対価
彼の脳裏には、この数日間の出来事が、鮮明に、そして残酷に焼き付いていた。奇跡的に成功させたはずの帝王切開。母子ともに救えるかもしれないという淡い希望。だが、その希望は術後三日目の昼過ぎ、エレナを襲った高熱とショックによって無残に打ち砕かれた。腹腔内感染による敗血症。抗菌薬のないこの世界では、一度火の手が上がってしまえば、もはや消し止める術はなかった。昨日、ヴァレリーと共に下した緩和ケアへの移行という決断。それは、医師としての敗北宣言に他ならなかった。母を救えなかったあの夜の無力感が、再び彼の全身を苛んでいた。
レオナールは、ヴァレリーに後を託すと、這々の体で治療院を後にした。アンジェの朝は、残酷なまでに晴れ渡り、雪に反射した朝日がやけに目に染みた。睡眠不足で頭は鉛のように重く、夜を徹した手術と術後管理で消耗しきった体は、一歩進むごとに軋みを上げた。隣を歩くギルバートの支えがなければ、今にも雪の残る石畳に崩れ落ちてしまいそうだった。街の喧騒が、まるで水の中にいるかのように遠くに聞こえる。
ゲストハウスに戻ると、彼は外套を脱ぐのももどかしく、そのまま私室のベッドに倒れ込んだ。全身の力が抜け、指一本動かせない。母を救えなかったあの夜の無力感が、再び彼の全身を苛んでいた。
だが、今回は決定的な違いがあった。確かに母を救えなかった時と同じように、一人の命を失った。しかし、今回は腕の中に、確かに救われた新しい命がある。帝王切開という禁忌の一線を越えたことで、赤子は無事この世に生を受けたのだ。そして、エレナの最期の表情は、苦悶に歪んではいなかった。痛みのない、穏やかな眠りのような顔だった。それは、彼がこの世界にもたらした『白き結晶』が与えた、もう一つの救いだった。命は救えなくとも、その尊厳を守り、腕の中に未来を繋ぐことができた。その事実だけが、彼の心を覆う絶望の中の、唯一の灯火だった。
「ギルバート」
レオナールは、かろうじて声を絞り出した。主の傍らに控えていた従者が、すぐにその消耗しきった様子を察して駆け寄る。
「王都へ戻る。再度、出立の準備を頼む」
「しかしレオナール様、この数日間、ほとんどお休みになっておられません。せめて、もう数日はごゆっくりと…」
「いや、一刻も早く戻らねばならない」レオナールの声には、揺るぎない意志が宿っていた。「やるべきことが、王都で山積みになって待っている。この敗北を、無駄にするわけにはいかないんだ」
一休みしてから再度、治療院へ向かう。院内は、ここ数日の激動が嘘のように、既に日常を取り戻していた。ヴァレリーは、何事もなかったかのように別の患者のカルテをめくり、若い術者に冷静な指示を与えている。ルーカスは、外来患者の傷の処置を手際よくこなしていた。その光景に、レオナールは改めて畏敬の念を抱いた。前世の自分も、これほどではないかもしれないが、同じような精神力で日々を乗り切っていたはずだ。だが、今の自分には、ひどく心身に堪える。もう何年も、本当の意味で臨床の最前線から離れていたからか。それとも、この若く、まだ成熟しきっていない身体が、消耗に追いついていないのか。
だが、彼らにとって、死は日常だ。一つの死に打ちひしがれている暇などない。次の患者が、彼らの助けを待っている。その絶え間ない責務を日々こなし続ける精神力と体力こそが、この辺境の医療を支えているのだ。
レオナールが、残された赤子とテリーの様子を見に行こうと待合室に差しかかった時、彼の耳に、押し殺したような、しかし切迫した声が聞こえてきた。
「ですが、これほどの金額、とても私には…」
「規則ですので」
声のする方を見ると、グライフ商会の事務長と思われる恰幅の良い男性と、憔悴しきった顔のテリーが向き合っていた。事務長の手には、ベルク紙にびっしりと項目が書き出された請求書が握られている。
「今回のエレナ様の治療は、前例のない特別なものでした。緊急手術、三日間の集中治療における施設費用、そしてスタッフの人件費。これらを最低限で見積もっても、この金額になります」
事務長は、淡々と、しかし非情な現実を告げる。それは、平民であるテリーが数十年働いてやっと返せるかどうかという、金額だった。
「お支払いいただけない場合、選択肢は二つ。この金額を、我がグライフ商会への借金として、生涯をかけて返済していただくか、あるいは…」
事務員の視線が、わずかにテリーの後ろ、まだこの世の理不尽を知らぬ赤子が眠るであろう病室の方へと向けられた。
「あるいは、亡くなられたエレナ様のお体を、我々の研究のために『献体』としてご提供いただくかです。そうすれば、今回の治療費は全て帳消しとさせていただきます」
人の死と命の価値を、金銭で取引する冷徹な現実。レオナールは、前世の倫理観から、そのシステムに強い嫌悪感を覚えた。だが、同時に理解もしていた。この世界では、それが医療を発展させるための、一つの合理的な仕組みとして機能していることを。
テリーは、わなわなと震える唇で、しかし必死に言葉を絞り出した。
「俺が…俺がなります!俺の身体でよければ、いくらでも!だから、妻の体だけは…安らかに…!」
しかし、事務長は静かに首を横に振った。
「申し訳ありませんが、その申し出はお受けできません。この制度は、あくまで亡くなられた患者様ご本人が対象となります。契約は、ご本人が受けられた治療に対するものですから。したがって、テリー様には借金という形でご返済いただくことになります」
その非情な宣告に、テリーはがっくりと膝から崩れ落ちた。その時だった。
「私が、支払いましょう」
レオナールの静かな声に、事務長とテリーが驚いて振り返った。
「レオナール様…!いえ、そのようなご迷惑は…!」
「迷惑ではありません」レオナールはテリーを制し、事務長に向き直った。「ですが、その前にテリーさん、あなたに、私の率直な意見をお話ししてもよろしいでしょうか」
彼はテリーの前に膝をつき、その目を見て、静かに、しかし力を込めて語り始めた。
「ヴァレリー殿が、これまで献体となってくださった多くの方々の体から学んでこられたからこそ、三日前、あなたのお子さんは救われたのだと、私は信じています。彼女たちが積み重ねてきた死者からの学びがなければ、あの状況で赤子を取り上げるという判断すらできなかったでしょう」
「そして…力及ばずエレナさんを救うことはできませんでしたが、彼女の身に何が起きたのかを正確に知ることは、未来の、彼女と同じ苦しみに直面するお母さんと赤ちゃんを救うための、かけがえのない礎となると、私は約束します。なぜ、手術の後に彼女の体は力尽きてしまったのか。その答えは、彼女の体の中にしか残されていないのです」
「ご家族にとって、故人の体にメスを入れることがどれほど耐え難いことか、お察しします。ですが、死因を究明し、彼女を蝕んだ病変を、死してなおその体から取り除くことで、未来の希望へと繋げる。そう考えることもできるのです。幸い、コンラート会頭のご配慮により、現在、解剖が見世物になることはありません。静かに、敬意をもって行われます。その点は、ご心配なさらないでください」
レオナールの言葉は、単なる慰めではなかった。それは、エレナの死に、未来の多くの命を救うという、尊い意味を与えるものだった。テリーは、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らしながら、何度も何度も頷いた。
「お願いします…!先生…!どうか、エレナを…未来の誰かのために…!あの子が、あの子が大きくなった時に、母親は多くの人を救ったんだと、そう伝えられるように…!お願いします…!」