第百三十六話:血の相性
吹雪は、夜明けと共に嘘のように止んでいた。アンブロワーズの空は、洗い流されたかのように澄み渡り、雪化粧をまとった山々が、冬の力強い朝日を浴びて荘厳な輝きを放っている。治療院の中には、夜を徹した死闘の熱気と、それを乗り越えた安堵感が入り混じった、独特の静寂が満ちていた。
「…元気な男の子ですよ」
産婆の一人が、清潔な布にくるまれた小さな命を、母親の腕の中へとそっと運んだ。母親――エレナという名の、まだ二十歳になったばかりの若い女性――は、蒼白な顔にうっすらと血の気が戻り、疲労困憊の中にも、我が子を見つめる深い愛情の光をその瞳に宿していた。
「予定よりは少し早かったですが、体重も申し分ありません。今はすやすやと眠っています」
ヴァレリーが、母親のバイタルサインを改めて確認しながら、優しく声をかける。レオナールもまた、その傍らで頷いた。母親の意識レベルは清明、脈拍と呼吸も安定の兆しを見せている。何よりも、彼女の表情から、あの耐え難い苦痛の色が消え去っていることが、この手術の最初の成功を物語っていた。
「お腹の傷は…痛みますか?」
レオナールが尋ねると、エレナはゆっくりと首を横に振った。
「いえ…なんだか、温かいものがじんわりと広がっているような感じで、不思議と痛みは…ありません。あんなに、死ぬかと思うほど苦しかったのに…」
彼女の術後の苦痛は、二重の体制で厳重に管理されていた。腕に繋がれた輸液システムからは、微量の『モルヒネ結晶』溶解液が主に内蔵由来の痛みを和らげるために持続的に投与され、腹部の創そのものには、兎人族の術者が定期的に『痺れの術』を施すことで、局所的な痛覚を完全に遮断していた。
その時、妻子の様子を呆然と見守っていた夫――テリーが、おずおずとレオナールの前に進み出た。その目は赤く腫れ、安堵と感謝で言葉にならないといった様子で、彼はその場に崩れるように膝をついた。
「先生……いや、レオナール様……。本当に、何と御礼を申し上げてよいか……。妻も、この子も……本当に、ありがとうございます……!」
テリーは、嗚咽を漏らしながら何度も何度も頭を下げる。その深い感謝を受け止めながら、レオナールは静かに彼に語りかけた。
「顔を上げてください、テリーさん。私一人の力ではありません。ヴァレリー殿をはじめ、ここにいる全員で繋いだ命です。エレナさんも、赤ちゃんも、本当によく頑張りました」
そして、レオナールはわずかに表情を改め、真摯な眼差しで続けた。
「そして、あなたにも、謝らなければなりません。あの切迫した状況で、人工呼吸などという無茶なお願いをしてしまい、本当に申し訳なかった」
その言葉に、テリーは驚いて顔を上げた。
「ですが、あれ以外に奥様を救う道はなかったのです」レオナールは続けた。「あなたの勇気ある行動が、エレナさんの命を繋ぎ止めました。夫であるあなただったからこそ、できたことです。感謝します」
「滅相もございません!謝るなどと…!」テリーは、ぶんぶんと首を横に振った。「俺は、ただ言われた通りに必死だっただけで…。先生が、俺にやるべきことを示してくださった。それだけで…本当に……」
テリーは再び深く頭を下げると、産婆に抱かれた我が子と、ベッドで穏やかに眠る妻の元へと、おぼつかない足取りで戻っていった。
安堵の空気が流れる中、レオナールは一人、この壮絶な手術を冷静に振り返っていた。
(今回は、本当に綱渡りだった。特に循環管理。生理食塩水の急速輸液だけで、よくショック状態から持ちこたえられたものだ。もし、失われた血液そのものを補充する手段――輸血があれば、もう少し精神的なゆとりを持って、より安全に手術を進められたはずだ)
当然、この世界に血液製剤など存在しない。感染症検査も不可能。緊急時の「枕元輸血」が唯一の選択肢となるだろう。だが、そのためには血液の「相性」を事前に確認するクロスマッチ(交差適合試験)の技術が不可欠だ。
「ギルバート」治療院の一室で、レオナールは従者に告げた。「王都への帰還を、しばらく延期する。エレナさんの術後管理が安定するまで、そして、ここでやるべきことが、まだいくつか見つかった」
その日の午後、レオナールはヴァレリーの研究室を訪れた。突然の訪問に、ヴァレリーは夜を徹した手術の疲れも見せず、レオナールを迎えた。
「レオナール様。昨夜は、本当にありがとうございました。あなたの知識と決断がなければ、あの母子を救うことはできませんでした」
「いえ、ヴァレリー殿の卓越した手技があってこそです」レオナールは彼女の労をねぎらうと、本題を切り出した。「ですが、昨夜の手術で、私は改めて限界も痛感しました。そこで、ご相談が。もし、失った血液を、他者の血液で補うことができたなら、とお考えになったことはありませんか?」
「他者の血を…?」ヴァレリーの目が、驚きに見開かれた。「それは…古の禁術か、あるいは呪術の類では?血を混ぜ合わせるなど、極めて危険な行為だと…」
「ええ、無闇に行えば、です」レオナールは頷いた。「ですが、血には『相性』のようなものが存在します。相性の良い血であれば、受け入れて力を与え、相性が悪ければ、体が異物と見なして激しく攻撃し、死に至らしめる。その相性を、手術の前に、ごく少量の血液を使って安全に確認する方法があるのです」
ヴァレリーは、レオナールの言葉に食い入るように身を乗り出した。
「相性を…事前に確認する?一体、どのような原理で?」
レオナールは、ベルク紙を取り出すと、血液型(ABO式血液型)と抗原抗体反応の概念を、分かりやすく図解し始めた。赤血球の表面にある「名札(抗原)」と、血清の中に存在する「見張り番(抗体)」。異なる名札を持つ血が入ってきた時に見張り番が攻撃を仕掛けることで、赤血球が互いにくっつき合ってしまう「凝集」という現象が起きること。そして、クロスマッチとは、患者の血清(見張り番)と、血液提供者の赤血球(名札)を試験管の中で混ぜ合わせ、この凝集が起きないかを事前に確かめる試験なのだと。
その論理的で明快な説明に、ヴァレリーはもはや感嘆を通り越して、畏敬の念すら抱いているようだった。
「…信じがたい。血の相性というものが、そのような明確な理屈で説明できるとは…。ならば、すぐにでも試してみましょう!この治療院のスタッフなら、喜んで協力してくれるはずです!」
ヴァレリーの行動は迅速だった。彼女の呼びかけで、すぐに数名の術者や産婆たちが、腕をまくって採血に協力してくれた。
しかし、最初の壁はあまりにも単純で、そして根本的なものだった。
「駄目です、レオナール様!ガラス管に採ったそばから、すぐに血が固まってしまいます!」
ヴァレリーが、悔しそうに声を上げた。血液は空気に触れると数分で凝固し、ゼリー状になってしまう。遠心分離をすれば血清は取得できるが、赤血球が血餅となってしまっては凝集反応など観察できるはずもなかった。
「抗凝固剤が必要か…」レオナールは呟いた。前世ではヘパリンやEDTA、そしてクエン酸ナトリウムなどが当たり前に使われていた。
(クエン酸…カルシウムイオンを捕まえることで凝固を防ぐ。この世界で手に入るもので、代用できるものは…)
彼の脳裏に、酸味の強い果物が浮かんだ。
「ヴァレリー殿、うまくいかないかもしれませんが、一つ試してみたいことがあります。このレモンの果汁を、ごく少量、採血した直後の血液に混ぜてみていただけますか?」
それは、あまりに付け焼き刃のアイデアだった。だが、他に試せるものもない。ヴァレリーは半信半疑ながらも、彼の指示通り、新鮮な血液に数滴のレモン果汁を垂らした。
結果は、またしても失敗だった。血液は凝固こそしなかったが、血清は赤く染まってしまい、沈殿するはずの赤血球の容積が極端に少なくなってしまった。
「やはり…これは、溶血だ」レオナールは、顕微鏡で確認するまでもなく結論付けた。「レモン果汁の強い酸性か、あるいは浸透圧の差で、赤血球の膜が破壊されてしまった。これでは凝集反応は見られない」
(適切なpHと濃度に調整された、カルシウムキレーターを開発しない限り、安定した抗凝固は難しいか。これは、王都に戻ってからの、新たな研究課題だな…)
輸血への道は、また一つ、大きな壁に阻まれた。だが、その壁の正体が明確になっただけでも、大きな進展だった。
順調に見えたエレナの術後経過に、異変が起きたのは、手術から三日目の昼過ぎのことだった。レオナールがいつものように回診のため病室を訪れると、看護を担当していた若い産婆が、血相を変えて彼に駆け寄ってきた。
「レオナール様! エレナさんの様子が…! 先ほどから、なんだか様子がおかしくて…!」
レオナールは表情を引き締め、すぐさまベッドサイドへ向かった。ベッドの上で、エレナは苦しげに肩で息をし、その顔は異常なほど赤く上気している。彼女の額にそっと手を当てたレオナールは、その尋常ではない熱さに、息をのんだ。