第百三十七話:敗北と誓い
(術後三日目の発熱……感染症か)
レオナールの脳裏を、最悪のシナリオが駆け巡った。彼はすぐさまエレナの手を取り、手首の橈骨動脈に指を当てた。指先に伝わってくるのは、糸のように細く、そしてあまりに速い脈拍。明らかにショック状態を示唆する危険な兆候だった。
「輸液の滴下速度を上げてくれ! 全開だ!」
レオナールは、看護を担当していた若い産婆に鋭く指示を飛ばしながら、慌てて輸液チューブのクレンメを自らも緩める。今は一滴でも多くの水分を血管内に送り込み、かろうじて保たれている循環を維持することが最優先だ。
彼は次に、エレナの腹部にそっと手を置いた。兎人族の術者が施した『痺れの術』と、持続投与されている『モルヒネ結晶』の効果で、腹壁の筋肉の緊張は分かりにくい。だが、腹部全体を優しく、しかし深く圧迫していくと、エレナは意識が朦朧としながらも顔を歪め、苦痛に身じろぎをした。明確な圧痛がある。彼は腹部に直接耳を当て、腸の動きを探った。聞こえてくるのは、ごく弱々しく、散発的な蠕動音だけだった。生命の営みが、内側から静かに停止しようとしているかのようだった。
(間違いない。腹腔内で何かが起きている。術後のイレウスも考えられるが、この高熱とショック状態は、それだけでは説明がつかない。最も可能性が高いのは、腹腔内感染……手術部位に膿が溜まり、そこから細菌が全身に回り、血液そのものが毒に侵される敗血症性ショックだ)
治療法は、ただ一つ。腹を再び切り開き、膿を体外へと排出する「ドレナージ」しかない。しかし、彼の頭脳は、その選択肢が限りなく「不可能」に近いことを冷徹に弾き出していた。
(駄目だ……。彼女は数日前の大量出血で、極度の貧血状態にある。体の予備能力はゼロに近い。そもそも、採血すらできず、貧血の程度や臓器の状態を正確に評価することもできない。この状態で再手術の侵襲を加えれば、手術台の上で死ぬ可能性が高い。何より、我々には出血を補う輸血の技術がない…! 抗菌薬もない!)
抗凝固剤がなく輸血の研究を中断せざるを得なかったことが、今、致命的な足枷となって目の前の命を脅かしている。仮に輸血が可能だったとしても、この敗血症による凝固障害と、一度腹を開いた後の再手術の困難さを考えれば、救命は極めて難しいだろう。母を救えなかった時と同じ、圧倒的な無力感。
「ヴァレリー殿を呼んでくれ。急いでだ」
レオナールの声は、重く沈んでいた。
程なくして、血相を変えたヴァレリーが病室に駆け込んできた。彼女もまた、エレナの様子を一瞥しただけで事態の深刻さを理解した。レオナールは、自身の診察所見と、そこから導き出される「腹腔内感染による敗血症性ショック」という診断、そして再手術がいかに絶望的であるかを、簡潔に、しかし医学的な根拠を明確に示しながら伝えた。
「……つまり、膿を出さなければ助からない。しかし、手術をすればその場で死ぬ、ということですか」
ヴァレリーは、レオナールの説明を聞き終えると、絞り出すような声で言った。彼女もまた、術者としての長年の経験から、同じ結論に至っていた。前回の帝王切開や子宮摘出は、術式そのものは複雑であっても、「子宮」という明確な目標があった。だが、今回は違う。どこにあるか分からない膿瘍を、炎症で脆くなった腹腔内で探すのだ。手術時間は長引き、出血は避けられない。
「今の彼女に、その出血に耐える力は残っていません」ヴァレリーは、エレナの蒼白な顔を見つめ、静かに首を横に振った。「あなたの言う通りです。今メスを入れれば、私たちは彼女を手術台の上で殺すことになるでしょう」
その言葉は、二人の医師・術者としての、悲痛な敗北宣言だった。
エレナ本人は、高熱とショックで意識が混濁し始めており、苦しげに身じろぎを繰り返している。もはや、身の置きどころのない苦痛の中にいることだけは明らかだった。
レオナールとヴァレリーは、顔を見合わせると、静かに頷き合い、病室の外で待っていた夫のテリーを呼び入れた。
「テリーさん」レオナールは、彼の目を見て、静かに、しかし残酷な真実を告げた。「残念ながら、エレナさんの体の中で、手術の後に新たな問題が起きてしまいました。それが原因で、今の彼女は極めて危険な状態にあります」
ヴァレリーも、言葉を継いだ。「我々の持つ技術では、これ以上、彼女の体を傷つけることは、かえって彼女の命を縮めることになります。誠に……申し訳ありません」
テリーは、二人の言葉を聞き、わなわなと震える唇で、しかしはっきりとした意志を持って言った。
「先生方……。もう、いいんです」彼の目からは、大粒の涙が溢れていた。「あの日、エレナとあの子を助けてくれた。それだけでも、奇跡だったんです。これ以上、エレナに辛い思いはさせたくない。どうか……どうか、あの子の母親を、穏やかに……」
その言葉が、最後の決定打となった。
「これ以上輸液を続けても、心臓に負担をかけ、全身を水浸しにするだけです」レオナールはヴァレリーに告げ、補液の量を、循環を維持できる最低限まで絞るよう指示した。「今は、ただ彼女の苦痛を取り除くことだけを考えましょう」
レオナールはエレナの呼吸状態を観察しながら慎重にモルヒネ溶液の滴下速度を上げていく。すると、あれほど苦しげだった彼女の呼吸が、次第に深く、穏やかなリズムを取り戻していった。身じろぎも止まり、その表情から苦悶の色が消えていく。まるで、嵐が過ぎ去った後の湖面のように、静かな眠りへと沈んでいった。
その夜は、誰もがエレナの傍らで静かに付き添った。レオナールも、ヴァレリーも、そして夫のテリーも。言葉はなかった。ただ、一つの命が穏やかに閉じられていく様を、厳粛な思いで見守るだけだった。
翌朝。
柔らかな朝日が、治療院の清潔な病室を静かに照らし出していた。
レオナールが病室の扉をそっと開けると、いつも聞こえていたエレナの呼吸音は、そこにはなかった。部屋を満たしていたのは、薬草とリネンの匂い、そして厳粛なまでの静寂だけだった。
ベッドの上で、エレナは眠るように横たわっていた。シーツの乱れもなく、その顔には、この数日間、彼女を苛み続けた壮絶な苦しみの痕跡は、もはやどこにも見当たらない。ただ、全ての役目を終えたかのように、穏やかで、安らかな表情を浮かべていた。
彼女は、旅立ったのだ。
レオナールは、その安らかな顔を見つめながら、固く拳を握りしめた。母の時と同じ無力感。だが、今回は違う。明確な敵が見えている。そして、それを打ち破るための道筋も。
(……抗菌薬。そして、輸血技術。この二つがなければ、外科医療は決して完成しない。母を救えなかった悔しさ、そして今、エレナさんを救えなかったこの無力感を、二度と繰り返すものか……!)
冬の朝の冷たい光の中で、レオナールの心に、新たな、そしてより強固な誓いが刻まれた。